第五夜 凍える待合室 --6
いつもより早い時間の施設では、庭に数人の子供が出て遊んでいた。中学生くらいの男子が一人、あとは小学生だ。伊織よりも背の高い子ばかりであり、実際のところは分からないが、学年もおそらく伊織より上なのだろう。伊織は子供たちに気付くと徹の後ろに隠れるようにして歩いた。子供たちの方は、徹と伊織が門のところまで来たときにやっとこちらに気が付いて視線を向ける。彼らの追いかけていたボールが寂しくてんてん、と転がった。
徹はチャイムを押そうとしたが思い直して手を止めた。門扉を軽く押してみると、鍵がかかっていなかったようであっさりと開いてしまう。
「ほら」
何事かというように子供たちが見ている。徹が背中を押しても、伊織はいつものようには入っていけなかった。すがりつくように徹の手を握りとどまろうとする。彼はしゃがみこんで伊織の頭を撫でてやった。
「約束は守る。明日になったら絶対に会いに行くからな」
子供たちの視線は千恵にも向けられている。千恵はそれをひしひしと感じながら、彼らと目を合わせないように下を向いていた。視界の端で伊織がうなずいたのが見えた。門扉の開閉する音がして、少し目線を上げてみると伊織は逃げるように施設の建物の中に走っていく。子供たちはそれを黙って目で追っていたが、伊織が玄関に入ってしまうと興味をなくしてしまったようで、またボール遊びに戻っていった。
徹はすぐに施設に背を向ける。千恵は後ろについて歩きながら、当たり前のことを聞いた。
「病院に行くんですか」
「一緒に行くか」
「え、でも、いいんですか」
「何が?」
歩きながら振り返った徹は本当に不思議そうだった。その表情を見て、千恵はつい今まで心の中にあったはずの気まずさの理由が分からなくなってしまった。
「病院はそんなに遠くない。まあ、今から行って、手術開始には間に合ったとしても、ソラには会えないけどな」
「……はい」
行きます、とは彼女は言わなかった。それでも徹には伝わった。
病院は駅に向かう道から少しそれた通りにあった。近くのマンションと同じように、壁が黒ずみはじめた古びた建物だ。広めの駐車場はほとんど全て車で埋まっている。
診察の時間はまだ終わっていなかった。蛍光灯が明るく照らす院内に入ると、何人もの患者が薄ピンク色のソファに座ってまだ順番待ちをしていた。看護士や事務員はせわしげに行ったり来たりしている。外から見た印象とは違い、内装は暖色をメインに用いたきれいな造りになっているらしい。だが千恵は、一歩踏み出すごとに体温が一度ずつ下がっていくような気がしていた。ロビーを通り抜けて廊下を歩いていく。マスクをした子供を連れた母親とすれ違う。
徹が外科の受付の女性に声をかけると、女性はカウンターから出てきて二人を手術室の前まで案内した。手術はもう始まってしまっている。千恵は壁にかけられているシンプルな時計を見上げた。六時をほんの少し過ぎている。徹が会釈をすると、女性も頭を下げて早足に去っていった。
「大丈夫か」
壁際に置かれたベンチの上に腰掛けて、徹は千恵を見上げる。
「座れよ。今にも倒れそうな顔してるぞ」
千恵の足はすくんでいた。がくがくと震える足でどうにかベンチのところまで行き、倒れ込むように座る。徹が心配そうに彼女を見た。彼女は自分の体を抱きしめて縮こまる。
「おまえ、もしかして、怖いのか?」
徹の問いに千恵は思わず顔を上げて彼を見た。彼女は今寒くて寒くてたまらないのだ。普通震えている人を見たら寒がっているのだと思うものではないだろうか。怖いといっても、何が怖いというのだろう。
瞬間、千恵の脳裏に、目の前の景色と似た景色が浮かんだ。夕日の射し込む殺風景な廊下。壁際の長椅子に腰掛けて彼女はうつむいている。背後からのオレンジ色の光が膝の上で握りしめた両手の甲を照らす。左から嗚咽が途切れることなく聞こえてくる。視界の端に、苛立ちもあらわにドアの前をうろうろ歩き回る靴が見える。彼女は白く重たいドアが開くのをただじっと待っている。
千恵はゆっくりと頭を左右に振った。ずっと思い出さないようにしていたその光景は決して消えてくれない。忘れようとすればするほど頭にこびりつくのだ。目を背ければ耐えがたい冷気を伴って彼女を連れ戻そうと追ってくる。
今、目の前にある白いドアの上には赤いランプが点いている。見上げたにじんだ視界の中でその光は拡散していた。この光が消えるときが怖いのかもしれない。
徹が立ち上がった。思わずまばたきをして彼の顔色をうかがう千恵の頬に涙が一滴つたう。彼は無表情なままどこかへ足早に去っていった。彼女は急に恥ずかしくなり、セーターの袖を引っ張って涙を拭う。今もっとも不安なのは徹の方なのだ。そして、伊織も。それなのに彼の前でめそめそ泣き出してしまうなんて。
彼女はもう一度手術中を示すランプを見上げた。光っていることに妙に安堵して、まだ始まったばかりなのだと思い直す。不安に揺れる心を落ち着けようと両手を固く握りしめた。膝に視線を落として、デジャヴを感じ慌てて掌を開く。
人の気配を感じて顔を上げる。徹が帰ってきたのかと思ったが、カルテを持った看護士だった。看護士は彼女に目もくれずに通りすぎていき、手術室から遠く離れた廊下の向こうの方のドアに入っていく。
「お茶とコーヒー、どっちがいい」
「えっ」
突然声をかけられて千恵はびくりと震えた。缶コーヒーと小さいサイズのペットボトルを一つずつ持った徹がいつの間にか目の前に立っている。
「コーヒーは、ブラック」
「え、あ、じゃあお茶で」
「ん」
「あっ……りがとうございます」
差し出されたペットボトルを受け取ると、それは驚いて取り落としそうになるほど熱かった。徹が隣に腰掛けながら缶コーヒーのプルタブを引き、口に含んだ瞬間眉間にぐっとしわを寄せる。
「あの、熱くないですか」
「熱い」
「……すみません」
「いや」
手が冷えているためか、温められたペットボトルは火傷しそうな温度に感じられた。千恵はふたを開けて一口熱いお茶を飲む。食道を通って熱い液体が体の中に染み渡っていく。徹はまだ顔をしかめながら、ずずっと音を立ててコーヒーをすすった。
「あいつは死なないよ」
次に徹が口を開いたのは、ペットボトルの温度と指先の温度が同じくらいになったころだった。千恵はそろそろ二口目を飲もうかとキャップに手をかけていたが、やめた。
「昔、約束したからな」
「約束」
「ソラの方から勝手に言ってきたんだが、まあ破らせる気はない」
徹が薄く笑う。千恵はそんな彼を横目で見、どうしてこの人は笑えるんだろう、と思った。
「その、約束って」
「ソラは俺より先には絶対死なない、っていう約束」
彼は缶コーヒーの中身をぐいっと一気に飲み干す。空になった缶を自分の隣に倒れないよう気をつけて置いた。
「でも」
千恵はその後に続く反論をぐっと飲み込んだ。こんなときに言うべきことではない。だが、どうしたんだとでも言いたげに彼女を見る徹の表情は妙に穏やかで、それがどうしても彼女には受け入れられなかった。
「どんなに死にたくなくても、死なせたくなくても、どうしようもない時ってあるのよ」
「そうだな」
大真面目に彼はうなずいた。
「それでも、多分あいつは死なないよ」