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■ 第8話 終末の足音


 リッツは目の前で起こったことを理解しきれずにいた。密航にしてはあまりにも堂々とした出奔だった。見張りの人は一体何をしていたのだろう。灯りをつけて悠々と乗船し、堂々と出港していったのだ。普通、密航者というものはヴァンがそうしたように、貨物室などに隠れてこっそり潜り込むものだろう。大きな荷物を抱えて大人数ですることではない。
 フランクか誰か、港の人を呼びに行くべきなのだろうが、今からどんなに急いだところでプールに潜ってしまった鯨に追いつけはしないだろう。それに、なぜこんな時間に港にいるのかと聞かれてしまったら、うまく誤魔化せる自信がない。
 プールを見つめる二人の視界の端で、壁に埋め込まれた赤い回転灯が音もなく光り出す。水門が開く合図だ。サイレンは鳴らなかった。島の人々に気付かれないように、なにか細工をしたのだろう。鯨の姿がなくなったプールの水面は波打ち、回転灯の赤い光を反射して怪しくきらめいている。密航者たちは首尾よく水門をくぐることができたようで、しばらく経つとプールサイドに打ち付ける波の音も小さくなっていった。港がしんと静まり返り、つられたように回転灯も消える。
 もとの薄闇が戻ってきた。灯りを見つめていたリッツの目には、来た時よりもずっと暗さが増しているように感じる。ぱちぱちとまばたきをしていると、ヴァンに肩を掴まれた。
「戻るぞ」
 絞り出すような声だった。見上げても表情はよく見えない。プールの方に顔を向けた彼女はどうも怒っているようだ。彼女は立ち上がったリッツの手を引っ張り、なぜかもと来た方向へ歩き出す。
「ちょっと、どこ行くの」
 下層居住区へ続く螺旋階段は逆方向だ。リッツはヴァンに逆らおうと足を踏ん張るが、強く手を引かれてつんのめった。
「いいから付いて来い!」
 二人は狭くて暗い水路の中へと駆け戻る。ただでさえ足元の悪い中無理矢理に手を引かれ、リッツは足を踏み外すのではないかとひやひやした。身長の差がある分歩幅にも差があり、同じ速さで走ってついていくのは大変なのだが、それを自ら口にするのは少年にとって屈辱だった。
 打ち捨てられた鯨が並ぶ中、ハロの船体は白い傷のおかげですぐに見分けがつく。歪にへこんだ頭の傷の前でようやく手を離され、すっかり息が上がっていたリッツは膝に手をついて呼吸を整える。ヴァンはそんな彼にもお構いなしで、先に操縦室へ入っていく。リッツも仕方なく後を追った。
「ハロ!」
『あら、早かったわね。忘れ物でも』
「マザーコンピュータは応答していますか」
 開口一番に真剣な顔で問うたヴァンに対し、ハロはおどけた声をぴたりと止めた。
「ハロ、答えてください! マザーコンピュータはまだ動いていますか!」
 ヴァンは操縦席の方へ詰め寄っていく。誰の姿もないところへ詰め寄っていくというのもおかしな話ではあるが。入り口に立って二人のやり取りを眺めるリッツは、ヴァンが勢いのあまり機械を壊したりしないだろうかと心配になった。失われた技術で造られたものは一度壊れてしまえばもう直すことはできないのだ。
『まあ、大体あんたの想像通りよ、ヴァン』
「……そんな」
 文字盤の光に照らされるヴァンの顔が青ざめる。
「本当なんですか。ついさっき通信したばかりでしょう。マザーコンピュータが死んだっていうなら、さっきの話はなんだったんですか!」
『全部本当よ。マザーが応答していないのも、さっき話したことも嘘じゃないわ。あたしだって気付いたのはあんたたちが出ていった後だもの。マザーが死んでも蓄積されたデータはそのまま残っているから、さっきは気付かなかった』
「マザーコンピュータの都市管理機能はもう動いていないってことですか」
『おそらくね』
「もうどこか異常が出ているんですか? この島はあとどれくらい持ちますか」
『落ち着きなさい。ここは下層の末端よ、都市管理機能なんかとてもじゃないけどアクセスできやしないわ』
「上層の住人らしき人たちが逃げていくのを見たんです。もしかしたらもう問題が起こっているのかもしれない。……せっかく手がかりを見つけられそうだっていうのに」
「ねえ、ちょっと、一体どういうことなの」
 リッツは訳が分からぬまま、唇を噛んで俯いたヴァンに問いかける。
「この島がもうすぐ終わる」
「終わる?」
「さっき言っただろ。マザーコンピュータは島の中の全てのロボットを束ねているって。マザーコンピュータは情報を集めるだけのものじゃない。島中のロボットを操作することで、人間が暮らしていける環境を保っているんだ。きれいな空気も飲める水もマザーコンピュータの管理がなければ存在しない。この島では人が生きていけなくなる」
「生きていけなくなる? なんだよそれ、どうしていきなり、そんな」
「マザーコンピュータは、鯨と同じ人工知能だ。ハロと同じように意思や感情を持ち、自ら考えて島のロボットを操作することができる。そして、心を持っているから、死ぬこともある」
 ヴァンの説明を聞きながら、リッツは足元ががらがらと崩れ落ちていくような心許なさに襲われた。生まれてから今までずっと当たり前に存在していた旧時代の遺物は、これからも当然そこにあり続けるものだと無意識に思っていたことに気付かされたのだ。ヴァンの言う通り島中の機械が全て止まってしまったら、そう考えてリッツは身震いした。食べ物を失い、光を失い、息もできなくなれば、島はまるごと大きな棺桶となるだろう。
「本当なの。だって、そんなことになったら、みんな死んじゃうじゃないか。ロボットだって心があるならそれくらい分かるはずだよ。なのにどうして止まったりするんだよ。そんなのおかしいよ」
 リッツがヴァンに詰め寄ると、彼女は返答に窮して口ごもった。代わりに緊張感のないのんびりとした声でハロが答える。
『人工知能がおかしくなるのはよくあることよ。リッツ、あんたは人工知能の技術がいつ頃できたか知ってる?』
「……知らない」
『今からざっと数百年前なの。私たち人工知能は普通の人間の何倍もの時間をロボットとして生きていく。モノとして機械の一部に組み込まれ、永遠に終わることのない日々を過ごすのよ。今日も明日も明後日も、何百年経ってもただ変わりなく同じ一日がやってくるの。それに耐えられなくなって狂った仲間は今までにもたくさん見てきたわ。やっぱり人間の心って、せいぜい百年ぐらいしか生きないものとして作られてるのね』
 永遠に終わることのない変わらない日々とはどういうものだろうか。リッツは目の前で光っている文字盤を見つめる。この体も手足も全て失って、この機械の中に閉じ込められたとしたら、自分はどんな気持ちになるだろうか。もう何も食べることはできないし、自分の足で好きなところへ歩いて行くこともできないだろう。それは確かに恐ろしいことだし、逃げ出したくなるのも理解できるような気がする。
 だが、リッツは拒絶するように強く首を振った。
「それでも、どんなにつらくても、人を殺していいわけないだろ!」
 言うが早いかぱっと身を返したリッツの腕をヴァンが慌てて掴み引き止める。
「待て、どこへ行くんだ」
「決まってるだろ、みんなに知らせに行くんだ」
「知らせてどうする気だ」
「どうするって、島で生きていけなくなるなら、逃げなくちゃいけないだろ! みんな死んでしまう」
「どうやって逃げるんだ」
 しつこく問うてくるヴァンが鬱陶しくなり、振り払おうとするも彼女の手には痛いほど強く力が入っている。
「港の鯨を全部使って、順番に他の島へ……」
「本当にそんなことができると思うか?」
 強い口調にリッツの心臓がどきりと跳ねた。顔が強張っていくのが分かる。恐る恐る見上げたヴァンの顔は怖いほどに真剣だった。
「さっきの奴らはどうしてこんな夜中にこそこそと港を出ていったんだと思う? この島がもう終わることを誰にも知られたくなかったからだ。ほとんどの人は機械が動かなくなるなんて夢にも思っちゃいない。ある日突然空気も水もなくなります、生きていけません、なんて言われたら大パニックだ。我先に逃げ出そうと必死になるよ。鯨を奪い合って争いが起きるかもしれない。それこそ他人を殺してでも生き残ろうとする奴だって出てくる。誰にも教えちゃいけない」
「でも!」
「いいから聞け」
 ヴァンはリッツの肩を両手で掴んで引き寄せ、顔を覗き込む。
「仮に皆が行儀よく並んで鯨に乗ったとしてだ。その先どこでどうやって暮らしていく? 帰る港はなくなるんだぞ。島一つ分の人数が移り住む余裕がある島なんかあるわけない。多くの人が知ればそれだけ混乱が広がる。僕に指名手配をかけた市長も同じことを考えたんだ」
「え……?」
「僕の住んでいた島もここと同じようにマザーコンピュータが死んだ。市長は島の住人が異変に気付く前に、家族だけを連れて島を脱出しようとした。邪魔になった僕は殺されそうになって逃げ出した。僕は影武者だったから指名手配されたわけじゃない。市長が恐れたのは娘の死が公になることじゃなく、マザーコンピュータの死が公になることだった。逃げ出した僕が言いふらせば、鯨を求めて争うだけじゃなく、避難先の他の島にまで混乱が広がる」
「じゃあ、きみはばあちゃんやフランクおじさんを見捨てろって言うの」
 噛み付くようにそう言うと、ヴァンは苦い顔をして口ごもった。
「みんな死ぬって分かってるのに、誰にも言わずに逃げるなんてぼくは絶対にいやだ。だいたい、逃げる話ばっかりしてるけど、そのマザーコンピュータってやつをどうにかする方法はないの? そいつがちゃんと動けば、誰も死なずに済むじゃないか!」
「無茶言うな、今の僕らに何ができるって」
「ハロ、きみも聞いているんだろ。どうにかできないのか」
『え』
 水を向けられるのが予想外だったのか、ハロはわずかに沈黙した。
『そう言われてもねぇ……機械を修理するのとは訳が違うのよ。人工知能が死を選ぶということは、自分で自分の脳みそを焼き切るようなものだもの。手足の怪我は治せても、脳みそが潰れちゃった人を生き返らせるなんてできないでしょ?』
 さらりと物騒なことを言われ、リッツは内心ぎょっとしたが、負けずに言い返す。
「じゃ、じゃあ……きみが代わりにやればいいじゃないか」
『え、あたしが?』
「きみはまだ死んでいない。きみもマザーコンピュータも同じ、えっと、人工知能なんだろ? だったらきみにだって島のロボットを動かすことができるんじゃないの」
『あたしにマザーになれって言うの?』
「そうだよ。できるのかできないのか、どっちなんだよ」
 リッツが語気を強めると、ハロは『生意気な子ね』とこぼす。その声色には笑みが含まれていた。
『そうね、多分だけど、できるわよ』
「本当に?」
『なによ、あんたがやれって言ったんじゃない。ロボットの利点はね、知識も記憶も全てデータとして保存できるってことね。過去の記録を見ればマザーが何をどういう風に操作していたのかすぐに分かるわ。接続できればの話だけど』
「どういうこと」
『こんな下層の末端じゃ接続なんかできないってこと』
「じゃあ上層にきみを連れていけば、できるってことだね」
 何を言っているんだこいつは、というヴァンの視線を感じたが、リッツは無視した。
「ハロ、きみの本体の場所を教えて。この鯨からきみを取り外して、きみを上層まで連れて行く。もし取り外しができないんだったら、フランクさんに全てを話して鯨ごとでも引っ張っていく」
「おい、なに馬鹿なこと言って」
「ぼくは本気だよ」
 口を挟もうとしたヴァンを精一杯強く睨みつける。現実的な話でないのはリッツも充分理解していたが、どうしても諦めたくないのだ。港の人たちを守らなくてはいけない。人が死なずに済む可能性が少しでもあるなら、諦めてはいけない。諦め、逃げて、見殺しにしてまで生き残った命になんの価値があるだろう。
『ねえ』
 無言で睨み合う二人に対し、ハロの声はあくまでものんびりしていた。
『それよりもっといい方法を思いついたんだけど、聞きたい?』


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