突然部屋に踏み込んできたキャロルさんは、私とルノさんには目もくれずに一直線に奥のドアを目指す。バタンと大きな音を立てて向こうの部屋をのぞいた。
「ここにもいないなんて」
私はルノさんと顔を見合わせ、首をかしげる。キャロルさんはドアを後ろ手に閉めながら暗い表情で私たちに問いかけた。
「ミティーが来ていませんか」
「いえ、見てませんよ。どうかしたんですか」
「姿が消えてしまったのです。どうしましょう、これではシェナの時と同じだわ! あの子も彼のところに行ってしまいます」
ルノさんが椅子から立ち上がり、両手で顔を覆ったキャロルさんの肩にそっと手を置く。その真剣な表情はすっかりいつものルノさんだった。
「落ち着いて説明してください。その子が消えたときの状況を、詳しく」
キャロルさんは両手を少し顔から離して、下を向き何か考えているようだった。いや、ミティーちゃんが消えたという時のことを思い出しているのだろうか。不安の色の濃い顔がルノさんを見上げて、またうつむき、また見上げてと落ち着きなく動く。それに対して彼女が話し出すのを待っているルノさんはじっと彼女を見つめていた。やがて、うつむいた彼女が口を開く。
「ミティーに勉強させていたのです。あの子はランとは違って、まだしっかり学校に通うべき年ですから。そこに、何の前触れもなく一体のマリオネットが現れて、あの子に話しかけました」
「マリオネット? もしかして白ウサギですか」
「いえ、ウサギではなくて、あれは……何だったのでしょう。動物でしたけれど、それどころではなくて」
「……マリオネットが話しかけてきて、どうなったのですか」
うっかり口を挟んで脱線してしまったが、ルノさんの静かな声が本題に戻す。キャロルさんは彼を見上げて泣きそうな顔をした。
「それだけですわ! まずいと思って、あの子を逃がそうとしたのに、本当にあっと言う間にどこにも見えなくなってしまって」
私の時と同じ、というのは、きっと白ウサギに導かれてマスターのもとへ行ったときのことだ。あのとき私には、キャロルさんやお屋敷の人たちがみんな一瞬でいなくなってしまったように見えていたけれど、キャロルさんたちからすると私が消えてしまったように見えていたのだろう。ということは、ミティーちゃんは誰もいないお屋敷の中で一人マリオネットを追いかけているのだ。そしてたどり着く先はおそらくマスターのところだ。
そのようなことを錯乱しているキャロルさんの代わりにルノさんに説明すると、彼の顔つきが険しさを帯びた。
「街を捜索して参ります。いいですかお嬢様、ランにはこのことは絶対に伏せておいてください」
キャロルさんがうなずいたのを見て、ルノさんはすぐに部屋から出ていく。彼がいなくなると私はどこかほっとしている自分に気付いた。
ルノさんは私のお父さんだった。それが分かったからといって彼に対する態度をいきなり変えるのは抵抗がある。だからといって今まで通りに接していいものだろうか。いきなり「お父さん」と呼ばれて彼はどう思ったのだろうか。私はこれからどんな顔をしてルノさんに会えばいいのだろう。
「シェナ」
キャロルさんが飛びつくように私に抱きついた。両腕が体に回され痛いほど力がこめられる。
「キャロルさん、大丈夫ですよ。きっと大丈夫です」
震える彼女の背中をそっとさすりながら声をかけるが、彼女の返事はない。顔を押し当てられた肩の辺りがじわりと濡れた。彼女は子供のように私にしがみついて、声を上げずに泣き続けた。
なんだか、キャロルさんっていつも焦ったりうろたえたり心配したりしている気がする。私はどうしてこの弱い人を女王様にたとえたりしたんだろう。彼女は人の首を刈るどころではない、自分の首が刈られそうでびくびくしているではないか。いや、少し違う。首を刈られそうなのは彼女ではなく、その周りの人間だ。ランさんやルノさん、そしてミティーちゃん。二人の弟ミーアくん。おそらく、私もその一人だ。どんなに無茶をするなと諭しても聞き入れない私たちの身を案じて、彼女は神経をすり減らしているのだろう。爆発したように怒ったりするのもそのせいかもしれない。
でも、キャロルさんはどうしてこんなにしてくれるんだろう? ランさんとミティーちゃんがミーアくんのことについて必死になるのは分かるし、ルノさんが私を探してくれていた理由も今は分かる。たぶんランさんとキャロルさんはもともとお友達か何かなんだと思う。ランさんはキャロルさんのことを愛称で呼んでいるし。じゃあルノさんと私については?
私の耳に、キャロルさんのくぐもった声がかすかに届いた。それで我に返り、考えるのを一時中断してまた彼女の背中をさする。
「キャロルさん、大丈夫ですか? 座りますか」
「……」
彼女は私の声に反応したようではなかった。服に顔を押し当てたままなのでよく聞き取れないが、どうして、と言ったように聞こえた。
「どうして、こんなことになったの……」
「キャロルさん?」
わずかに体を離したキャロルさんは虚ろな目をしている。
「全部あの日から始まったんだわ。ルノとニーナが失踪して、それに彼もいなくなった。幼いあなただけが残されたあの日……どうしてあんなことになったのよ。みんな優しかったわ。彼だって優しかった、一番優しかった。それなのに、どうして」
彼女の言葉はそこでふつりと途絶えた。口をつぐんで動かなくなった彼女の頬にまた新しい涙が一滴流れる。私は衝動的に彼女を抱きしめた。彼女の顔を見ていられなくなったのだ。
「……シェナ」
「少し、休みましょう、キャロルさん。疲れているんですよ」
彼女の返答はなく、少し間があってから小さくうなずいていた。足下のおぼつかない彼女を支えて寝室に連れていき、ベッドに座らせる。彼女は私の手を握って離そうとしなかった。
「シェナ、あなたはもういなくならないでください」
「キャロルさん……」
「ルノとニーナは失踪し、ミーアも誘拐されました。ルノは戻ってきたけれど……またいつ帰ってこなくなるか知れたものではありませんわ。ランだって同じです」
ふっと彼女の唇から力のない笑みが漏れる。するりと手が解かれて、彼女の膝の上にぱたりと落ちる。
「ごめんなさい、いろいろと変なことを言って。疲れているのですわね」
私は彼女にかける言葉を頭の中で探し、結局黙って微笑むことにした。
思い出した。
前に、私が暮らしていた孤児院についての話を聞いたときだ。キャロルさんは私の両親についても話してくれた。
私のお母さんはキャロルさんのお家でメイドさんとして働いていた。そしてお父さん、つまりルノさんはマスターのお弟子さんだった。ちょっと考えられないことだけれど、そういえばルノさんとマスターは知り合いみたいだった。二人の間で何があったのかは分からない。十三年前のある日、ルノさんはマリオネットに変えられた。それから十二年の間ずっと彼の時は止まっていたのだ。私の時が止まっていたのが一年ぐらいだから、ちょうど入れ替わる感じだったのだろう。
マスターは間違いなく私のことをルノさんの娘だと知っていた。だって言ったではないか、「君はニーナに似ているね」と。知っていて、私をマリオネットに変えたのだ。ならば私が巻き込まれたのは偶然ではない。マスターがどうしてそんなことをしたのかは、やはり分からないが。
「……どうしよう」
誰もいない廊下で立ち止まりぽつりと呟く。もちろん答える者はない。私はいきなり大量に知らなかったことを知ることになって、何というか、人間としての私の世界が開けたような気がしていた。だけどまだ重要なことが一つ分かっていない。それはマスターの動機だ。過去に起こった事実をどれほど聞かされたとしてもそれは結局過去のことだ。私が知りたいのは、あれほど大好きだったマスターが心の底では何を考えていたのかということだ。でも、それを確かめる術が私にはない。
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