07 へし折られたトランプ --3



 血に汚れた廊下を掃除するメイドさんたちの間で、私とミティーちゃんは床に散らばっていたマリオネットを一つ一つ丁寧に拾っていった。一つ手に取るたびに傷がついているのではないかと気になって確かめていたので、私が五つほどを拾い上げたときにはミティーちゃんがほとんどを拾ってしまっていた。彼女はぐすん、と鼻をすすりながらメイドさんにもらった袋の口を私に向けて開いてみせる。マリオネットは全部で二十体ほどあった。マスターのものと雰囲気が似ているものもあれば全く違うものもある。袋を受け取ってありがとう、と言うとミティーちゃんは黙ってこくりと頷いた。
 二人で何度も道を間違いながらマリオネットの部屋に辿りつく。扉を開けたとき、後ろでミティーちゃんが息を呑んだのが分かった。部屋いっぱいのマリオネットが見えたのだ。灯りを点ければもっとびっくりするだろう。今は暗いから奥の方がよく見えないのだ。
「なに、これ」
「集めたそうですよ。みんなマリオネットです」
 ランプを持ってくればよかった、と思いながら部屋の中に足を踏み入れる。ざわりと空気が動いたような気がした。そんなはずはないのに視線を感じる。前にこの部屋に入ったときのことを思い出した。そう、ここにいるマリオネットは生きているのだ。彼らが人間であるにせよ、そうでないにせよ。
「ミティーちゃん、扉は閉めないでくださいね」
「なんで?」
「灯りのつけかたがわからないんです。閉めたら真っ暗になっちゃうので」
「わかった」
 ミティーちゃんは扉を大きく開いて勝手に閉まらないようにする。私はマリオネットたちの間に袋を置き中身を一つずつ近くの棚に並べてみた。二つ目を置いたとき、ふと並べ方が決まっていたりするのだろうか、と思って手を止める。だがぱっと見て分かるようなルールはないようだった。後でキャロルさんにでも聞いて、適当で駄目なのなら並べ直すということにする。そうして三つ目のマリオネットを手に取った私の耳に、誰かの声が聞こえたような気がした。
 顔を上げると、私の横でしゃがみこんで袋の口を開けてくれているミティーちゃんと目があった。彼女には何も聞こえていないらしい。どうしたの、というように私を見ている。私は背後を振り返ってみた。誰もいない。気のせいだろうか。
「……シェナちゃん?」
 ミティーちゃんになんでもないです、と答えようとしたとき、今度は声ではなく空気の動く感じがした。反射的に私は頭上を仰ぎ見る。暗い天井で何か動くものがある。いや、落ちてきている!
「きゃああ!」
 状況を理解したときには既に避けられる距離ではなかった。両手で頭をかばうのが精一杯で、私は天井から降ってきた何かの下敷きになり床の上に仰向けに倒れる。胸からお腹の辺りにもろに衝撃を受けて、息もできずに歯を喰いしばって痛みに耐えた。強く閉じた目にじわりと涙があふれる。
「なに、何なの!? シェナちゃんっ」
 目を開けると、ミティーちゃんは目を見開いていた。彼女は手を伸ばして、私の上に乗っている何かをどかそうとする。その何かは白い布に包まれていたのだが、彼女の手に引っ張られて布がひらりと床に落ちた。中にあったものを見て、私もミティーちゃんも目を見開く。
 それは人間だった。くすんだブロンドの長い髪を腰まで垂らした女の子だ。目を閉じてぐったりしている。私は上半身を起こして、女の子をくるんでいる白い布を少しずらしてみた。
「これは……」
 涙を拭いて、まじまじと女の子の服装を見る。彼女の着ている服は、不思議の国のアリスの服だった。私が着ていたものと、細かいところは違うけれどほとんど同じだ。
「ね、ねえ、この人、いま上から落ちてきたよね」
「そうですよね……えっと、寝てるというか、気を失っているみたいです」
「シェナちゃんの知ってる人?」
「いえ、知らない人です」
 服は知っているどころの話ではないが、女の子は見たことのない人だった。私と同じくらいの年の子だけれど、孤児院にこんな子がいた記憶はない。
「あたし、キャロ呼んでくる!」
「あ、そうですね。その方がいいと……きゃっ!」
 ミティーちゃんが突然に女の子を支えていた手を離し立ち上がった。ゆらりと揺れる彼女の体を慌てて抱き寄せるが、私の足はまだ彼女の体の下にあるのでそれ以上動くことができない。
「待ってて! すぐ戻ってくるから」
「ミティーちゃん、ちょっと待っ……」
 手を貸してください、と言う間もなくミティーちゃんは身を翻した。遠ざかっていく彼女の背中を呆然と見ながら、呼び止めることを諦めて少しずつ体をずらし女の子の下から脱出しようとする。女の子は小柄ではあるのだが気を失っているため少し重たく、また私はあまり力が強くないのでなかなかうまくいかなかった。
 バタン、と音がして突然辺りが真っ暗になる。驚いて顔を上げるも、本当に真っ暗で何も見えない。おそらくミティーちゃんが部屋を出ていくときに扉に触ってしまったのだろう。彼女が気付いて扉を開けに戻ってきてくれるかもしれないと少しだけ期待したが、彼女の性格からして全く気付かずに行ってしまうだろう。実際戻ってくる気配はなかった。私は暗闇の中、妙にひんやりとしている女の子の体をぎゅっと抱きしめる。
「あなたも……アリスなのですか?」
 女の子の耳元でそっとささやいてみた。返事がないだろうことは分かっている。答えを求めたのではない。こんな部屋で、突然天井からアリスの格好をした女の子が降ってきたのだ。彼女は間違いなく私と同じ不思議の国のアリスだ。
『アリス』
『アリス』
『アリス』
 誰かが私を呼んだ。それも一人の声ではなく複数の声だ、女の子が返事をしたのではない。
「だ、誰ですか?」
 声が固くなっているのがわかる。誰かいるのだろうか、私には分からなかった。マリオネットたちがそこら中から視線を投げかけているため、誰かいるとしてもその気配が感じられない。
『アリスだ』
『アリスが』
『どうして?』
 謎の声には私の言葉が聞こえていないようだ。私は混乱しながらも、自問するような声が私のすぐそばの床の上からしたことに気付いてはっとする。この声の正体は人間ではないのだ。
『戻ってるよ』
『アリスが?』
『どうして』
『アリスばっかり』
「あ、あなたたち、まさかマリオネットなの・・・・・・?」
 やはり返事はない。だがこれらがマリオネットの声であることは間違いないようだった。天井から、壁から、床の上から、あちこちから彼らの声がする。なぜ? 私は今、人間なのだから彼らの声は聞こえないはずだ。
『どうしてアリス』
『ずるいわ』
『こいつらばっかり』
『どうして』
『アリスめ』
 私は身震いする。マリオネットたちの声にどんどん悪意がこもってきているのだ。部屋の中の空気が冷たくなっていく。暗闇は重たくじっとりとしたものになり、飲み込まれてしまいそうな感じがする。私は動かない女の子を震える腕で抱きしめながら、強く目を閉じてできるだけ息を潜め体を縮めていた。
 おそらくそれほど長い時間ではないのだろうけれど、震える私にはとても長く思える時間が過ぎた。ミティーちゃんが出ていったのとは反対側からかすかに物音がして、それと同時にマリオネットのざわめきがぴたりと止む。空気がふうっと軽くなった。体から少し力を抜いて目を開けると、真っ暗闇だった部屋の中に遠くから光が射している。振り返ってみれば、細長いこの部屋の向こう側の扉が開いていた。そこに見覚えのあるシルエットが見える。
「ルノさん・・・・・・」
「アリスか?」
 私は押し殺していた息をゆっくり吐き出しながら、どうしようもないほどの安心感を得ていた。




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