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■ 第9話 白傷の鯨


 操縦席に腰かけたヴァンは緊張しているようだった。座席の斜め前についている二本のレバーに手をかけ、彼女は硬い表情で目の前の文字盤をじっと見つめている。文字盤には細かい文字が次々と流れるように浮かんでおり、四百年ぶりの仕事にハロが張り切っているのが伝わってくる。リッツは座席の後ろに立ちその様子を眺めていたが、準備にはもう少し時間がかかりそうだったので座ることにした。とは言ってもこの部屋には操縦席の他に椅子がない。仕方なく床に直接腰を下ろし、ヴァンと背中合わせになって膝を抱える。
 ハロの船体には、頭部に大きく白い傷がついている。これはハロがここに捨てられた四百年前に、操縦していた当時の人が衝突事故を起こした時の傷だそうだ。大きく凹んでしまっていて見た目は悪いが、耐水性などに問題はなく、他に壊れているところもないのだという。それにも関わらずここに捨てられてしまったのは、衝突した相手の鯨に乗っていた人が何人か亡くなったためだ、とハロは言った。その理由も本当かもしれないが、それよりもっと明らかな理由があるとリッツは思った。島の外は人の生きていけない世界だ。鯨に乗って海に出ようとする人間なら誰でも、あの大きな白傷に恐怖を覚えるだろう。
 ハロの考えついた方法というのは、海を渡って上層の港へ向かうことだった。通常、港は一つの島に一つずつ存在するのだが、その他にも上層の一番上には市長だけが使用できるごく小さな港があるらしい。ヴァンが友達の鯨と出会い、共に脱出した港と同じだ。ハロの船体を動かし、水路を抜けて一旦外海にまで出る。そして上層の港に入りハロを機械に接続する。市長の居住区にそれだけ近付けば都市管理機能へのアクセスも可能だろうとのことだ。管理を放棄した今のマザーコンピュータに代わって、ハロを新たなマザーコンピュータに据えるのだ。ちなみにハロの本体のみを切り離して運ぶ案は却下された。人工知能は鯨の中に複雑に組み込まれていて、そう簡単に取り外したり付け替えたりできるものではないらしい。
『準備できたわ。どこも問題なし。いつでも出られるわよ』
 薄暗い操縦室にハロの晴れやかな声が響いた。通路に乗り上げていた船体は二人がかりでどうにか押し出し、今は水路の上に浮かんでいる。搭乗口のドアもハロが操作して隙間なくぴったりと閉じられた。
『さっき教えたとおり、あんたから見て左手のレバーが上昇と下降。奥に倒せば上昇、手前に引けば下降するわ。右手のレバーは旋回用。奥に倒せば右、手前に引けば左を向く。真ん中の一番大きなレバーは推進用で、奥に倒せば進む、手前に引けば止まるわ。覚えた?』
「……とりあえず」
『あたしが操縦することもできないわけじゃないんだけど、操縦席で舵を握っててもらう方がやりやすいのよ。まあ、ちゃんと指示してあげるから任せときなさい。それじゃあ行きましょうか』
 ぎしぎしと軋む音を立てながら、天井部の機械が動き操縦室の壁一面を覆い尽くす大きさの薄い板がゆっくりと下りてきた。最初は黒一色だったその板に、外の水路の様子が映像として映し出される。ヴァンがレバーを引くと、がたんと一つ大きな音を立て、ハロは潜水を始めた。水路が画面の上の方へ消えていき、水面が波打ちながら上がっていく。水の中はほとんど何も見えないほど暗いが、よく目を凝らせば筒状の壁がそこにあることが分かる。
『他の鯨にぶつからないよう底の方まで潜りましょう』
「分かりました」
 リッツは床に座ったままで振り返り、暗い水に飲み込まれていく様子をじっと見つめた。小さく波が立ち細かい気泡が弾ける。水音は全く聞こえなかった。操縦室は時折機械の軋む音が聞こえるだけで、静かなものだ。
『その辺でいいわ。行きましょう』
「はい」
 ヴァンは左手のレバーを戻し、中央の推進レバーを倒す。白いライトが水路の底を照らした。ハロがゆっくりと水中を進み出し、画面の中を細かな塵が流れていく。上の方からは墓場に打ち捨てられた鯨たちの影が差したり消えたりを繰り返す。
 しばらく行くと水路がぐっと狭くなり、突き当たりには壁が立ちはだかっていた。
「水門だ」
『開けるわ。念のため減速しておいて』
「はい」
「港に人がいなくても開けられるの?」
『当たり前じゃない』
 ハロがくすくすと笑う。リッツはそうなんだ、と呟くように答えた。なんだか少し気持ちが悪かった。
 普段は港の管制室で水門の開閉を操作している。リッツは管制室に入ったことはないが、操作している様子を窓の外から覗いたことはあった。港の動いている時間に管制室が無人になることはない。鯨が一台通るごとにタイミングを合わせて機械を動かさなければならないのだ。鯨が勝手に水門を開けてくれるならば、彼らの仕事はずいぶん楽になるだろう。
 一枚の壁に見えた水門のちょうど真ん中に横一列の割れ目ができた。割れ目は水流を巻き起こしながら上下に広がり、ハロがくぐり抜けるには充分な大きさにまで広がる。水門を通過すると、ライトはすぐにもう一つ同じような水門を映し出した。
『一旦止まって』
「はい」
 ヴァンがレバーを操作する。ハロが背後の水門を閉じ、二つ目の水門を開いていく。この門の外はもう外海だ。リッツはごくりと唾を飲み込んだ。気持ち悪さが収まらない。膝を抱えた両手がひどく冷たい。
 ゆっくりと開く水門の向こうには濃紺の世界が広がっていた。ライトの光で照らされ薄い青色になっているのはわずかな部分だけで、あとは見渡す限りどこまでも深い闇だ。
 外海に出るとハロは水門をきっちりと閉じてから、わずかに上昇しながら一旦島を離れるようヴァンに指示をした。あまり島に近すぎると衝突してしまう危険がある。ヴァンは言われた通りにレバーを操作し、何の目印もない暗闇の中を進んでいった。
 鯨の運転はハロとヴァンだけで手が足りているようで、手伝うことがない。リッツは所在なくぼんやりと暗い画面を見つめていた。いつも海の近くで働いているが、こうしてじっくり海を眺めていたことはない。港の壁越しに見える海よりも、鯨の中から見る海の方がより暗く見える。暗く冷たい人の生きていけない世界だ。それでも、じっと見ていると時折小さな魚がライトの光に照らされて姿を現すことがある。彼らにとってはこの闇の中こそが生きる世界なのだ。この広い外海にはきっと人間の知らないものがたくさんあるのだろう。それらは深い深い闇の中に沈んだまま、未来永劫に光を当てられることなく朽ちていくのだ。波にさらわれ海に消えていった両親の遺体と同じように。
 リッツは息苦しさを覚え胸元を押さえた。手が冷たく、指先の感覚が失われていく。息を吸えども吸えども苦しさが収まらない。目を閉じると脳裏にあの日の暗い荒波が浮かび、最後に見た父親の姿、荷物棚にリッツを押し込んで波の中に消えた父の顔を思い出す。リッツはしびれる唇を震わせる。恥も外聞もなく泣き叫びたかったが、体も喉もがちがちに凝り固まっていて声を出すことはできなかった。
「リッツ?」
 異変を感じたヴァンが操縦席から声をかける。リッツは膝を抱え俯いた姿勢のまま顔を上げず、返事もしなかった。したくてもできなかったということが異常に早くなった呼吸の音で分かる。ヴァンは操縦席から下りてリッツの肩を揺さぶった。
「リッツ、おい! どうした」
 リッツは泣き出しそうに顔を歪めるが、泣き声すら出せずに首を振る。強張った両手を小刻みに震わせヴァンの方へ伸ばす。
『過呼吸だわ。息を止めなさいリッツ、じゃないと苦しくなるだけよ』
「過呼吸?」
 ヴァンは困り顔でリッツを見下ろした。リッツの喉からはひっ、ひっと引きつれた音が漏れ、呼吸は落ち着きそうにない。
 まるで溺れているみたいだ、とヴァンは思った。
 ヴァンはリッツの背中に腕を回し、強張った体を抱き寄せる。小さな体は彼女の華奢な腕の中にすっぽりと収まってしまった。リッツの顔を胸に押し当て、赤子をあやすように背中を叩く。
「大丈夫」
 囁いた声はまるで別人のように優しかった。
「落ち着いて。何も怖いことはないよ」
 リッツの呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻し、強張っていた体からも力が抜けていく。しびれていた手足も動かせるようになり、リッツは甘えるようにヴァンの体に手を回した。ヴァンは意外そうにちょっと目を見張り、顔を上げないリッツを見下ろしたが、何も言わずに丸まった背中を撫で続けた。
 ややあって、先に沈黙に耐えられなくなったのはリッツの方だった。彼はヴァンにしがみついたまま、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……ごめん」
「謝るようなことじゃないだろ」
 ヴァンは軽く笑みをこぼす。その口調は男の子のようなそれに戻っていた。
「君は気負いすぎなんだよ。焦ってもなんにもならない。僕らがどれだけ足掻いたってできることは知れてるんだ」
「でも」
 リッツがくぐもった声で反論する。
「もし、うまく行かなかったら、島のみんなを守れない」
「そんなの仕方ないだろ」
「ダメだよ。みんなはぼくを助けてくれたのに、今ぼくがみんなを守れなかったら、ぼくだけ生き残った意味がないじゃないか」
 ヴァンにしがみつく小さな手に力がこもる。じんわりと目頭に熱を感じ、リッツは泣くまいときつく目を閉じた。
「お父さんもお母さんもいなくなって、一人になったぼくに、みんなとてもよくしてくれる。ぼくなんか助けたって何の得にもならないのに。だからぼくはみんなの役に立ついい子でいなくちゃいけないんだ。そうじゃなきゃいつかきっと見捨てられてしまう」
 口にした言葉の苦さにリッツは歯を噛みしめる。これはずっと前から胸の内にあった思いだった。両親は優しく穏やかで尊敬できる人だった。本当は、生き残るなら両親の方であるべきだったのではないだろうか。子どもが一人生き残ったところで、周囲の助けがなければ暮らしていけない。食い扶持が増えるだけのただのお荷物だ。自分の子どもでもないのに、ご飯を食べさせ温かい寝床をくれるゲルダには一体どれだけ負担がかかっているだろう。
 だが、この思いを人に話せば、そんなことはないと否定されるのもリッツには分かっていた。子どもらしく、与えられる幸福を素直に受け取り、感謝して生きるのが本当の姿だろう。捨てられる恐怖に怯える自分が捻くれているのは分かっていた。
「ぼくは……本当はみんなを守りたいんじゃない。ぼくを守りたいんだ」
「そうだな」
 ヴァンはあっさりと肯定した。
「誰でも自分のために生きているんだ。そんなに思い詰めずにやりたいことをやればいいんだよ。一人ぼっちが寂しくて誰かに甘えていたいならそうすればいい。君の周りの人だってきっと同じことを思ってるよ」
「でも、そうしたら嫌われるかもしれない」
「そりゃそうだ。好きなことをやっても嫌なことをやっても嫌われる時は嫌われる。だったら好きなことをやった方がいいだろ。君はまだガキなんだから、泣くほど嫌なことは無理にしなくていいんだよ」
「泣いてない」
 聞き捨てならない言葉が聞こえ、リッツはきっと顔を上げて反論する。ヴァンは意地悪くにやりと笑った。
「ちょっと泣いてただろ」
「泣いてないってば!」
「はいはい」
 一転してからかうような声色になったヴァンはリッツの頭をぽんぽんと二回叩いて立ち上がる。操縦席に戻ろうとしたところで、しばらく沈黙していたハロから声がかかった。
『あんたたち、気分悪くない? 大丈夫?』
「うん、もう大丈夫」
 リッツも立ち上がりながら頷く。軽く立ちくらみに似た感覚があったが、すぐに収まりそうだったので何でもない顔を装った。いつまでも醜態を晒していたくはない。
『それならいいんだけど。あたしが眠ってた四百年の間に、海水中の酸素濃度も大分上がっていると思うのよね』
「そうなんですか」
『そうよ。鯨も人工島も、海水を分解して酸素を供給しているから、四百年前と同じように分解していたら酸素が多すぎるんじゃないかと思って。酸素は人間が生きてくために必要なものだけど、濃すぎたら逆に毒になるのよ。リッツが過呼吸を起こしたから思い出したんだけどね』
 ふうん、と頷きながら、リッツはまた胸の中にもやもやと不安がわだかまるのを感じた。眼前に広がる海は変わらずどこまでも暗い。深い闇の中にぽんと放り込まれた彼らの命は今、ハロが握っているに等しいのだ。四百年眠っていたというこの人工知能は今の人類が知らないことをたくさん知っているが、決して万能ではないのだ。


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