事件ファイル#01 幸運なる左遷 --2



 傷の処置が終わり、再び執務室の前へと戻ってきたときには昼の刻を過ぎていた。今朝ここに立ったときには人気がなく執務室の扉も締め切られていたが、今は扉が開け放たれ兵士たちが忙しく出入りしている。彼らは破片の突き刺さったソファ等の荷物を運び出しているところだった。兵士たちに道を譲ってから改めて執務室の扉をくぐる。
 執務室の中は様変わりしていた。応接ブースにあったテーブルとソファは横倒しにされ部屋の隅にまとめられている。破片だらけの絨毯も一部が切り取られ冷たい石の床がむき出しになっていた。例の爆弾やその周りに積みあがっていた箱などは既にどこかへ移されたらしく見当たらない。
 それに比べると、事務机の並ぶ反対側のスペースはそれほど変化がない。だが壁や机にはところどころ金属片によるひっかき傷がついており、山になっていた書類は床の上に崩れてしまっている。
 事務机の方には二人の人影があった。一人はカーライン中尉で、一番端の机に座って黙々と何かを書きつけている。俺が入ってきたことには気付いていないようだ。もう一人は五十代ぐらいの初老の男で、中尉の二つ隣の机に腰かけている。濃い赤毛には白髪が混じりはじめ、きっちりと後ろに撫でつけたその髪には一切乱れがない。身長はそれほど高くないが、がっしりとした体格をしている。眼鏡の奥から書類を見つめるブルーの瞳が放つ眼光は鋭い。だが深い皺の刻まれた顔には優しげな雰囲気があり、軍人にありがちな威圧感はあまり感じない。彼もカーライン中尉と同じく尉官の制服を着こんでいた。
「スコット君。彼が戻ってきたようだよ」
 初老の男は手元に目線を落としたままでそう言った。中尉がぱっと顔を上げ、俺と目を合わせにこりと笑う。
「お帰りなさい! 怪我の方はどうでしたか」
「ただ今戻りました。傷は浅く、問題ありません」
「そうですか、よかった」
 中尉はほっと息をついて頷くと、初老の男へ向き直った。
「ネルソンさん、彼が新しい事務官の、ラテス・ルインさんです。ご存知でしょうけれど」
「そうだね」
 男も中尉につられたように口元に笑みを浮かべ、ようやく書類から視線を上げた。
 急に喉が渇いたような気がした。背筋を伸ばし敬礼する。
「本日付で事務官に任じられました、ラテス・ルインと申します」
「ネルソン・ワナンだ。階級は大尉。初日から大変だったね。大した怪我ではなくてなによりだ」
「ありがとうございます」
「これからよろしく頼むよ。まあ、配属されて一時間も経たないうちにしっかり仕事をしてくれたわけだからね。心配ないだろう」
「はっ」
 言葉は優しいが、少し圧力を感じるのは気のせいだろうか。俺は腹に力を入れてワナン大尉の視線をまっすぐに受け止めた。何がおかしいのか、ワナン大尉はくすりと笑みをこぼす。
「本当だよ。君がいなければシェンド君だけではなく、スコット君も負傷していたことだろう。私の体はこういう時てんで役に立たないからね」
 ワナン大尉はとんとん、と自分が腰かけている椅子の肘かけを叩く。
 よく見ればその椅子は普通の椅子ではなく車椅子であった。傷痍軍人なのだろうか。俺は「役に立たない」という発言にそのまま頷いていいものか悩み言いよどんだ。そんな俺の密かな葛藤も知らず、ワナン大尉は話を続ける。
「私とスコット君、シェンド君、それと医療班所属の兵卒の女の子が一人。そこに君が加わって五人。それがこの執務室付きのメンバーだよ。人数が少ない分、誰か一人でも欠けると影響が大きいからね。護衛の仕事は責任重大だ」
「はい。あの、一つ質問させていただけますか」
「構わないよ」
「シェンドさんというのは、深緑色の髪の、魔術師の方ですか」
「ああ。シェンド・クリス少佐、君の言うとおり魔術師だ」
 大尉が頷く。
「浅手とは言えなかったからね、一週間ほど大事をとって入院することになったよ。とは言え命に関わるような怪我ではないから、心配はいらない」
「そうですか」
 俺はほっと息をついた。初対面の人とはいえ、無事だと聞けばやはり安心する。
 そして内心で、ここの人たちはやたらとフランクだな、と思った。ワナン大尉から見て佐官であるクリス少佐は上官にあたるはずだが、その彼をファーストネームでこうも親しげに呼ぶと言うのは、なかなか見ない光景である。大尉と少佐では大尉の方がずっと年上だと思われるので、大尉がそうやってフランクに呼びかけるのはまだ分からないでもないが、明らかに一番年下である中尉が大尉に対して「ネルソンさん」と呼びかけるのはどう考えてもおかしい。
 事務官というのは、同じ軍隊の中でも上下関係が緩いのだろうか。
「医療班の女の子はシェンド君についているから、二人との顔合わせはまだ後日だね」
「はい」
 大尉は一旦言葉を切ると、目線を手元の書類に落とした。
「私たちは戦場に出るわけではないが、今日のように危険な目に遭うこともある。ここは第三師団の頭脳だから、我々に危害を加えようとたくらむような輩もいるんだよ。例えば……誰がいると思う?」
「えっ。ええと、セフィラ軍でしょうか」
 ワナン大尉は書類の一番下にすらすらとペンを走らせ、右手の書類箱へ放り込む。左手の書類の山から数枚の束を手に取り、目線を走らせつつ話を続けた。
「どうしてそう思う?」
「その……師団長の身に万一のことがあれば、戦争に有利に働くからです」
「そうだね。師団長が暗殺されれば当然こちらには大きな痛手となる。でも私がセフィラ軍なら、暗殺は春にするだろうね」
 ここイザーク王国は山に囲まれた盆地に位置する小国である。国土の規模こそ小さいものの、温暖な気候に恵まれたこの国では農業が盛んであり、小麦や果物など多くの農作物を特産としている。攻められにくく守りやすい盆地という地の利もあり、イザークは小国ながら近隣の大国に併合されることもなく有効な関係を築いてきた。ただ、イザークの北に位置するセフィラ公国だけは別だ。峻厳な山脈を国境としてイザークと接するセフィラ公国は、イザークと同じく周囲を山脈に囲まれた小国である。ただしその土地は雪と氷に閉ざされ、作物も満足に実らない痩せた貧しい土地だという。何十年も前の、例年よりも冬の寒さが厳しかったある年、セフィラ公国はイザーク王国に対し、国土の一部を譲り渡すように要求した。寒さと飢えに耐えかねた貧民たちの暴動を防ぐため、国民感情を戦争に向けて盛り立てていったのだとか言われているが、真偽は定かではない。当然イザーク国としてはそんな不当な要求を受け入れるはずもなく、攻め入ろうとするセフィラ軍を国境の山脈内にて迎え撃った。小競り合いはすぐに収束するかと見えたのだが、撃退しても撃退してもセフィラ軍はしつこく攻め込み続け、戦いは翌年の冬が訪れ山が雪にすっかり閉ざされてしまうまで続いた。
 それ以降何十年もの間、イザーク王国では、春が訪れ国境山脈の雪が融ける時が戦争の始まりの季節となっている。
「もうすぐ秋も終わり冬が来る。休戦の季節だ。休戦中に師団長が死んだところで、攻め込めないなら大して意味はない」
 第三師団の本拠地はイザーク軍北支部である。それはつまりこの第三師団が、対セフィラ軍の中核を担っているということだ。セフィラ軍以外にこれといった敵対国のないイザーク軍において、北支部は唯一の前線基地とも言える。その北支部を統括する第三師団の師団長は暗殺の対象に充分なり得る存在だ。
「指揮官の暗殺だなんて大きな博打を打つなら、一番効果の大きい時期を選ぶべきだ。両軍ともに主力部隊を退かせた今はその時期ではない。そうだろう?」
「はい」
 俺は大尉の手元をぼんやりと眺めながら頷いた。人と会話しながらの作業とは思えないほど、大尉の作業スピードは速い。何枚も重なった分厚い書類をぱらぱらと流し見して、俺には読めないややこしそうな字を息をするように書き連ねていく。出来上がった書類は次々と右手の書類箱に乗せられていくので、彼の右手にはあっという間に書類の山が積み上がっていた。
「それにあの爆弾で本当に師団長が殺せると思うかい。あの馬鹿を暗殺するつもりなら、この部屋ごと吹っ飛ばすぐらいの勢いがないとまず無理だろうね。まあ、実際にそれぐらいの規模の爆弾が送りつけられてきたとしても、なんだかんだとしぶとく生き残りそうだけどね」
 なんだか途中に信じられない言葉が混じっていた気がしたが、さすがに気のせいだろう。俺は黙って頷き、ちらりと背後の応接ブースがあった方を振り返った。確かにあの爆弾は暗殺のためのものというには威力が小さすぎる。俺もカーライン中尉もそこそこ近い場所にいたのに軽傷ですんでいるし、爆弾の目の前にいたのであろう少佐殿も命は助かっている。あの爆弾で死ぬためには爆弾を心臓に押し付けて爆発させるぐらいのことをしなければいけないだろう。
「あの爆弾は確かに師団長宛てに届いていたけれども、師団長自ら荷物を開封するなどとは犯人だって思っていないだろう。そうなると、犯人の目的は暗殺ではない。警告か、もしくは挑発のつもりか。師団長に不平不満があって、殺したいほどではないが痛い目にあわせてやりたい……なんて考えている人はまあ大勢いるだろうが……果たしてそれだけの動機で爆弾まで用意することができるか、と考えるとなんとも微妙だね」
「……大勢、いるんですか」
「人の上に立つ人間は、嫌われるのも仕事だからね」
「はあ」
「あの爆弾は今日届いた郵便物の山の中にあった。どこかから送られてきたのか、それとも配達部署から執務室に届くまでの間に誰かが紛れ込ませたのか、それはまだ分からない。現状で言えるのは、師団長もしくは私たち事務官について、物騒なことを考えている輩がすぐ近くに潜んでいるかもしれないということだね」
 いつの間にかぽかんと口を開けていた俺をちらりと見上げて、ワナン大尉は怖いほど優しく笑った。
「君の護衛としての腕に期待しているよ」


 日が傾き出したころ、俺はカーライン中尉に伴われて地下の書庫へ行くことになった。北支部本部2階の一番奥に位置する執務室から、階段を下りて地下まで下る。本部の地下は地上の建物よりも広いスペースが掘り下げられており、その中には今から向かう書庫、食料庫、武器庫、そして有事の際には市民を受け入れる防空壕などがある。立ち入るためには許可が必要であり、俺は地下に下りるのは初めてだ。
 階段を下りきったところには見張り番が二人立っており、中尉に向かって敬礼する。中尉と俺も敬礼を返し地下室へと足を踏み入れた。地下室の中は薄暗く、数メートルごとに小さなランプが設置され足元の明かりを確保している。中尉は慣れた足取りで狭い通路を進んでいった。何本か同じような風景の分かれ道を越えたのち、辿り着いた先には石材でできたアーチ形の入口があった。扉はない。
 中尉の後に続いてアーチをくぐる。するとその先には、先程までの通路よりも少し天井の高い空間が広がっていた。木製の古びた本棚がずらりと整列しており、薄暗くて部屋の端がどの辺にあるのかは見えないが、かなり奥の方まで続いているらしい。古い紙と埃の臭いが鼻につく。
「台車を持ってきてください」
 中尉は入口近くに置かれたランプを一つ拾い上げた。台車もランプの傍に数台積み重ねられている。俺は一番上にあった台車を下ろした。石畳の上でガタガタと揺れる台車は本を積みやすいように荷台の部分を板で囲ってある。
「過去の統計や報告資料は最終的にここに集められるんです。執務室に置いておけたら便利なんですけどね」
 本棚から分厚い資料が次々に選び出され、台車の中に放り込まれていく。暗さもあって、中尉の選ぶ本やファイルの名前もよく分からない。明るいところで見ても読めないかもしれないが。少しずつ重さを増していく台車を押しながら、俺はここが地下であることを思い少しだけうんざりした気持ちになった。
「これから各報告書の提出期限がやってきます。戦死者や負傷者数の報告、使用した武器や備品の報告、戦績や捕虜についての報告と、まあいろいろです。各小隊ごとに報告書を作成してもらって、それら全てを僕たち事務官でまとめ上げて第三師団の報告書として中央本部に提出するんです」
「はい」
「その提出期限が一週間後なんですよ」
 中央本部というのは、イザーク王国の首都カッセルにあるイザーク軍の本部のことを指す。中央本部はイザーク国の中央地域を統括するだけでなく、東西南北の四つの支部をも統括している。そこへ報告書を運ぶとなれば、どんなに速い馬を使ったところで二日はかかるだろう。つまり期限は実質的には五日後ということになる。
「小隊の報告書は今日の日没までとしています。だから、今夜からが勝負なんです」
「ああ、それで執務室には、あんなにたくさん書類があったんですね」
「え? 何を言ってるんですか。あれは日常的に発生する雑多な報告書ですよ。今季の結果報告はあれとは別です。どこの隊もぎりぎりまで出してきませんからね」
「……まだ増えるんですか」
「普段見ていない人にはなかなか想像できないかもしれませんが、軍の仕事は戦争だけじゃないんです。治安維持、消防の役割も担っていますし、人事や経理みたいな内部の仕事もあります。そういったもの全てをまとめようっていうんですから」
 一番下の段から一際太いファイルをごっそり抜き取ると、中尉はぐいと体を逸らし背伸びをした。
「よし、これで必要なものは揃いました。重たいと思いますけど、宜しくお願いします」
「お任せください」
 俺は重量を増した台車を転がしていく。本の重みにきしむ車が石畳の隙間に入り込み、動かしにくいことこの上ない。先を行く中尉に置いて行かれないよう、俺は台車を押す手に力を込めた。



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