第五夜 凍える待合室 --7



 日が沈み、外はすっかり暗くなってしまった。少しずつ飲んでいたお茶のペットボトルも空になって冷えてしまい、徹の缶コーヒーの隣に置いてある。ドアの上の赤いランプはまだ点いたままだった。先ほどは余裕を見せていた徹だが、さすがに落ち着かないらしくたまにふっと立ち上がっては数分ほどどこかへ歩いて行ってしまう。千恵は、彼がいない間ずっとランプから目を離すことができなかった。これが消えるかどうか見守るのは自分しかいないのだ。
「帰らなくて大丈夫か? 帰るなら駅まで送る」
 彼にそう言われて時計を見ると、八時を少し過ぎていた。千恵は家で待っているであろう様々な面倒事を思い出し首を横に振る。
「離れるわけにはいかないんじゃないですか」
「放っといても死んだりしない」
 彼は涼しい顔で手術室のドアを見つめた。本当に心からそう思っているのだろうか。このドアの向こうで何が起こっているのかなんて、外で待っている彼と彼女にはわかりっこないのに。一度も経験したことのない人にはこの感覚は理解できないのかもしれない。
「もしものことがあったら、あなたはどうするの」
 自分で口にしたにも関わらず、彼女の全身にぞわりと鳥肌が立った。残酷な質問だとはわかっていた。本当はこんなことを言ってはいけないと思っていたが、この不思議な青年がどう答えるのか確かめたくなったのだ。背中を冷たい汗が滑り落ちていく。
「おまえはどうするんだ」
 だが、徹は全く動じた様子がない。千恵はしばらく黙りこくった後小さく口を開いた。
「……わかりません」
「俺は働くよ。今まで以上に働いて金を貯める。ソラの分の生活費も医療費もかからないしな」
 冷たいともいえる言葉を吐いた彼は乾いた笑みを漏らす。千恵は彼の顔をじっと見つめた。彼は何も感じていないというのか? まさかそんなはずはないだろう。彼の真意が知りたかった。彼はいったいどうするのか。彼女にはどうすればいいのかわからなかったからだ。
「生きていくには金がいるんだ。俺たちはずっと伊織を引き取りたいと思って貯金してきた。今はあいつが働けないから足踏みしてるが、ソラが死んだらその分早く金は貯まるだろう」
「引き取りって、できるの」
「どうかな。普通は無理かもしれないが、伊織は俺たちにしか懐いてないから、なんだかんだ言って許されるとは思う。間違いないのは、急がなきゃいけないってことだ。伊織が小学生のうちならともかく、中学生や高校生になったら、俺みたいな若い男が引き取るわけにはどうやったっていかないだろ」
 彼は軽くため息をついた。千恵は伊織の顔を思い浮かべて、徹と伊織が二人で暮らしている様子を想像してみる。きっとものすごく会話の少ない静かな生活だろう。それでも気まずい空気が流れることはないのだろう。千恵は施設の中の生活がどのようなものなのか知らない。知っているのは伊織を送っていったときに見た、施設の子供たちの眼差しだけだ。あのような目で見られる生活よりはずっと二人暮らしの方がいいだろうと思えた。
 最悪の事態になったとしても、彼には二人での生活が残るのだ。
「あなたは、生きるのね」
「おまえはそうじゃないのか」
 彼女は答えられずうつむいた。
「まあ、別にどっちでもやることは変わらないな。ソラが元気になれば二人とも働けて、単純に二倍稼げるわけだし」
 今度は空雄も含めた三人暮らしの様子を想像した。先程の二人暮らしの空間に空雄が増えたら、さぞかしうるさいことだろう。おしゃべりな彼は二人にあれこれと話しかけ世話を焼くことだろう。まるで母親のように。彼女はエプロンをつけた空雄が、玄関で徹を出迎える図を想像して思わず笑みを漏らした。
「……本当の家族みたいになれそう」
「家族だよ」
 徹も笑ったのが気配でわかった。
「血のつながりを家族というなら、俺も空雄もこの世にたった一人きりだ。家族に本当も嘘もない。互いにそうだと思ってたら家族だ。俺はもう、それでいいと思う」
「じゃあ……」
 千恵は言いかけて途中でやめた。怪訝そうに見てくる徹に首を振ってなんでもない、と無言で示す。
 では、血がつながっていても、お互いのことを家族だと思っていなければ、それはもう家族ではないのだ。
 冷えきった心が思い浮かべる母親、父親の顔は彼女の方をもう向いてくれない。生意気ざかりの弟は白いベッドに横たえられたまま何度呼んでも目を開けてはくれない。あと、他に誰がいるだろうか。彼女を本当に気にかけてくれる人は? 心配してくれる人なら何人もいた。だが彼女には誰も信じることができない。人間は腹を痛めて産んだ我が子さえあっさりと捨ててしまえる生き物なのだ。どうして他人なんか心から慈しむことができるだろうか? 
 それなのにどうしてこの人たちは、こんな幸せな家族になれたのだろうか?
 頬をつたって落ちた涙がスカートを濡らした。徹はそれに気付いたが、すぐに目を逸らし手術室のランプを見上げる。千恵はしばらく何のリアクションもとれずに、流れ出した涙が服に染みを作っていくのを見つめていた。涙が止まらない。ハンカチを出すのは大人っぽく気取っているように思えて、彼女は手の甲で右目をぐいっとこすった。鼻をすする。徹がまたちらりと彼女を流し見て、頭の上にその大きな手をぽすんと乗せた。
「ソラが元気になってからも、また遊びに来いよ。伊織もソラも喜ぶだろうし」
 千恵は彼の顔を見つめる。彼は微笑むでもなく、同情的な目をするでもなく、いたって普通の顔をしていた。彼女は頭の上の手の温かさを感じながら、震える声を絞り出した。
「あなたたち、変だわ」
「ソラはともかく、俺もか?」
 徹が苦笑する。千恵はこくりとうなずいて、もしかしたら彼らだけは、ほんの少しだけ信じてみてもいいのかもしれない、と思った。
 その後しばらく時が経ち、千恵の鼻がぐすぐす言わなくなった頃になってやっと手術は終わった。
 手術室の赤いランプがぱっと消える。千恵は反射的に立ち上がったが、ドアが開かないことには結果を確かめようがなく、そわそわと両手の指を絡ませながら人が出てくるのを待つ。徹は腕組みをして椅子に腰掛けたまま落ち着いていた。
 心臓が口から飛び出るかと思うほど緊張している中、最初に現れた医師がにこやかな表情をしているのが見えた瞬間、彼女は廊下の上にへたりこんでしまった。
「おや、大丈夫ですか。ご安心ください、手術は成功ですよ」
 まだ若い男性医師は少し驚いて、また泣きそうになっている千恵に手を差しだし助け起こしてくれた。後ろを振り返ると徹が笑っている。先程と同じく苦笑しているが、やはりどこか固さがとれているように思えた。


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