事件ファイル#01 幸運なる左遷 --6
「さて」
スイッチを切り替えたように元の穏やかな笑顔に戻り、大尉はぽん、と両手を合わせた。
「もう夜も遅い。そろそろ終わりにして、今日は帰ろうか」
「えっ、でも」
驚いた中尉が振り返って見やる先には、まだ報告書などの書類が山積みになって残っている。大尉が手掛けていた人事報告、中尉の決算報告は十二隊すべての分が一度それぞれの隊に返却されたのだが、報告書はそれで全てではない。恐らく、今朝がた負傷したクリス少佐の担当している分なのだろう。
「まだ戦績報告が残ってますし、早く終わらせてしまわないと」
「スコット君は戦績報告をまとめるのは初めてだね。十二隊分全ての戦績をまとめるのにどれくらい時間がかかるだろうね」
「えっ。ええと」
「仮に君の得意な決算報告と同じくらいの時間で終わらせられるとしようか。決算報告は日没から始めて真夜中過ぎまでかかっているね。それと同じだけの時間を今からかけるとなると、まあ日が昇る方が早いだろうね。そして日が昇れば始業時間だ。返却している決算報告の訂正版が各隊から上がってくる。そうすると君はきっと『終わらせてから帰ります』と言って休憩できずに頑張り続けるだろうね」
「あの」
「帰りなさい」
「……はい」
笑顔を崩さず、威圧的でもなく、それでも有無を言わせぬ雰囲気をまとう大尉に対し、中尉はそれ以上抵抗しようとはしなかった。大人しく頷くと、踵を返して自分の席に戻り机の上を片付けていく。気が緩んだのか、漏れそうになった欠伸を噛み殺している。
「ラテス君は送っていってくれ。こんな夜更けでは人通りもないだろうし、爆弾を送りつけてきた輩に襲われでもしたら洒落にならないからね」
「はい。大尉ももうお帰りになりますか」
「もう少し切りの良いところまで終わらせてからにするよ」
「それでは、中尉をお送りした後ですぐに戻ってきます。大尉もお送りさせてください」
夜道が危険なのは大尉も同じだ。たとえ何事も起こらなかったとしても、車椅子で暗い道を行くのは大変だろう。
「おや。ありがとう、それなら甘えさせてもらおうかな」
手早く帰り支度を終えた中尉と俺は、再び書類に向かった大尉に失礼しますと声をかけ執務室を後にした。
秋も終わり頃に近付き、真夜中ともなるとかなりの冷え込みである。本営の玄関口を出て夜の闇の中に一歩踏み出した途端、刺すように冷たい空気が肺の中を満たした。すぐ隣で身を縮めた中尉が子犬のように情けない声をあげる。
「うわぁ、寒い」
「もうすぐ雪になりそうですね」
「嫌だなあ。僕、南の方の出身なんですよ。寒いのはいつまで経っても苦手だなあ。ラテスさんはどこの出身ですか」
「俺はフロスト生まれフロスト育ちです。だから、逆に暑い方が苦手ですね」
「あっ、そうだったんですか」
他愛ない話をしながら兵舎の方へ足を進める。人通りもなく静まり返った軍営の中、二人分の足音と話し声だけが響いた。
ここフロストの軍営は第三師団の本拠地であるため、そこそこの広さがある。だが本営から兵舎までの距離はそう遠くはない。人と会話しながら歩いているのでなおさらだ。
「ラテスさん、執務室はどうですか」
遠くに兵舎の灯りが見えだした頃、ふと中尉がそんなことを言い出した。
「今日みたいなことは滅多に起こらない、ただ書類に囲まれる日々がこれから始まります。年がら年中門番をやらされてるような状態で、お茶くみをさせられたり、使い走りをさせられたりします。それも、戦闘能力のない年下の僕みたいな上官の指示で、です」
思わず足を止めかけた俺の一歩前に出ると、中尉はこちらに向き直り俺を見上げる。逆光になっていて表情はよく分からないが、声色は落ち着いていた。
「こんな仕事やってられないと思うのが当たり前だと、僕は思います。だから、無理だと思うなら正直に無理だと言ってください。僕もネルソンさんも、向いていない人に対してこの特殊な環境を押し付ける気は」
俺は中尉の言葉が終わるよりも先に、彼の手をとって足早に兵舎の入口を目指した。不意を突かれたのか、中尉は転びそうになりながら後ろをついてくる。どうしたんですか、と問いかけてくる彼に、俺は小声で答えた。
「さっきから、後ろに誰かついてきてるんですよ」
「えっ!?」
「ちょっ、大きな声を出さないでください」
中尉が辺りを見回そうとするのを慌てて制止し、そそくさと兵舎の中へ入る。入口の兵士たちは特に異変を感じている様子もない。本来なら上官である中尉が通るのに合わせて敬礼をすべきなのだが、中尉の若さのせいか暗さのせいか、尉官の位を表す腕章は彼らの目に留まらなかったようだ。
「中尉のお部屋は」
「二階です」
当然ながら、官位が上の者ほど上階の部屋が与えられる。俺はできるだけ足音を立てないように気を付けながら、廊下の一番奥にある階段ではなく、それより少し手前に位置する自分の部屋を目指した。中尉は同じように息を潜めつつ、黙って後ろをついてきている。
自分の部屋の前まで来ると、鍵を開けて二人でさっと部屋の中に滑り込んだ。
「ラテスさ――」
「静かに」
何かを言いかけた中尉を遮り、ドアにぴったりと耳をつけて灯りもつけずに外の様子を窺う。しばらくは誰の気配もなかったが、やがてギッ、ギッと床板のきしむ音が入口の方から近付いてきた。同じ音を聞きつけたらしい中尉が緊張する気配が伝わってくる。俺は大丈夫ですよ、と手を振って見せた。暗闇の中でどれだけ伝わるかは分からなかったが。近付いてきた足音は俺の部屋の前を通り過ぎ、更に奥の階段へ向かっていく。とんとん、と今度は階段を上る足音がかすかに聞こえた。
「行ったみたいですね」
「今の人、僕たちをつけて来たんですか」
「分かりません。たまたま行き先が同じだった上官の方なのかもしれませんし……ただ単に、今朝のことがあったので、警戒しておくのに越したことはないと思ったんです」
軽くため息をついて緊張を解くと、俺は手探りで部屋の中央に吊るされたランプの灯りを点ける。ぼんやりとした灯りが部屋の中を照らし出した。一般兵卒の部屋は基本二人一部屋となっており、ベッドを二つ置けばもう他にスペースがないような狭さだ。私物はベッドの下に突っ込むぐらいしか置き場がない。テーブルやら椅子やらを置く場所などあるはずもないので、部屋で何かをする時は基本ベッドの上になる。そんな状態の男所帯が小奇麗なはずもなく、上官の目に晒すには忍びないほどの散らかり具合に、俺はいたたまれなさを覚える。
「すみません、汚い部屋で」
つい弁解してしまったが、中尉は部屋の中の様子は目に入っていないようだ。しきりに廊下の方を気にしながら神妙な顔をしている。
「今の人がもし、僕の部屋に向かったのだとして。僕の部屋が無人だと分かったら、どうするでしょう」
「探す……でしょうね。でも、他の兵士の部屋を探すわけにもいかないですし、ここにいれば安全です」
「はい、他の部屋を探すようなことはしないと思います。でも、そうなると……もしかしたら、執務室に戻るんじゃないかと思って」
「執務室に、ですか」
「相手は僕を狙っているとは限りません。ネルソンさんが標的になる可能性もあります」
そう言った中尉は、今にも飛び出していきそうな様子でキッと顔を上げた。
「ラテスさん、戻りましょう。ネルソンさんが心配です」
「中尉はここにいてください」
本当に飛び出していかれては困る。俺は中尉を落ち着かせようと両肩に手を置いた。不満と不安で、まだ少年らしさの残る顔が曇る。
「護衛の役目はきちんと果たして見せますから。任せてください」
精一杯に明るく笑ってみせると、中尉はわずかにためらいを見せたが、すぐに頷いた。こう言ってしまえば失礼だが、戦えない彼が一緒に来たところで助けにはならない。むしろ邪魔になるだろう。それも本人もよく分かっているのだ。
「ちょうど、こっちのベッドを使ってる相部屋の奴は休暇中なんです。この部屋には他に誰も来ませんから、俺が戻るまで中から鍵をかけて、決して出ないでくださいね」
中尉がもう一度頷いたのを確認し、俺はドアに張りついて外の様子を確かめる。怪しい物音も人の気配もない。問題ないだろう。
「気を付けてください」
出て行こうとする俺の背中に向かって、中尉が小さく声をかけた。
兵舎から本営へ一直線に駆け戻り、出入り口をも駆け抜けて階段を目指す。門番が訝しげにこちらを見ていたが、そんなことに構っている場合ではない。
敵対している相手が内部にいるかもしれない、というのは非常に面倒な状況だ。相手が外部の者であればあちこちに配備されている見張りも効果を発揮するが、内部に潜りこまれてしまうとそうは行かない。第三師団の兵士が本営の出入り口を通るのに、いちいち門番に呼び止められたりはしない。適当な理由をでっちあげれば、見張りをごまかして執務室の中へ入ることも容易だろう。爆弾犯は内部の人間である可能性が高い、というのは既に分かっていたことだった。それなのに足の不自由な大尉を一人執務室に残してしまうとは、判断ミスとしか言いようがない。
階段を二段飛ばしに駆け上がりながら、腰に佩いた剣の柄に触れ心を落ち着かせる。焦りは禁物だ。先程の後をつけて来た足音だって、本当に中尉を追っていたのかどうかは分からない。気にしすぎで何でもかんでも怪しく思えているだけなのかもしれないのだ。
執務室は二階の突き当たりに位置する。廊下の角を曲がった俺の目に飛び込んできたのは、その突き当たりの扉の前で倒れ伏した見張り番の兵士の姿だった。忍び足で駆け寄り兵士を助け起こす。気を失ってはいるが、特に大きな外傷は見当たらない。大事はないだろう。兵士を廊下の脇に寝かせ、薄く開いている執務室の扉に貼りつき中の様子をうかがう。
執務室の灯りは落とされているようだった。窓から差し込む月明かりが白く線を引き、俺のいる入口近くにまで届いている。その白い光が、時折黒い影によって遮られていた。間違いない。中に誰かがいる。
中では大尉が俺が戻ってくるのを待っているはずだ。この見張りの兵士のように気絶させられたのか、それとも捕えられているのか。どんなに耳を澄ませても、聞こえるのはかさかさと紙の擦れ合う音だけだ。俺は剣の柄をしっかりと握り、半開きになっている方の扉をそろそろと開いていく。頭を突っ込めるぐらいの隙間を作ると、床に伏せそうっと顔を出し、執務室の中を覗きこんだ。
灯りの消えた執務室の中、人影が見えたのは向かって左手の事務デスクの方だ。書類が山積みになった机の上にかがみ込むようにして、次々と書類を繰っている。一つを手にとっては隣の机に放りだし、また一つを取っては床に落とし、とひどい散らかしようだ。幸い、紙の山に埋もれているような状態のため、俺が覗いていることには気付いていない。逆に俺の方からも奴の顔が見えないが、どちらにしろこの暗さの中逆光となれば顔は分からないだろう。そして、たとえ顔が分からなくても、怪しい不届き者であることに変わりはない。
ところで大尉はどこに行ったのだろう。俺は侵入者に見つからぬよう注意しつつ、更に身を乗り出す。大尉のデスクに人影はない。右手の応接ブースにもいない。うまく隠れられているのならいいのだが。
男がふと、書類をあさる手を止めた。報告書の一ページを食い入るように見つめたかと思うと、何かを探してきょろきょろと視線を彷徨わせる。俺は見つからないよう慌てて顔を引っ込めた。だが男の視界に俺は入っていなかったらしく、警戒されている様子はない。男は持参したらしい旧式のランプを手元に引き寄せ、マッチを擦って火を灯す。月の光とは違い温かみのあるオレンジ色の光に照らされ、男の顔がはっきりと見えた。やはり、ビリー・ニコルズ、六隊の経理報告書を受け取り、中尉を不穏な目つきで見ていた兵士その人である。
ニコルズの注意が書類の方に向いている隙に踏み込んで取り押さえるべきだろうか。それとも、何かしら決定的な行動を起こすのを待つべきだろうか。たとえば書類を盗み出すとか、爆弾を仕掛けるとか、そういう言い逃れできないような何かだ。いや、でも見張り番を気絶させて忍び込んでいる時点で、充分言い逃れはできないような気もする。そんなことを考え躊躇していると、ニコルズがおもむろにランプの覆いを外した。短い蝋燭がジジッ、と音を立てて火を揺らす。続いて懐から小さな瓶を取り出し、中に入っていた液体を机の上にぱしゃん、とぶちまけた。
その行動の意味に気付くのに、一拍遅れる。
俺が執務室の中へ飛び込むのと同時に、男の眼前に赤い炎がごおっと音を立てて燃え上がった。