07 へし折られたトランプ --4



 暗闇の中に私がいることに気付いたルノさんは、扉を目一杯に開ききって閉まらないようにしてから早足でこちらへ歩いてきた。私はルノさんのこと、この女の子のこととか、あとさっきの声のことなど言うべきことがたくさんありすぎて、何から話せばいいのか考える。結果的に私の口から漏れたのは、ため息混じりのただ事実を確認するだけの言葉だった。
「ルノさん、戻ったんですね……」
 ルノさんは黙って頷き、私のすぐそばまで来て床に膝をつく。その流れるような動作にはぎこちないところが全くなかった。一番恐れていたような、腕が取れてしまったりとか、足を作っている木が折れてしまったりとか、そういうことは起こらなかったようだ。少しだけ安堵しながら、それでも一応確認する。
「あの、体は大丈夫ですか? 気をつけてはいたんですけど、気付かないうちにどこかにぶつけたりしたんじゃないかって、思って」
「ありがとう。どこも怪我はしていない」
「よかった……」
 ルノさんがふっと微笑んだ。私もほっとして笑顔を向ける。だが、よく見るとルノさんの目は笑っているのに嬉しそうではなかった。何とも言えない複雑な気持ちがそこに現れているような気がしたのだ。悲しいような、寂しいような、それでいてどこか安心したような。なにかを慈しむような。
「ところで、アリス。彼女は?」
「あ、そうでした! この子がいきなり天井から落ちてきたんです」
 まったく目を覚ます気配のない女の子の顔が見えるように、彼女を抱く腕を少し動かしてみる。ルノさんは顔を近づけて小さな声でふむ、と声を漏らした。彼の手が突然視界に現れてドキリとする。彼の体にはまるで質量がないみたいで、その動きに気付けなかったのだ。大人の男の人のごつごつした手が女の子の首にそっと触れる。眠っているようだ、と彼は呟いた。ルノさんの立ち振る舞いや言葉遣いとその固そうな手とが妙にしっくりこない。私は無意識に自分の手をルノさんの手に重ねてしまった。ルノさんは私の方をちらりと見たけれどそのことに関しては何も言わず、するりと手を引き抜く。
「彼女もアリスだ。やっと人間に戻れたようだね」
「やっぱり、そうなんですか」
「アリスは他のマリオネットよりも戻るのが早い傾向にある」
 ルノさんは女の子の体に両腕を回して、軽々と彼女を抱き上げる。私はようやく彼女の下から解放された。無理な体勢でずっと押さえつけられていたので、両足が痛い。さすりながら足を曲げ伸ばしして立ち上がった。痛いけど、大丈夫そうだ。
 ルノさんの言葉は、おそらくそのままマリオネットたちが怒っていた理由になるのだろう。彼ら、アリスではないマリオネットたちはなかなか人間に戻れないのだ。彼らが早く戻りたいと思ってイライラしている間に、私と彼女というアリスが二人も先に戻った。
「足は大丈夫か」
「大丈夫です。あの、さっきミティーちゃんにキャロルさんを呼びに行ってもらったんですよ。だから多分ここで待ってないとすれ違っちゃうと思います」
「そうか……しかし、廊下まで出ておこう。ここは暗い」
「はい」
 ミティーちゃんが閉めてしまった扉の方へ、私はルノさんの後ろを歩いていく。扉の前まで来るとお姫様だっこをされた女の子の足を避けながら彼の前にすべりこみ扉を開ける。一気に視界が明るくなり反射的に目を細めた。
「キャロ、はやくってば!」
 ミティーちゃんの声が聞こえる。ルノさんが出やすいように扉を手で押さえながら振り返ってみると、ちょうど角のところに姿を現した彼女と目があった。彼女は私からすぐルノさんに目線を移し呆気にとられた表情をする。
「え、なに、また一人出てきたの?」
「えーっと、そうじゃないようなその通りのような……」
「ルノ!」
 説明に窮した私が曖昧に笑ってごまかそうとしたとき、空気を切り裂くような鋭く甲高い声がした。息を荒げたキャロルさんが壁に手をついてうっすらと涙の浮かんだ目でキッとルノさんをにらむ。ルノさんがたじろいだ。ミティーちゃんがぽかんと口を開けて成り行きを見守る。キャロルさんが憤懣やるかたない様子で一歩一歩ルノさんに近付きながら、キンキンと耳に痛い声で叫んだ。
「無茶はするなとあれほど言ったでしょう! どれだけ心配していたと思っているのですか!!」
「待って、待ってくださいキャロルさん」
 あまりの剣幕に割ってはいるのは勇気がいったが、彼女にルノさんのことを秘密にしていた私としては黙って見ているわけにもいかなかった。ルノさんを睨んでいたキャロルさんの視線が私を刺す。
「ルノさんはずっとマリオネットになっていて、今やっと人間に戻ったところなんです。だから連絡ができなかったのはルノさんのせいじゃなくて」
「そんなことは分かっていますわ」
「だから……えっ?」
 私はきょとんとした。キャロルさんの口調に苛立ちが混じってくる。
「ルノがマリオネットにされたなんて、そんなことは分かってましたわ。だからランもわたしから逃げていたのでしょう? あなただって、いかにも隠し事がありますと言わんばかりの態度でした。だからそんなことは分かっているのです、わたしが怒っているのはそんな危険なことを……」
「お嬢様」
 言葉を失い、首をすくめてキャロルさんの勢いに押されていると、背後でルノさんが静かな声で彼女を遮った。ずっと黙っていた彼の一言で、それまで誰にも止められないだろうと思えたキャロルさんはぴたりと押し黙ってしまう。彼女は子供みたいな顔をしてルノさんを見上げた。
「申し訳ありませんでした」
「…………もう、なさらないで」
「はい」
 ルノさんが優しく微笑んで頷くと、キャロルさんは顔を伏せてくるりと背中を向けてしまった。明るい廊下に不釣り合いな一瞬の静寂が生まれる。妙な空気を打ち払うように、ミティーちゃんがぱんっと勢いよく両手を合わせて声を張り上げた。
「あの……あのさ、そのお姉ちゃんのことだよ! 天井から降ってきて、それで」
「そう、そうです! キャロルさん、この人がさっき人間に戻ったみたいなんです」
 ミティーちゃんの言葉でやっと今の状況を思い出して、彼女の後を取ってキャロルさんに説明する。彼女は誰とも目を合わせようとしないまま、分かりましたとささやくような声で答えた。
「ちょうど今、先生がいらっしゃってますからその子を診ていただきましょう。来てくださいルノ」
 ルノさんは振り向かずに歩きだしたキャロルさんの後に続く。それと入れ替わるようにミティーちゃんが私の方へ駆け寄ってきて、両腕を私の体に回して抱きついてきた。
「ね、どうなってるの?」
「わたしにも、よく……」
 小声でぼそぼそと会話を交わす。よく分からない、と言いつつミティーちゃんよりは状況が分かっているつもりなのだけれど。何かを思い出したように立ち止まったキャロルさんが、さきほどまでの激昂が嘘のように笑みを含んだ表情でこちらを見たときは、やっぱりよく分からない、と思った。
「シェナ」
 妙にしっかりと発音して、彼女は私の名前を呼ぶ。
「後でわたしの部屋に来てくださる?」
「・・・・・・はい」
 満足げに頷いたキャロルさんたちが廊下を曲がって見えなくなるとき、一瞬だけ私はルノさんと目があったような気がした。




Back Next Top Index