08 騒がしいネムリネズミ --4



 ふと、ずいぶん遠くで誰かの叫び声が聞こえたような気がした。叫んでいると言うよりは怒鳴っているという方が正しいかもしれない。怒りを含んだ声というものは、内容まではわからなくともそれが伝わってしまうものだ。この屋敷の中でそんな声を上げるのはキャロルさんとミティーちゃんぐらいだ。キャロルさんは今お部屋で休んでいるから、ミティーちゃんは案外まだ屋敷の外には行っていなかったのだろうか。
 ともかく声のした場所を特定しようと、私は廊下を小走りに急ぐ。
『……! ……!!』
 ミティーちゃんのものらしい声が私の頭の中でふわふわと揺れる。なんだか変な感じだ。耳に届いているのではなく直接頭の中に響いてくるような気がするのだ。響くというと重たい感じだがむしろ雲のように浮ついて捉えどころがない。もしかしてこれは空耳というやつなのではと思い始めた頃、私の目に信じられない光景が飛び込んできた。
 廊下の向こうの方で、ミティーちゃんがドアの前に立っている。彼女と向かい合う位置に一体のマリオネットがいる。そしてその一人と一体は体が半透明になっていたのだ。私は何かを見間違えたのだと思い目をこすってもう一度よく見るが、やはり彼女らは半透明なままだった。向こうの廊下の絨毯が透けて見えている。
『ど……て、連れて行ってよ!』
『ムチャを言うなよ』
 会話が少し聞こえやすくなった。どちらも私の存在に気付いていないのか、こちらを気にする素振りがない。私は恐る恐る彼女らに近付いていった。
『ちゃんと言われた通りにしたでしょ、なのになんで!』
『だって、君を……て行ってもしょうがない』
 必死になっているミティーちゃんに飄々として肩をすくめてみせるマリオネットは、眠たそうな目をしたネズミだった。ネムリネズミだ、と気付いて我知らず背筋が冷たくなる。
「ミティーちゃん!」
 かなり近くまで来たのに、彼女は一向に興味を示さない。名前を呼んでも一緒だった。きっと見えていないのだ。どうしよう。半透明になっているのがどうしてか分からないし、こんなときはどうすればいい?
『アリスを連れていきたいんだよ』
『だからマリオネットの部屋に行ったじゃない! それでもダメって言うから、ここのお姉さんのことかと思って、でもそれも違うっていうし!』
 涙混じりのミティーちゃんの声にドキリとする。ここは、つい最近人間に戻ったあの女の子が今与えられている部屋なのだ。彼女がどこの誰なのか分かり、本人の気持ちも落ち着くまではここに住むのだとか。人間に戻れたときはいつもそうするのだ、とキャロルさんは言っていた。
 ネムリネズミはアリスを探しているのか。あのマリオネットの部屋にもなく、この部屋のもう一人のアリスも違うのだというのなら、連れて行きたいアリスとは……。
『うーん、君はどっちかというと三月ウサギだねぇ。ルノがいたらちょうどお茶会のメンバーになるんだけど。……おや?』
 ネムリネズミがちょこんと首をかしげる。その目線がまっすぐ私に向き、彼はしばらく動きを止めた。私の背後に何かあるのかと思って振り向いてみるが、特に変わったものはない。というか、半透明でしかも糸がなくても自由に動けて喋れるマリオネットほど変わったものはそうないだろう。だが視線を戻しても彼はまだ私を見ていた。
『ちょっと、どこ見てるのよ。はぐらかさないでちゃんと……』
『あははははははははははははははははははは!!』
 ネズミの口がぱかりと開き、突然けたたましい笑い声がほとばしる。私もミティーちゃんもぎょっとして固まった。いくら手足が動き口や目が開閉するようになっていても、マリオネットは表情までは動かせない。眠たそうな顔のままで笑い続けるネムリネズミはこの上ないほど不気味だ。その笑いにも嘲り、蔑みのようなどろどろした黒い感情が絡みついている。怖い。私は無意識のうちに一歩引いていた。
『ははははははっ、そうか! これは、おもしろい』
 ネズミはくるりとミティーちゃんの方を向き、完全に雰囲気に呑まれた彼女を挑発するように声をかける。
『気が変わったよ。君も連れて行ってあげよう、チェシャに会いたいんだろう?』
『……チェシャなんかじゃないわ、あたしの弟よ!』
 ミティーちゃんは自分を奮い立たせるように叫ぶ。ネズミは大きくうなずいて、私たちに背を向けて廊下を進み出した。私をマスターのところへ案内した白ウサギはぴょんぴょん飛び跳ねていたが、ネムリネズミは床から少し浮いた状態で滑るようにすうっと進んでいく。足は動いておらず、歩いているように見せるつもりもないらしい。ミティーちゃんは迷わずその後を追った。
「ミティーちゃん、待ってください! 行っちゃダメです!」
 私は慌てて呼び止めようとするが彼女には聞こえない。彼女の腕をつかもうと手を伸ばしたところ、半透明の彼女には触れることができなかった。空を切った手を仕方なく振って彼女の後に続いて走っていく。先頭のネムリネズミが振り返り『ククク』と小さく笑った。無駄だよ、と言われたようで頭にきたが、その笑いには私を怒らす以上にミティーちゃんを挑発する意味があったようだ。彼女の走るスピードが上がり、ネズミもそれに追いつかれないように速くなる。私と彼女らの間の距離が少し開いてしまった。
 見失うまいと必死に走っていくうちに、お屋敷の一階の裏口へと近付いてきていた。外へ出てしまう前に誰か応援を呼ばなくちゃ、と思うがキャロルさんに言ってもランさんに言っても心配させるだけだと気付いた。ルノさんは今外に出ているはずだし。つまり私がなんとかしなくてはいけないのだ。
(ああ、もう! せめてゆっくり走ってくれれば)
 街の中で見失うことだけは避けたい。そう考えていると、ネズミが突然思いがけないところで右へと曲がった。裏口に出るにはもっとまっすぐ進まなくてはならない。どうして、と思いながらもミティーちゃんに続いて右へ曲がる。ネズミは空中を滑り、とあるドアの前で急停止した。
(ここは・・・・・・まさか)
 私は大きく肩を上下させて息を整える。ネズミの考えていることが分かったような気がした。
「やめてくださいっ、聞こえて、るんでしょ、ねえ!」
 ネズミは私の悲鳴を聞き流して、ドアに突進した。その体はぶつかることなくドアをすり抜けていく。ミティーちゃんはドアノブに手を伸ばして勢いよくドアを開けたが、私の目には現実のちゃんとしたドアが微動だにせずそこにあって、彼女の手の動きに合わせて半透明のドアがもう一枚現れたように見えた。私が白ウサギを追いかけていったときのように、たぶんミティーちゃんにはこのお屋敷のどこにも人がいないように見えている。そして他の人たちにはミティーちゃんが見えていない。今の私はおそらく、ミティーちゃんの見ている景色と他の人たちが見ている景色を同時に見ているのだ。どうしてそんなことができているのか私にはわからないが。
 私もミティーちゃんと同じように勢いよくドアを開け、部屋の中に飛び込んだ。大きな窓のある小じんまりとした部屋だ。窓の下にベッドが一つ置かれていてその周りには分厚い本がいくつも乱雑に積み重ねられている。近くのローテーブルには包帯やガーゼなどがきちんと箱に詰められて並んでいる。ネムリネズミは開いた窓の枠に腰掛けて愉快そうに体を左右に揺らしていた。カーテンが風にあおられて広がる。ミティーちゃんが小走りにネズミの方へ行く。
 そしてそれを、ベッドの中で蒼白な顔をしたランさんが見ていた。




Back Next Top Index