08 騒がしいネムリネズミ --5



 驚愕の表情で固まっていたランさんは、私の顔を見たとたんにベッドのシーツをはねのける。床の上に落ちたそれをぐしゃりと踏みつけて彼はミティーちゃんへ手を伸ばした。だがもちろん彼女に触れることはできない。するりと半透明な体をすり抜けてしまい、彼は呆然として自分の手と彼女を見比べた。彼女の方はまったくランさんの存在に気付いておらず、まっすぐ窓枠に腰掛けているネムリネズミを目指す。ドアから窓まではそんなに距離がない。彼女が窓のところまで行くと、ネムリネズミはまた少しだけ宙に浮いてすうっと動き出した。窓の外に出て庭の中を進んでいく。
「なんなんだ、あれは!」
 ランさんの疑問に答えている余裕はなかった。ミティーちゃんがネズミを追って、窓枠に足をかけ庭へと飛び降りる。私もそれに続いて急ぎ窓枠によじのぼる。
「消えた……」
 彼はぽつりとそう呟いた。だが顔を上げてみると、ミティーちゃんもネムリネズミも私の視界からは消えておらず、庭の中を走っている。私は彼を見た。
「見えないんですか?」
「見えるのか!?」
 はい、と頷いて窓の外へ飛び下りる。ランさんも続いて下りてきた。口を開こうとする私を遮って彼は早口に尋ねる。
「どっちだ!」
「あっち、バラの迷路の左手の方です」
 私が言い終えないうちに、ランさんが私の手を取って走り出した。いきなり手を引かれたので転びそうになったがなんとか体勢を立て直し彼についていく。
 彼の力が握った手から伝わってきた。私の手を握っているのは左手だ。彼は走っているけれどあまり右腕を振っていない。怪我が痛むのだろうか。顔色は窺い知ることができないが、彼の荒い息づかいはよく聞こえた。こうなるのは当たり前だ。彼が本調子であるわけがないのだから。ネムリネズミがランさんの寝ている部屋を通っていったのはきっとわざとだろう。彼をおびき出してどうするつもりなのか? マスターは彼に何かしようとしているのか? このまま彼を連れていったらまずいことになるかもしれない。だからといってもう後には引けない。
 ミティーちゃんとネムリネズミはお屋敷の裏庭の端までたどりついた。お庭と外の道との間には、まるで檻のような黒い金属の柵が高く設置されている。ランさんが追い詰めたのか、と荒い息に混じって尋ねてくる。私がいいえ、と答えると同時に彼らの姿はその柵をすり抜けていった。私たちは柵に沿って走り、外に出られる裏口を目指す。裏口はそれほど遠くはないのだが、半透明の後ろ姿はどんどん遠ざかっていってしまう。ネムリネズミはもう私を待ってはくれないようだ。
「ランドルフ様!」
 やっと裏口まできて、黒い柵と同じ金属の扉に手をかける。背後から庭師さんか誰かの咎める声が聞こえたけれど、そんなものにかまっている場合ではない。ミティーちゃんはもうとっくに曲がり角の先に行ってしまった。ランさんがどこからか小さな鍵を取り出して、扉を固定している鎖の南京錠に差し込んだ。かしゃんと音がして鍵はすぐに外れる。扉を開いて外の道に出た。
「先に行ってろ」
 ランさんはそう言って、外側から鎖を手早く元のように巻き付けた。私は走り始めながらちらちらと後ろを振り返る。慌てた庭師さんが扉の方に向かって駆け寄ってきたが、彼が扉に手をかけたときにはもう鍵がかけられてしまっていた。
「お待ちください、お二人とも!」
 がしゃがしゃと扉を揺らして彼が叫ぶ。ランさんはそれを無視してすぐに私に追いつくと、また手を取る。
 ミティーちゃんの曲がった角を私たちも曲がる。その瞬間、かなり遠くの方で彼女らしい影がさっとどこかの角へ入ったのが見えた。ランさんと二人でその辺りまで走る。だが、ここの通りは縦に細長い建物が多く、横に曲がる道がたくさんありミティーちゃんがどの道を曲がったのかよく分からなかった。そもそもさっき見えた人影が本当にミティーちゃんだったかどうかも分からない。念のため近くの十字路をいくつか見てみたが、もう彼女の姿はどこにも見えなかった。ランさんがどっちに行けばいいんだ、と言うように私を振り返る。私はただ首を横に振って地面にしゃがみこんだ。息が苦しい。じわりと涙が浮かんだ。私は何をやっているんだろう。見失ってしまった。ミティーちゃんはきっとマリオネットにされて連れていかれてしまう。そうしたらランさんはどうする?
 ざわりと生温い風が吹いた。それに誘われるようにランさんが歩き出す。私が立ち上がるのを見ると、彼はひらりと私に左手を振った。
「あんたは帰れ」
「いやです!」
 彼に駆け寄って、両手で彼の右手を握る。傷に響かないようにと思って引っ張ったりはしなかったが、ランさんは足を止めた。
「私だって、ミティーちゃんが心配です。それにランさんのことだって心配です!」
「俺が?」
「そうですよ!」
 振り返ったランさんは目を丸くして私を見つめた。私はできるだけ怖い顔になるように、がんばって全身で彼をまっすぐ睨みつける。ぽかんとしている彼が無性に腹立たしかった。なるほどランさんはいなくなった弟や言うことを聞かない妹が心配かもしれない。でも彼のことを心配している人だっているのだと、ほんの少しも考えないのだろうか? 誰かの身を案じているのがつらいことなのは彼が一番よくわかっているはずなのに。
 しばらく黙って動かずにいたランさんが、ふと顔をそらした。頬が少しだけ赤くなっている。どうしてだろうと思った瞬間、ランさんとの距離がやけに近いことに気付いて私の顔もさあっと紅潮した。慌てて目をそらし、うつむく。そういえば手も握ったままだ。離した方がいいだろうか、それともいきなり離したらあからさまだろうか。どうしよう。
「……今の」
「え?」
 ランさんの呟きに反応して思わず顔を上げると、彼の顔は真剣な表情に戻っていた。
「何か聞こえなかったか」
 雑念を振り払い、周りの音に耳を澄ませてみる。風の音に混じる人々の足音、話し声。遠くの方で馬車が走っていく、ガラガラという車輪の音が聞こえる。
「何も……」
「シッ」
 ランさんが人差し指を口元で立てた。私は口を閉じて、まっすぐどこかを見ている彼の視線を追う。彼は五軒ほど向こうにある赤い屋根の家を見ているように見えた。今いる通りから細い道を入ったところにある、周りの背の高い建物に押しつぶされそうな小さな家だ。ランさんはその家に向かってまた走り出す。私も後を追った。
 ランさんが家のドアを勢いよく開けたとき、私は玄関の足下に黄ばんだ白いリボンが落ちているのに気付いた。




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