最終夜 白いカーテン



 エレベーターの扉が開き、入ってこようとする女性とぶつかりそうになる。すみませんと謝って千恵は足早にその場を離れた。
 廊下の窓は開け放たれている。虫が侵入してこないようにきっちりと閉められた網戸の向こうには手を伸ばせば届きそうな距離に青々と茂った木の葉が見えた。こちらの窓は南向きである。病棟のすぐそばに並び立つこの木々によって強い日差しが遮られ、快適な空間が作り出されているのだ。外を見ながら歩いていた千恵はふと立ち止まり、同じようなドアの並ぶ廊下を見回した。目の前のドアには「325」というプレートが貼られている。千恵はしばらくその辺りをうろうろしていたが、やがて諦めてエレベーターの方へ戻った。
 エレベーターの横には病棟の部屋の配置が掲示されていた。千恵はほっとしてそれを手に握っていたメモと見比べ、先程とは反対の方向へ歩きだした。
 304号室のドアを静かに開けると、少し薬品の匂いがした。四人部屋のようだが、右手前と左奥のベッドがカーテンで覆われているのに対してそれ以外のベッドは明らかに無人だ。さて、どちらのベッドだろうか。
 右奥のベッドのカーテンがふわりと揺れた。それとともにわずかな風を感じ、千恵はそちらの方へと近付いていく。しばらく迷って、声をかけてみようと決心した瞬間、カーテンが内側からシャッと引かれて入院着を着た空雄が顔を見せた。ぽかん、と間抜けに口を開けていた彼は、千恵の顔を見るとどこか照れたように笑う。
「また会えたね」
「あなた、死ぬつもりなかったんじゃないの」
 ひそひそと話す彼に合わせて千恵も小声になった。
「もちろん。いや、徹から手術の日のこと聞いたからさ。心配してくれてありがとう」
 カーテンの内側に入るとやはり窓が開いていた。窓辺には伊織が椅子に腰掛けて、いつもの画用紙ではなくスケッチブックにかじりついている。徹が約束通り空雄の見舞いに連れてきたのだろうが、少女は彼に背を向けて窓の方を向いていた。色鉛筆は持参してきたらしい。
 窓の外の風景はそれほどいい眺めというわけではなかった。こちらは西側になるだろうか、背の高い木は植えられていない。傾きかけて暖色を含み始めた日の光がまっすぐに病室の中へ入り、外の風景を照らす。道を挟んだすぐ隣に綺麗とは言い難いベージュ色の公民館がある。この窓よりちょうど一階分低い。その向こうにはもう少し背の低い民家が乱雑に立ち並んでいた。遠くには市街地のビルがうすぼんやりと見える。
「本当だよ」
 伊織の手元を見つめながら空雄は呟いた。ベッドの上半分は斜めになっていて彼の上半身を無理なく起こしている。タオルケットからはみ出た左腕にはがっちりと包帯が巻かれて、そこに点滴の管が伸びていた。
「死にたくなかった。屋上に立ってみたのだって、千恵ちゃんと同じ景色を見てみたくなっただけなんだ。千恵ちゃんだってそうでしょ」
 千恵は答えずに、伊織のスケッチブックを覗き込もうとした。この風景がいったい彼女にどのように見えているのか気になったのだ。
 視線を感じたのか、伊織がくるりと振り向いた。大きな目でまっすぐに千恵を見つめ、手にしたスケッチブックを掲げてみせる。それは予想通り窓の外の風景を描いた絵だった。赤、オレンジ、青。色が渦巻くような伊織の絵にかかれば、寂れた景色も幻想的な空気を帯びる。遠くのビルは黒い影、その足下の家々は崩れた積み木かなにかのようだ。
「ずいぶんお気に召したみたいだね」
 空雄がそう言って笑うと、伊織はまた窓の方を向いてしまった。絵はまだ未完成だったようで、青い色鉛筆を手に取る。
 千恵は丸椅子に腰掛けて伊織や窓の外をぼんやりと眺めた。
「私も、死にたくない」
「うん」
「……でも生きていけない」
 外を向いていた空雄の視線がゆっくりと彼女の方を向く。それが分かっていたので、千恵は風に揺れる伊織の長い髪から目を逸らさずにいた。
「それじゃあ、うちの家族になればいいよ」
 その言葉を聞いた途端、伊織が勢いよく振り返った。空雄を凝視するその目の強さに驚いて、千恵も思わず彼を見てしまう。二人の目が合った。空雄がにやりと悪戯っぽく笑い、伊織にも目配せする。伊織は眉尻を下げて口をもごもごと動かしたが何も言わない。
 千恵はその光景を見守りながら心の中で空雄の言葉を何度も繰り返していた。素直に喜んでいいのだろうか。あまりに単純ではないか、と彼女は自嘲する。
「……どっちかというと、お願いだな」
「お願い?」
「そう。これからも是非うちに来てほしいな、というお願い」
 伊織がちらりと千恵を見上げた。
「だって、この広い世界に俺と徹と伊織の三人だけなんて、寂しいじゃないか」
 すとん、と腑に落ちたように思った。それを言った空雄が笑っているのに悲しそうに見えるのもおかしくはなかった。気付いてしまえばもう否定することはできないほど、同じものを彼らは持っているのだった。千恵は頷かない。首を一度曲げるだけの簡単な行為で共感できる感情ではない。
 彼女はしばらく黙りこくった後、丸椅子から立ち上がった。
「……もう、帰る」
 何かを言いそうになった空雄を遮る。
「明日も来るから」
「そっ……か。うん、待ってるよ」
 空雄が頷いて、嬉しそうに笑う。伊織がぱちぱちと瞬きをし、またスケッチブックの方を向いた。色鉛筆がざざざ、と勢いよく踊る。千恵は軽く会釈をしてからカーテンを引いた。
「そう言えば、今日は寒くないの? セーター、着てないね」
 背後から何気ない声がかかった。千恵はくるりとベッドを振り返る。黒い制服を着た自分の体に目線を落とし、次にこちらを見ている空雄と目を合わせる。そして答える代わりにかすかな微笑みを浮かべた。
 うまく笑えただろうか、と思いながら彼女は廊下を歩いていく。木々の間から漏れた夕日の色が、病院の白い廊下を明るく彩っていた。




 完


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