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■ 第10話 海の光


 暗い外海はどこまで行っても深い闇のように思えたが、ハロの指示に従って方向転換すると人工島の外壁がライトの光の向こうにぼんやりと浮かび上がった。島は大きな巻き貝をひっくり返したような形をしているはずだが、全形の見えない状態ではよく分からない。外壁にはびっしりと海藻が生い茂っており、流れに合わせてゆらゆらと怪しく揺れている。海藻の間から見え隠れする小さな魚がライトに驚いて逃げ惑う姿が見えた。
『着くわよ。減速して』
「はい」
 ハロに声をかけられ、操縦席のヴァンが背筋を伸ばす。リッツも思わず姿勢を正した。ヴァンの操作に合わせてゆっくりと上昇が止まり、水門の前で停止する。水路への入り口は下層と同じく円形をしているが、外壁と同じように海藻に埋め尽くされて判別しづらくなっていた。小型の鯨専用の港なのだろう、入り口は小さく少し運転を誤れば水路の壁にひれをこすってしまいそうだ。
『うーん……』
「どうしたの」
『電波が悪いみたい。あんまり使われてなかったみたいね……あ、開いた』
 水門は中央で上下二つに分かれていく。どこか滑りが悪いようで、動きはぎこちない。ちょうど開くところに生えていた海藻がちぎれ、悲しげに水中を舞っている。そよぐ海藻の群れに手招かれながら、ハロは前進を始めた。
「ちょっと待って」
「なんだよ」
 最初に不穏な空気を感じたのはリッツだった。がたがたと揺れる水門を注視し、不安を言葉にできず言いよどんだリッツは、次の瞬間悲鳴を上げた。
「閉まる!」
 もうすぐ全開になろうかというところで、水門が突如閉まり出したのだ。
「止まって、ぶつかるよ!」
『駄目、間に合わないわ! 速度を上げて!』
 水門はもう目の前にまで迫っている。リッツは必死にヴァンの肩をゆさぶったが、ハロは彼と逆の指示を出した。ヴァンはためらうことなく真ん中のレバーを思いっきり押し込む。機械が唸りを上げた。景色の流れが速くなり水路に飛び込んだ瞬間、がりがりと削り取られるような音が響き二人はぞっと鳥肌を立てる。同時に立っていられないほどの揺れが彼らを襲い、リッツはバランスを崩して壁側へ倒れ込んだ。
「リッツ!」
「だ、大丈夫」
『まだ止まらないで!』
 ヴァンははっと視線を前に戻す。明滅を始めたライトの光の中、二つ目の水門が開き出していた。水門の向こうは水で満たされてはおらず、海水はハロの船体を巻き込んで一気に内側へ流れ込んでいく。ヴァンは必死にレバーにしがみついたが、舵取りの加減で逆らえるような強さの波ではなかった。画面を大量の泡が覆い尽くし、何かにぶつかったらしい衝撃音と共に大きなひびが入る。リッツは操縦席に駆け寄ろうと立ち上がった。立ち上がったと思った時、体が宙に投げ出されたのが分かった。
 壁一面の大きな画面が横倒しになっていくのがスローモーションになって見える。リッツの体はそれを横切るように、操縦席の左端から右端へ落ちていく。画面の向こうでは水飛沫が上がっている。見覚えのある光景だった。暗く冷たい海の水の中へ今度こそ落ちていくのだ。リッツはそう思い、固く目を閉じた。
 だが、覚悟した瞬間はいつまで経ってもやってこなかった。揺れが止まりリッツが恐る恐る目を開けると、鯨は右手の壁が下になった状態で止まっている。床になった壁の上には、リッツをかばったヴァンが気を失って倒れていた。
「ヴァン……ヴァン! しっかりして」
 慌てて呼びかけるも、彼女はぐったりと目を閉じて動かない。頭を打ったのだろうか。出血するような怪我はしていないようだが。
『リッツ、あたしの声は聞こえる?』
 ハロの声にはぶつぶつと耳障りな雑音が混じっていた。衝撃で機械もどこか調子が狂ってしまったのか、拡声器から一歩離れて話しているような聞き取りづらい声になっている。その声の遠さに置いて行かれたような気持ちになり、リッツは振り返って半ば叫ぶようにハロを呼んだ。
「ハロ! 大変なんだ、ヴァンが起きないんだ」
『気を失っているんでしょう。すぐ目を覚ますわよ。それより聞きなさい、急がなきゃまずいの』
 リッツだけでなく、ハロの方もひどく焦っているようだった。
『ここの港の酸素供給システムがうまく動いていないみたい。あんたたち生身の人間が長時間行動するには危険な状態よ』
「危険って……」
『ずっとここにいたら酸素中毒で死んじゃうってことよ。あたしはもう泳げないわ。生き残るには今すぐ外に出て、港の機械とあたしを接続するしかないわ』
 リッツはごくりと唾を飲み込み、倒れているヴァンを見下ろした。彼女が動けない今、全ては彼にかかっているのだ。リッツにもそれは分かったが、なんだか信じられないような変な気持ちだった。ここで失敗してしまったら死ぬのはリッツとヴァンだけではない。やがては島の空気全てがここと同じように危険なものになってしまうのだ。多くの人の命が、そんな大事が、彼の肩にかかっている。
『リッツ。できるわね?』
 ひびが入ってしまったハロの画面に向かって固く頷き、リッツは振り返った。鯨が横倒しになったため、操縦室のドアには壁をよじ登らなければ手が届かない。取り付けられた機械のはみ出た部分に足をかけ、不格好にしがみつきながらドアを目指す。開きっぱなしになっていたドアの桟にぶら下がり隣の客室を覗き込むと、椅子やテーブルがめちゃくちゃに積み重なって転がっているのが見えた。
 ハロにはリッツの位置が分かっているようで、天井となった壁の搭乗口を開いてくれた。リッツのぶら下がっている操縦室のドアからは少し距離がある。リッツは頭上でむき出しになっている何本かの配線のうちできるだけ太いものを選んで握りしめ、それを雲梯のようにして搭乗口を目指した。だがいくら太くてもリッツの体重を丸ごと支えることのできる配線コードは多くない。引っ張った途端ぶちりと千切れることもあり、何度か冷や汗をかいた。背後では壊れた機械の部品か何かが落下し、下に溜まっている椅子などにぶつかって音を立てる。リッツはどうにかこうにか搭乗口にまで手を伸ばし、疲れてだるくなった腕に必死で力を込めつつ外へとよじ登った。
 辿り着いた上層の港の形は、小規模ではあるがよく知っている下層の港と同じようなものだった。空間はドーム状に広がっており、丸い天井の半分ほどが島の外にせり出している。鯨が出入りするプールからは海水が溢れ、プールの周囲はほとんど水浸しだ。奥の方には長らく使われていないであろう小型の鯨が二艘、死んだ魚のようにぷかぷかと浮いている。リッツは周囲を見渡しながら大きく息をつき、途端に襲ってきたひどい目眩に思わずうずくまった。ここの空気をあまり吸ってはいけないのだ。
 大きな水音を立ててハロの船体から飛び降りる。床の上に立ってみると水面は膝下ぐらいの高さまできていた。水をかき分けつつ濡れていない壁際へと向かう。ハロを接続する方法はあらかじめ説明を受けていた。港には万が一にも鯨が流されてしまわないよう、その日の航海を終えた鯨を繋いでおく場所がある。人工知能が死んでしまいただの機械になった鯨ならばそれだけの意味しかないが、ハロならばそこを端緒にマザーコンピュータへ接続が可能だという。
 リッツは肩で息をしながら港の壁にへばりついた。目眩はおさまらず、どんどん強くなっていく。落ち着こうと息をすればするほど目が霞む。リッツは首を振って気を取り直し、壁伝いに繋ぎ口を探していった。
 港のみんなはどうしているだろうか。ぼうっとする頭は勝手にいろいろな人の顔を思い浮かべる。そろそろ朝になっているだろう。ゲルダはリッツとヴァンがいなくなっていることに気付いたかもしれない。リッツは仕事に遅刻なんてしたことがないから、フランクが心配しているかもしれない。まだ下層の空気は清浄だろうか。視界が歪み出し、目をこすったリッツは自分が泣いていることに気付いた。
 放置されたがらくたの山をいくつか越えた先にようやく、見覚えのある黒い直方体が鎮座していた。リッツは埃を被ったその機械にかじり付く。錆びついた側面の蓋はなかなか開かない。機械に足をかけ、歯を食いしばって全身で引っ張る。
「わっ!」
 バキッ、と音を立てて蓋の留め具が壊れ、勢い良く開いた扉と共にリッツは床にひっくり返った。中にはホースのような太いコードがぐるぐるととぐろを巻いている。とぐろの真ん中に手を突っ込み、コードを抱え込んでハロの元へ駆け戻る。息が苦しい。足元に広がる水たまりに何度も足を絡め取られ、リッツは膝をつき、転びながら進む。
 横倒しになった船体の底に体当たりするように倒れ込み、リッツはぜいぜいと肩で息をした。両手でしっかりと握りしめたコードの先は水に触れないよう持ち上げ続けているが、既に感覚のなくなった手は自分のものではないみたいだ。足にももう力が入らず、立ち上がろうとすると膝ががくがくと笑う。リッツはもうダメだ、と泣きそうになった。もしかしたらもう泣いていたかもしれない。きつく噛みしめた唇がしょっぱかったのは、海水の飛沫なのか彼の涙なのか判別がつかなかった。
 完全に気を失う直前、コードを掲げる両手を誰かが握ってくれたような気がした。

 眩しい光を背景にして母が傍らに腰を下ろしている。
 長い睫毛はしとやかに伏せられ、唇は息子のための物語を紡ぐ。何度となくベッドで見上げた母の横顔だった。母の手には分厚い本が一冊広げられている。あの紺色の表紙は何についての本だっただろうか。リッツにはどうしても思い出せなかった。母の唇は動いているのに、彼女の声は聞こえない。
(お母さん)
 リッツは口を開いたが、自分の声もまた光の中に溶けるように消えてしまった。諦めきれずに再度呼びかける。これが夢だということには気付いていた。分かっていても振り向いて欲しかった。
(お母さん)
 母がゆっくりとリッツを見下ろす。逆光になってよく見えないが、その口元は優しく微笑んでいるように思えた。
 瞬きを一つすると、母の姿は掻き消え代わりにヴァンが座っているのが見えた。港の天井に設置されたライトが煌々と光を放っており、古びた港はずいぶんと明るくなっている。リッツは海水を被っていない乾いた床の上に寝かされていた。起き上がってみても目眩は起こらず、息も苦しくない。ハロの船体は太いコードで繋がれプールサイドで横倒しになったままだ。プールから海水は溢れておらず、取り残された海藻が濡れた床の上にくたりと寝そべっている。
「おはよう」
「成功したの?」
 息せき切ってヴァンに尋ねると、彼女はおかしそうにくすっと笑った。
『そうよ』
 港の天井からハロの声が降ってきた。見上げてみると天井の真ん中辺りに拡声器らしいものが設置されている。
「ハロがマザーコンピュータになったの?」
『ふふふ』
 ハロが笑う。それが肯定の意だと分かり、リッツはぽかんと口を開けた。
『あたしにかかれば島の管理も朝飯前ってことよ』
「島のみんなは死ななくて済むの?」
「そうだよ。君は島の危機を救ったんだ」
 ヴァンが悪戯っぽく笑った。リッツは彼女の言葉を頭のなかで反芻しながら、ぼんやりと天井を見上げる。ドーム状の港の天井は半分ほどが島の外側へせり出している。透明な素材で造られた外側の壁にはびっしりと海藻が生い茂っているが、揺れる海藻の間から外海を覗くことができた。上層の海は暗い闇ではなかった。上の方から明るい光がちらちらと差し込み、深層へ沈むにつれて少しずつ深みを増して美しいグラデーションを描いていたのだ。
 リッツは天井を見上げながらもう一度床の上に転がった。大きな欠伸が一つ出て涙がにじむ。
「さてと」
 つられてヴァンも欠伸をする。彼女は両手を上げて大きく伸びをすると、リッツの隣に寝転がった。
「ここからどうやって下に戻るかが問題だけど、ちょっと寝てから考えてもいいよな」
「……そうだね」
 リッツが頷くと、ヴァンは背中を丸め目を閉じる。しばらくの沈黙の後、天井の拡声器から聞き慣れない静かなメロディーが流れ出したのに気付き、リッツは吐息だけの笑みをこぼした。ハロが子守唄代わりに流してくれているのだろう。
 目が覚めたら、何ていう歌なのか教えてもらおう。そう決めて、リッツはうとうとと眠りに落ちていった。


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