事件ファイル#01 幸運なる左遷



 本日付で、イザーク軍第三師団執務室付事務官に任ずる

 俺は重たそうな両開きの扉の前でごくりと唾を飲み込んだ。ここはイザーク軍第三師団執務室。今日からの、俺の新しい職場だ。執務室というのはつまり、文字通り執務を執り行うための部屋である。それ以上のことは何も知らない。具体的にどういう「執務」があるものなのか、今まで考えたこともなかった。事務官というぐらいだから恐らくは事務仕事だろう、と推測してはいるが、事務仕事といっても書類をたくさん読んだり書いたりするのだろうという程度の認識しかない。どうか笑ってくれるな、剣を振り回すしか能のない一般兵卒なんてみんなこんなものだ。
 だが、これからはそんな事を言ってはいられない。事務官に任じられたということは、その事務仕事をこなしていかなければならないということだ。俺はため息をついた。握った手の中ではぐしゃぐしゃになった辞令がわずかに汗を吸って湿っている。この辞令を受け取った時、正直に言ってなにかの間違いだと思った。だが、最後の行には紛うことなく俺の名前が記されていた。いかに読み書きに自信がないといっても、自分の名前は読める。ラテス・ルイン、それが俺の名前だ。
 これはきっと、左遷というやつなのだ。読み書きはおぼつかない、計算もできない、学校なんかまともに通ったこともないこの俺に事務仕事が務まるはずがないのは誰が見ても明らかだ。つまりは厄介払いである。直属の上官に疎まれているのは薄々感じていたが、まさかこんな嫌がらせを受けるとは思わなかった。
 俺は二度目のため息を飲み込んで、執務室の扉の取っ手を握った。前途多難だが、とにかく任命されてしまったものは仕方がない。仮に軍を辞めたとしても他に仕事の宛てはないのだし、そうなれば弟妹たちを初めとする家族を養うことはできない。だったらもう、がむしゃらに働くしかない。いや、ほんと、前途多難だが。
 こんこんこん、と三回ノックをする。分厚そうな扉だが、ちゃんと向こう側へも聞こえたらしい。細く開いた扉の隙間から兵士が一人姿を現した。俺は姿勢を正し敬礼する。
「本日付で事務官に任じられました、ラテス・ルインです」
「中へ」
「はい」
 初めて見る執務室の中は、想像していたよりも手狭で、かつ質素だ。横長い部屋の中央、扉の正面には師団長のものだろう大きな机が鎮座している。一切の装飾が取り払われた機能的なその机の上には崩れ落ちそうなほどの紙の山が積み上げられていた。そこに座っているべき師団長の姿は今はない。その代わり、背後の壁にかけられたイザーク軍の鮮やかな緑色の旗が書類の間から見えた。
 部屋の右手には簡易な応接用ソファとローテーブルが置かれ、そちらには大小さまざまな箱が積まれている。佐官の軍服を着た小柄な男が一人、何やら作業をしているようだ。挨拶しようと向き直ったとき、逆方向から声をかけられる。
「新しい人ですか?」
 振り返ると、人懐っこい笑みを浮かべた黒髪の青年がこちらを見ていた。どうやら彼のいる方が事務官たちのデスクのようで、師団長のものよりも小振りな机が五つほど集まって置かれている。そこにも書類の山が積み上がっていた。
「はい。本日付で事務官に任じられました、ラテス・ルインで……と申します」
「よろしくお願いします」
 普通に名乗ろうとして、青年の腕に腕章があることに気付き慌てて言葉遣いを改める。赤い腕章は尉官の位にあることを示すものだ。俺は思わず青年と腕章とを見比べてしまった。軍隊において上官となる人間は必ずしも戦闘に長けているわけではない。貴族階級の出身で、ろくに剣も扱えないくせに官職についている人間というのは一定数いる。だが、これほど若い上官に会ったのは初めてだ。事務官と一般の兵士とでは昇格のルールが違うのかもしれないが、まさか成人しているかどうかも怪しい年下の青年が上官であるとは。
 青年はふっと苦笑を浮かべた。それで自分の視線があまりにも不躾だったことに気付き、顔が熱くなる。
「スコット・カーラインです。こんな見た目ですが、いちおう中尉です」
「し、失礼しました」
「いいですよ。名前だけの肩書きで、僕自身は別に偉くもなんともないですから」
 初対面で俺のような態度を取る者は多いのだろう、中尉は気にした風もなくあっさりとそう言った。その振る舞いから察するに貴族階級ではないようだ。もちろん個人差はあるが、普通の貴族ならば今の俺のような非礼を許さないだろうし、位の上下は彼らにとって重大なものだ。
 俺は顔に出さないよう注意しながら気持ちを切り替えた。年下の上官がいることについては特に抵抗はないが、油断すると先程のような失礼な態度をとってしまいそうだ。
「さて、とりあえずここのメンバーの紹介と、業務内容について説明しましょうか」
 中尉が振り向くのにつられ、俺も書類の山を見やる。なんというか、ある程度予想はしていたし覚悟もしていたつもりだったんだが、まさかこれほど書類に溢れているとは思わなかった。やっぱり俺、あれを読まなきゃいけないんだろうな。胃がずんと重たくなったような気がする。
 俺の顔があからさまに曇ったのに気付いたのか、中尉はくすくすとおかしそうに笑った。
「字を読むのは苦手ですか」
「え、あ」
「ここへ配属されてくる方はみんな、同じ顔をしているんですよね」
「……申し訳ありません」
「謝らなくていいですよ。心配しなくても意外と慣れてくるものですし、それにあなたが担当するのは事務仕事じゃありません。まあ、簡単な事は手伝ってもらうことになるでしょうけど」
「事務仕事では、ない?」
「あなたの仕事は、ここの事務官、つまり僕たちの護衛です」
 護衛。その言葉にようやく納得がいった。なるほど、確かにそれなら俺のような一兵卒の仕事だ。文字なんか読めなくたって構わないだろう。
「頼りにしていますよ」
「ありがとうございます」
 中尉から向けられた屈託のない笑みに俺も笑い返す。ほっとしたら自然と頬が緩んでしまった。
 だがしかし、果たして事務職の人間にわざわざ護衛をつける意味はあるのだろうか。こう言っては失礼かもしれないが、テロ等の標的になるのはもっと軍の中枢に位置する人なんじゃないのか。例えばここ第三師団の師団長なんかはどこに移動するにもぞろぞろと護衛がついてまわるし、各隊の隊長だって必ず信頼できる兵士を数人連れて動いている。この執務室は師団長が使う部屋でもあるはずだが、師団長がいる時は当然専属の護衛がついているだろう。常駐の見張りはさっき俺が部屋へ入るときにいた彼なのだろうし。
 それとも、もしかして交代制だろうか。それなら大歓迎だ。たとえ日がな一日立ちっぱなしだったとしても、読書させられるのに比べれば遥かに楽だ。
 中尉に続いて机の方へ足が向いた、その時だった。背後から鋭い声が飛ぶ。
「全員、伏せろ!」
 声を発したのは右手の応接ブースにいた男だ。何事かと振り向いた俺の視界が眩しい光で真っ白に染まる。ぞわ、と怖気が立った。
「えっ?」
 少々間の抜けた声をあげる中尉をかばい、俺は身を伏せ固く目を閉じた。爆音が鼓膜を叩き世界から音が消える。同時に襲ってきた爆風になすすべもなく翻弄され、床を転がる。焼けた鉄を押し当てられたような激痛が背中に襲う。
 衝撃は一瞬のことだった。だが、バカになった聴覚と視覚はすぐには元通りになってくれない。キーンとひどい耳鳴りがして、周りの音が全く聞こえない。視界が利かないのは光に目が眩んだだけではないようだ。辺りに蔓延する熱を帯びた煙を思いっきり吸い込んでしまい、俺はげほげほとむせ返る。焦げ臭い嫌な臭いだ。目に滲んだ涙をぐいぐいと乱暴に拭っていると、少しずつ視界の方は回復してきた。うつ伏せの体勢で床に這いつくばっていた俺の横で、中尉がぺたんと床に座り込んで両耳を押さえている。だいぶ痛そうな顔をしているが、幸いなことに流血するような怪我はしていない。ぎゅっと固く目を瞑っているのは俺と同じように目と耳をやられたからなのだろう。大丈夫ですか、と声をかけても彼には聞こえた様子がなかった。そういう俺自身も、自分の声が耳鳴りにかき消されてほとんど聞こえなかったのだけれども。
 中尉は恐る恐る、と表現するに相応しい挙動で目を開けた。少しずつ晴れていく煙の中で、俺の方を向いた中尉の顔がさあっと青ざめていく。俺はちょうど起き上がろうと体を動かしかけたところだったので、その理由はすぐに分かった。先程からずきずきと痛み始めていた背中が濡れている。
「ち、血が……」
「大丈夫です」
 中尉の声も自分の声も少し遠くから聞こえるが、ちゃんと聞こえている。この分なら耳鳴りもすぐに収まるだろう。
 周囲の床には人間の指くらいの大きさをした金属の破片がぱらぱらと突き刺さっている。俺の背中の傷も同じものが刺さってできたものだろう。当然ながら自分では見えないが、痛みも出血量も大したものではなさそうだ。爆弾の威力がそれほど大きくなかったのが幸いしたのだ。
「少佐、中尉! ご無事ですか!?」
 煙をかき分けるようにして、出入口に立っていた兵士が駆け寄ってくる。俺はハッと顔を上げた。そうだ、あの佐官の男はどうなった。
 応接ブースの方には積み上げられていた箱が散乱している。テーブルの上に一つぽつんと残った箱は黒く焦げひしゃげていた。あれが爆発の中心だろう。ローテーブルやソファにびっしりと突き刺さる金属片はその箱から放射線状に広がっていた。
 ソファの後ろに倒れていた青年が、破片だらけの絨毯に手をついてゆらりと上体を起こす。ひびの入った眼鏡が滑り落ちてかしゃん、と軽い音を立てた。
「お怪我は」
 少佐、と呼ばれた青年は魔術師なのだろう、深緑色の髪を腰まで長く伸ばしている。その長い髪に隠れて顔は見えないが、俯いた彼が苦しげな咳をする度にぱたぱたと血が垂れ、暗いグレーの絨毯に染み込んでいく。彼の体にはあちこちに金属片が突き刺さってしまっている。爆弾との位置が近かったこともあり、傷が深いのか出血も多い。俺は彼の前方に回り込んで片膝をついた。
「少佐」
 まだ耳がよく聞こえないのか、少佐の反応は薄い。胸を押さえる手袋の下から赤い色がじわじわと広がっていくのに気付き、俺は思わず顔をしかめた。
「中尉、医療班を呼びましょう。傷が深いようです」
「えっ、た、大変だ」
 兵士に助け起こされたカーライン中尉の顔が強張る。きょろきょろと周りを見渡した後、爆発音に気付いて様子を見にきたらしい出入り口の兵士を呼び止めた。
「すいません、医療班の方を呼んできてくれませんか。怪我人が出ました」
 俺と兵士で男の怪我の応急手当てをしていると、医療班のスタッフはすぐに駆けつけてくれた。後の治療は専門家に任せることとして、俺も別室にて背中の傷の処置をしてもらうことになった。



Next Top Index