08 騒がしいネムリネズミ --2



 ティーカップから紅茶の香りがただよう中、ルノさんがささやくように口を開いた。
「自警団の存在は知っているか?」
「はい。ミティーちゃんが教えてくれましたし、馬車に乗って走っていくのを見ました」
「ランを撃ったのは彼らだそうだ」
 ルノさんは香りをかいだだけで、飲まずにカップを置いてしまう。
「オールダムでは誘拐事件が多い。その理由はもう分かっているだろうね。被害者のほとんどが子供や若者であり、いなくなった者は見つかったことがなくもちろん犯人も捕まっていない。それで自警団は神経質になっているのだが、最近それに拍車をかけることがあった」
「また、誰かいなくなったんですか?」
「そう。貿易商レヴァント・ヒュームの娘が突然消えた」
「ヒューム……」
 聞き覚えがある、と思ってすぐに思い出した。それはランさんとミティーちゃんのファミリーネームではないか。そうだ、レヴァントさんといのは二人のお父さんの名前だ。
「えっと、その娘さんって、ミティーちゃんのことですか?」
「ああ。ヒューム氏にしてみれば、家出して戻ってこない長男のことだけでも頭が痛いだろう。その上に娘まで姿を消したとなって、焦った彼は自警団をたきつけた」
「えらい人なんですね」
 ルノさんがなぜかくすりと笑った。
「彼は有力な貿易商だ。あの兄妹の口からでなくとも、その名前は耳にしたことがあるだろう」
「そうなんですか。心配してるでしょうね……やっぱり、ミティーちゃんに帰るように言った方がよかったのかな」
「その心配はない。キャロル様が秘密裏にヒューム氏へ連絡を入れたようだから」
「あ、それでキャロルさん、ミティーちゃんに帰らなくていいって言ったんですか」
 うなずいて、カップに手を伸ばそうとしたときにひときわ強い風が窓から舞い込んできた。テーブルクロスがはためき、カップの横に添えられたスプーンがカタカタと小さく音を立てる。風に押されて、ルノさんの背後にあるドアが少し開いた。私は立ち上がり窓を閉めようと身を乗り出して手を伸ばす。窓の下の壁に押しつけた太股になにか固い小さなものがあたった。
「え?」
 片手で窓を閉めながらもう片方の手でスカートをおさえてみると、確かに何かがポケットに入っている。私はそれが何なのか思い出した。
「あっ!」
「どうした」
 ルノさんの声に振り向くと、彼は開いてしまったドアを閉めに行っていたようで部屋の向こうに立っている。
「あ……その……」
 言うか、言うまいか。しばし迷ってすぐに結論は出た。
「ごめんなさいっ」
 ぎゅっと目をつぶって頭を下げる。ルノさんは無言だった。たぶんどうして謝られたのか分からないのだろう。私はゆっくり顔を上げて、ポケットの中から丸いものを取り出しルノさんの方に差し出してみせる。
「これ、ルノさんのですよね。私、壊しちゃったんです」
 ルノさんの顔が見られずにうつむいていたら、彼は私の方に近付いてきた。大きな手が私の手を包んで、ペンダントが彼の手に渡る。
「……どうして君が」
「落ちてたんです。その、ルノさんがマリオネットになったときに」
「そうか」
「ごめんなさい。中の写真も勝手に見てしまって」
「いや、いいんだ。……君ならね。それに」
 顔を上げた私にルノさんが微笑んだ。壊れてしまったペンダントの鎖を持ち少し掲げて見せる。
「これくらいはすぐに直せる。もともとはこういう細工をするのが仕事だったんだ」
「へえ……」
 黄色がかった写真をルノさんの指がそっと開いていく。幸せそうな親子の家族写真だ。写真の中のルノさんは今とほとんど変わらないと思っていたけれど、こうして実際に見比べてみると写真よりも少しやせているような気がする。
「奥さん、美人さんですね」
「ニーナ、というんだ。これは娘のシェナ」
 私と同じ名前だ。そう思ったが口には出さなかった。まだルノさんは私の人間としての名前を聞いていないのだろうし、私はニーナさんという名前をどこかで聞いた気がしてそれが気になっていたのだ。しかしルノさんの次の言葉で思考は全て吹き飛んだ。

「君はニーナに似たんだね、シェナ」

「……え」
 ルノさんはまっすぐ私を見ている。微笑みは消えていて、静かな眼差しからは感情が読めない。
「ルノさん、なにを」
「これは君が一歳の誕生日を迎えたときの写真だ」
 私はもう一度写真を見た。今、目の前にいるルノさんとほとんど変わらないルノさん。その隣に寄り添うニーナさん。ニーナさんに抱かれている赤ちゃん。
「でも、でもこれ……ルノさんが……」
「君はまだ聞いていないようだ」
 ルノさんは私に背中を向けて椅子を引いた。ゆっくりと腰掛け、何もなかったかのように紅茶を口に運ぶ彼を私は呆然と見ることしかできない。
「マリオネットになった人間は、時が止まる」
「時が?」
「私がマリオネットにされたのは二十五歳の時だった。それから十二年間ずっと私の時は止まっていた。この体は今二十七歳だが……本当は三十八歳なんだよ」
「さんじゅう……はち……」
 私はぽかんと口を開けた。ルノさんがティーカップを受け皿に戻す音がする。それは彼らしくなく非常に乱暴な音で、一瞬カップが割れるのではないかと思ったほどだ。
「君がマリオネットになったのが十五歳。ならば君の体も十五歳のままのはずだ」
 自分の体を見下ろす。十五歳と十六歳の違いなんて分かるわけもないのだが、他にどうしていいか分からなかったのだ。むしろ違いを感じないことがルノさんの言葉が正しい証拠だろうか。取り戻した記憶の中の自分と今の自分の体に違和感は感じなかった。そういえば、髪も爪も伸びていないのだ。
「ルノさんは、本当に……私のお父さん、なんですか」
 ルノさんは答えない。彼はテーブルの上に肘をついて、手を組み顔を伏せた。立ち尽くす私を拒絶するように。
「言うつもりはなかった……私は、妻も娘も守ることができなかったんだ」
 彼の声はびっくりするほど弱々しかった。私はすっかり固まってしまっていた足をぎこちなく動かしてルノさんに近寄る。すぐ近くまで来ても彼は顔を上げなかった。
 この人が私の父親なんだ。私は自分にそう言い聞かせてみたが、実感はなかった。ただ、この人をこうして見下ろしていることが、どうしてかひどく悲しかった。
「おとう……さん」
 私は床に膝をついて、ルノさんの肩にそっと手を乗せた。ルノさんはやはりこちらを向こうとしない。
 こっちを向いてください。
 そう言いたかったのに声は出てこなかった。代わりに出てきたのは、自分でも全く考えていなかったことだった。
「私、キャロルさんや孤児院の院長さんにいろいろ自分のことを聞きました。私のお父さんとお母さんがどうしていなくなったのかも、教えてもらいました。最初、孤児院にいたんだって聞いたときに、もしかして私は捨てられたのかなって思ったんです。でもそうじゃなくて、二人とも私のことがいらなくなったんじゃなくて、それが分かって……安心して……」
 私の声が震えてきた。目の奥がじわりと熱くなる。泣いちゃだめだ。まだ泣いちゃだめだ。自分に言い聞かせながら続ける。
「それでも、二人とも生きてるのかどうか分からなかったから。だから、私、お父さんが生きているって分かって、……嬉しいんです」
 ルノさんの口がわずかに開く。私が黙っていると、彼の喉が息を吸い込む音が聞こえた。
「……すまない」


「ちょっと失礼しますわよ!」
 唐突に、女王様の叫び声がその場の空気を切り裂いた。




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