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 先輩メイドの後について病室へ続く白いドアをくぐると、まず最初に目に飛び込んできたのは白いカーテンにふちどられた壁一面の青空だった。天井の高いこの部屋は、突き当りの壁が一面ガラス張りになっており、やわらかな日光が降り注いでいる。雲上都市の中でもかなり高い位置にあるこの部屋に日を遮るようなものはない。窓辺からはきっと市街地を見渡すことができるだろう。
 爽やかな風の吹きこむ窓辺にはベッドが置かれ、真っ白なシーツに埋もれるように少年が体を横たえていた。細く白い腕には透明のチューブが何本もつながれている。その内の一本はベッド脇に立てられた点滴スタンドから伸びたものだった。
 少年はわたしがこれからお仕えするご主人様だ。ギルバート・フォー・ギブソン、この雲上都市の市長の一人息子である。品行方正で優しく、非の打ちどころのない好青年だという。市民からも慕われており、将来を期待されていた彼が突然の病に倒れたのは今から半年ほど前のことだ。どのような病なのか、治る見込みはあるのか、経過については何も公表されていない。ただ公の場に姿を見せることはぱったりと途絶えてしまい、病室に閉じこもっているのだという噂を耳にしたのみだ。
 ギルバート様の顔を見るのは初めてではない。市長の演説を聞きに行った時には舞台の脇に控えているところを見たことがある。穏やかで優しいという彼の人柄を表すような柔和な笑みを浮かべていた。同世代の友人たちの中にはその整った容姿に黄色い声を上げる子もいたが、正直なところ今までわたしはそこまで興味を引かれてはいなかった。確かにギルバート様は格好良いかもしれないが、まるでお人形のような笑顔が近寄りがたいものに思えたのだ。
 ベッドの中のギルバート様は病人らしく青白い顔をしている。以前に見かけた時より、顔も体も痩せたようだ。やはり重い病気なのだろうか。同情心が湧いたわたしの耳に、思いの外明るい声が飛び込んできた。
「この前読んだ本に書いてあったんだ。人類がまだ地上で暮らしていた頃は、想像もつかないような大きな動物がたくさんいたんだって」
 それはベッドの傍らの丸椅子に腰かけるメイドに話しかける声だった。病室へ入ってきたわたしたちには目もくれず、メイドに向かって幼い子供のように夢中で喋りかけている。骨ばった手でメイドの手を握り、屈託なく大口を開けて笑い、細めた目元には一見して分かってしまうほど、見つめる相手への想いが溢れていた。
 わたしは一目で、彼の笑顔に恋してしまった。
「人間の五倍くらいの大きさのサルとか、両手を広げたよりも大きな鳥とか」
「ギルバート様、失礼致します」
 先輩メイドが会話を遮る。ギルバート様は驚いた様子でようやくわたしたちの方を見た。わたしたちが病室に入ってきたことに気付いていなかったようだ。
「今日からギルバート様のお世話をさせていただく、新しいメイドをご挨拶に連れて参りました」
「新しい子なんて必要ないよ。俺にはアンがいればいいって、前にも言っただろ」
「そういう訳には参りません」
 ギルバート様の顔が不満げに曇るが、先輩は構わずにわたしの背を押した。一歩進み出て頭を下げる。揃えた両手に汗が浮くのを感じる。
「初めまして。メリーと申します。これからよろしくお願いいたします」
「ああ……よろしく」
 頭上から降ってきたギルバート様の返事は歯切れの悪いものだった。あまり歓迎されていないのだろう。恐る恐る顔を上げると、ギルバート様はやはり渋い顔をしていた。
「メリー。たぶん、他の人からいろいろ言われるだろうけど、頼むから僕とアンの邪魔をしないでくれよ」
「あ、はい……」
 わたしはどう答えていいものか分からなくなり、助けを求めて先輩をちらりと見上げる。先輩はすまし顔でギルバート様を見下ろしていた。その横顔は妙に冷たい。どうしたんですか、などとこの場で聞くわけにもいかず、わたしはギルバート様と先輩とをおろおろと見比べた。ギルバート様がふっ、と悪戯っぽい笑みを漏らす。
「そんなに怒らないでよ。いいじゃん、俺とアンは恋人同士なんだから。お世話してもらうなら好きな人の方がいいだろ」
「今夜からこのメリーが担当させていただきます。それでは失礼致します」
 なぜか先輩はますます憮然とした表情になった。さっと礼をするとわたしの手を引き、ご主人様の返答も待たずにそのまま病室を出ていこうとする。わたしは当然うろたえたが、有無を言わさぬ先輩の強い力に引きずられまた白いドアをくぐることになった。先輩がいささか乱暴にドアを閉める直前、ちらりと見えたギルバート様は幸いなことに全く気分を害した様子ではなかった。問題なのはギルバート様ではなく、その傍らに座っていたメイドの方であった。わたしたちと同じメイドの制服に身を包み、色素の薄い茶髪のショートカットの少女。体つきは今年十三歳になるわたしよりも大人っぽいものだが、大人の女性にはまだ届かないだろう。
 彼女はわたしたちがいる間一言も発しようとはせず、またギルバート様の方を向いていたためわたしに見えていたのは彼女の後ろ姿だけだった。その彼女が、ドアが閉まる直前に振り向いたのをわたしは見た。
 彼女の夕焼け色をした両目は作り物だった。その目も肌も、全て生きた人間と同じ形をした無機物の塊、アンドロイドだったのだ。
 不自然に整った、作り物のその顔には一切の感情らしきものが見られない。このアンドロイドには、心がない。
 閉じられた病室のドアをぽかんと見上げながら、わたしは混乱していた。最初はてっきりギルバート様が人間のメイドを相手にお喋りをしているものだとばかり思っていたのだが、そこにいたのは人間ではなくメイド服を着せられたアンドロイドだったのだ。心のないアンドロイドに会話の応酬をさせるのは難しいだろう。アンドロイドは命令を聞いたり問いに答えたりすることはできても、他愛ないお喋りにつき合わせることはできない。
 ということは、ギルバート様は、機械的に頷くことしかできないお人形を相手に、一人でお喋りをしているのだ。
 わたしの隣で先輩メイドがため息をついた。
「分かったでしょうメリー。可哀想なギルバート様は、頭がいっちゃってるのよ」


 その日から、ギルバート様のお世話はわたしの仕事になった。ただ、わたしがギルバート様の病室にいる時間はほとんどない。ギルバート様がわたしに告げた通り、実際に彼のお世話をするのは例のアンドロイド「アン」だったのだ。
 着替えの手伝いや給仕など身の回りの仕事は全てアンが担当している。わたしの仕事は洗濯した着替えや用意された食事を病室まで運び、アンがギルバート様のお世話をしている様子を静かに見守ることである。アンドロイドである彼女が万が一にでもギルバート様を傷付けることがないように、常に一人は傍に控えていなければいけないのだという。見ているだけでいいというのは楽な仕事だが、何もせずただ見ているだけでお給料をもらうのには罪悪感があった。
「失礼致します。ギルバート様、お食事をお持ちしました」
 夕食を手に、病室のドアをノックする。返事はないが、先輩によればいつもの事らしいので気にせずドアを開けて中へ入る。空はもう暗く、白いカーテンが引かれていた。ベッドの脇に控えるアンがこちらを振り返って会釈する。ギルバート様の声が響かない病室はやけに静かだ。わたしはアンに会釈を返し、足音を立てないように気を付けながらベッドへ近付いた。
 ベッドの中のギルバート様は穏やかな寝息を立てていた。骨ばった左手がアンの右手を握っている。アンドロイドは体が疲れることもないので、一晩中手をつないでいても支障はないだろう。実際、こうして手をつなぎながら眠るギルバート様の姿をわたしは何度か目撃している。
 夕食の盛られたトレイはサイドテーブルに置き、食事と一緒に持参した薬の容器を取り出す。そろそろ点滴している薬を交換する時間だ。ギルバート様はいつもアンに世話してもらいたいと主張するが、自分の体に直接触れない仕事はその限りではないらしい。点滴の交換は早いうちにわたしに許された作業の一つだ。それに今のアンはギルバート様の傍から離れることができない。
 先輩メイドに教えてもらった手順の通りに薬の容器を取り外し、新しい容器に交換する。容器の中で揺れる薬は色のついていない透明な液体で、点滴台に吊り下げられていなければただの水にしか見えない。こんなもので本当に病気が治るのだろうか。ギルバート様の病気については、使用人たちに対しても詳しいことは明かされていないそうだ。ただ、日頃から見聞きする彼の病状から、いろいろと噂は流れている。最初の不調は胃腸に現れたそうだ。食欲がないと言って食べる量が減り、次には食べても吐いてしまうようになり、寝込むことが多くなった。ある日市長について出かけた先で突然意識を失って倒れ、高熱を出し三日間生死の境を彷徨ったという。どうにか一命を取りとめたが、目を覚ました彼の頭は狂ってしまっていた。心を持たないアンドロイドを常に傍へ置き、恋人ごっこを続けている。
 病気になる前のギルバート様は、市民にも知られている通り聡明で優しい人物だったという。使用人相手にも威張ることはなく対等な人間として接する。病気になった今もその態度は変わらず、わたしも先輩メイドも、ギルバート様からぞんざいな扱いを受けることはほとんどなかった。ただ、誰が何と言っても、アンドロイドと戯れることを止めないことを除けば、彼は普通の人なのだ。
「う……」
 ベッドの中でギルバート様が身じろぎをした。ぼんやりと目を開けた彼は、傍らに控えるアンを見つけて子供のようにあどけなく微笑む。
「おはよう」
『おはようございます』
 アンは口を動かし、喉のところへ内蔵されているのだろうスピーカーからギルバート様に答えた。アンドロイドは心を持たないが、簡単な挨拶程度の会話であればこのように交わすこともできる。人の声を認識し、ふさわしい答えを選び出し、スピーカーに乗せて発音する。一体どういう仕組みでそんなことができるのかわたしには見当もつかない。人間に仕えるアンドロイドたち、機械仕掛けの街並み、街を乗せて空を飛ぶこの雲上都市全体が、現代では失われつつある旧暦時代の技術を結集して作られたものだ。アンは見た目こそ成人前の少女であるが、人類がまだ地上で暮らしていた頃、今からざっと二百年以上前に作られたはずだ。彼女のスピーカーから流れる声は、二百年前に生きていた誰かのものなのだろうか。
 体を起こそうとするギルバート様をアンが支える。ちょうど点滴の交換が終わったわたしは、夕食を乗せたサイドテーブルをベッドに近付けながらさりげなく二人の様子をうかがった。アンの手つきは優しく丁寧で、万が一にもギルバート様を傷付けるようなことはないだろう。わたしが気にしているのは、ギルバート様の顔色が悪いことだ。ご病気なのだからある意味当たり前なのかもしれないが、それにしてもここ数日は特に具合が悪そうだ。
 トレイに乗った夕食は、食が細くなったギルバート様向けに作られた病人食だ。シチューの具は細かく切られ、消化しやすいように柔らかく煮てある。パンも手でちぎって食べられるような柔らかい上等なものだ。アンがシチューの容器を手に取り、ギルバート様に差し出す。ギルバート様が容器に手を添えてもアンは手を離さなかった。筋肉の衰えた細い腕では、たっぷりと液体の入った容器を落としてしまいかねない。ギルバート様はスプーンを手に、少しずつシチューを口へ運んでいく。あまり、おいしそうな顔ではなかった。
 食事が終わるまでには少し時間がかかる。その間に交換した点滴の容器を片付けてしまおうと退出しかけたわたしの耳に、苦しげな咳が聞こえた。慌てて振り返ると、ギルバート様がベッドの上で背を丸めてごほ、ごほと大きく肩を揺らしている。アンはシチューの容器をサイドテーブルに置き、ギルバート様の背中をさすった。わたしもすぐにベッドの傍へ駆けつけ、俯いているギルバート様の顔を覗き込んだ。シチューが気管に入ったのかもしれない。場合によってはお医者様を呼ばなければならないだろう。
「う、えっ」
 びちゃ、と水音がして、俯いたギルバート様は今飲み込んだばかりのシチューを嘔吐した。口元を押さえる指の隙間から酸っぱい臭いの混じった吐瀉物がぱたぱたと漏れる。ギルバート様は涙の滲んだ目でわたしを見上げ、あっちに行って、というように手を振った。アンでなければ嫌だと言いたいのだろうか。しかし、さすがにこの非常時に手を出さずにはいられない。後で怒られようと決め、わたしはベッドの下から洗面器を取り出しギルバート様の膝の上に差し入れた。両手を口元から引きはがし、洗面器を持たせる。
「ギルバート様、もう少しだけ上を向いてください。喉に詰まってしまいます」
 洗面器の上に覆いかぶさるような体勢を取らせると、ギルバート様はもう一度嘔吐した。アンはまだ背中を撫で続けている。わたしはそれ以上手出しをせず、洗面器を支えながらギルバート様の様子を見守ることにした。
 洗面器の中の吐瀉物はほとんど胃液なのだろう、ひどく酸っぱい刺激臭がする。食べたばかりのシチューが少しだけ混じっていて、そして悪いことに、黒に近い茶色の液体がところどころ混じっていた。血だ。血を吐くのはこれが初めてではない。最初に見たときは驚いたが、悲しいことにもう慣れてしまった。同僚もお医者様も同じだろう。見た目以上に彼の病気は進行しているのだ。きっと、もう、長くはない。
 しばらく経って吐き気が収まったのか、ギルバート様は涙と鼻水で濡れた顔をのろのろと持ち上げた。すかさずアンがタオルを差し出し、彼の顔を拭う。ふかふかしたタオルに顔をうずめ、ギルバート様は土気色の顔で笑った。目を覚ましたときと同じ、あどけない幸せそうな笑顔だ。
「ありがと」
 苦しげな息の合間に零した言葉はひどくかすれている。それでも彼は嬉しそうだった。
 アンの手でギルバート様をベッドに寝かせ、汚れてしまったシーツを取り替える。わたしは放り出していた点滴の容器と夕食のトレイを一つにまとめると、水差しとコップだけをサイドテーブルに残し、片付けのため一旦席を外すことにした。吐いてしまわないよう気を付けて、少しずつお水を飲ませて差し上げてください、とアンに伝える。
『わかりました』
 アンが頷いたのを確認して、足早に病室を出る。ドアを閉める直前、ギルバート様が小さく声をかけてきた。
「メリーも、ありがとう」
 わたしは何も答えられず、ただぺこりと頭を下げた。足音を立てぬように廊下を走りながら、我慢していた涙が頬を濡らしていくのを感じる。わたしはギルバート様の笑顔が好きだ。大好きだ。それをこんなに間近に見られて、あまつさえ名前を呼んで微笑みかけてもらっているというのに、少しも嬉しくなんかない。
 腕の中に抱えたシーツの酸っぱい臭いが鼻につく。これは、死臭だ。


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