07 へし折られたトランプ --2



 頭が真っ白になる、とはこういうことなのだろう。衝撃が大きすぎて、悲しいとか怖いとかそういう分かりやすい感情は浮かんでこない。ただ大変なことが起こったとそれだけが分かった。ランさんが怪我をした。しかも結構ひどい怪我のようだ。何か手伝わなくちゃ、でも一体何をしたらいいのだろう。私は指一本動かすこともできなくなった。
「すまんねお嬢ちゃん、通してくれ」
 後ろから聞き慣れない老人の声がして、私の背中が優しい手にそっと押された。呪縛から解き放たれたように軽くなった体で慌てて振り向きそこにいたおじいさんに道を譲る。おじいさんは優しい手と声からは想像もつかないような厳格そのものといった顔つきをしており、その瞳は緊張をはらんでいた。清潔感のある服装に黒い大きな革のトランクを持ち、まっすぐにランさんのもとへ歩いて彼のすぐそばにトランクを下ろし膝をつく。メイドさんたちが数人立ち上がり彼のために場所を空けた。
「先生」
「落ち着いてください。相手は自警団ですね?」
 キャロルさんはおじいさんの方を振り返りすがるような声を出す。おじいさんは彼女に目もくれずに、血の気の失せたランさんの頬に触れた。厳しい目をしたまま首、肩、右腕と上から順に触れていく。
「そうです、今日やりあったとは聞いていましたけれど、まさかランが撃たれるなんて!」
「よろしいですか、キャロル様」
 おじいさんは一旦手を止めてキャロルさんの方を見た。するとヒステリックになっていた彼女の顔に少し落ち着きが取り戻され、同時に叱られる直前の子供のような表情も浮かんだ。
「わしがここに来るまでの間、ずっと自警団がうろついておりました。彼らがこのお屋敷を嗅ぎつけないとも限りません。わしは詳しい事情を存じ上げないが、この状況を見られてはまずいことになりましょう。彼のことはわしに任せて、キャロル様はその服をお着替えになり心を落ち着けて来客に備えてください」
「でも……いえ、そうですわね。そうしますわ、だから、ランをよろしくお願いします」
 キャロルさんはわずかに抵抗を見せたが、結局おとなしく頷いて立ち上がる。控えていたメイドさんに何か二言三言ささやき、彼女らを連れて何度かランさんの方を振り返りつつ足早に歩いていった。
 ふと、おじいさんが私をちらりと見た。私は理由もなくなんだか怒られるんじゃないかという気がして身を縮める。おじいさんはすぐにランさんの方に視線を戻しまた優しい声でこう言った。
「お嬢ちゃん、わしのトランクを開けておくれ」
「あ……はいっ」
 彼の言葉の意味を理解するのに少し時間がかかったが、私は二人のそばに駆け寄ってしゃがみトランクに手をかける。足を動かして初めて、膝ががくがくと震えているのに気付いた。手も同じで、トランクの留め金を外そうとする指にはうまく力が入らない。だんだん焦っていく私の横で、まだ残っていたメイドさんにおじいさんが何か話しかける。彼女らはぱたぱたと足音をたてて走り去っていった。後には私とランさんと、おじいさんの三人だけが残される。
「坊ちゃん、いつまで寝ているんですか」
 おじいさんが呆れたような調子でそう言った。それと同時に留め金がぱちん、軽い音をたてて外れる。私はトランクのふたを開けながら上目遣いで二人の様子をうかがう。おじいさんは右腕の傷を見ながらもう一度話しかけた。
「坊ちゃん」
「……坊ちゃん、て言うな」
 ランさんの唇が震える。暗い赤の瞳が薄く開かれ、まずおじいさんを見て、それから私の方を見る。
「では、ランドルフ様。火遊びはほどほどになさらないといけませんよ。お嬢ちゃん、トランクの中に緑色のガラス瓶とガーゼの入った袋があるから、それを出してくれ」
「はい……」
 私はまだ震えている指でトランクの中を探り出した。ガラス瓶は大きかったのですぐ分かった。ひとまずそれを取り出しておじいさんの近くに置き、大小さまざまな袋を片っ端から開けてガーゼを探す。
「旦那様も奥様も心配していらっしゃいます。奥様はすっかり弱ってしまわれて」
「オル爺まで、ミーアを……諦めろって言うの、か」
「そこまでは申しませんよ。ただ、いいですか、ランドルフ様がミーア坊ちゃんのことを心配しているのと同じくらい、旦那様と奥様はランドルフ様の身を案じていらっしゃるのですよ」
「あ、あの、ガーゼ……」
 ガーゼの袋を捜し当てて顔を上げた私の目に、ランさんの皮肉な笑みが映った。おじいさんは私の手からガーゼを受け取り、緑のガラス瓶の栓を抜いて中の液体をガーゼに染み込ませる。ランさんは疲れきったように目を閉じて、深くため息をついた。おじいさんはそれきり何も言わず、湿らせたガーゼで傷口のあたりを拭いていく。私は手持ち無沙汰になって、トランクの中を見るともなしに見る。開けたときは気付かなかったが、ふたの裏に「オルドジヒ」という文字が刻まれていた。おじいさんの名前だろう。ランさんもおじいさんのことをオル爺、と呼んでいたし。
 オルドジヒさんはトランクの中に手を入れて、底の方から黒いケースを取り出した。その中には親指くらいの太さの透明な筒が入っている。筒の先には鋭い針がついていた。これは注射器というものだろうか。
「ランドルフ様。何か言い残すことは?」
「ええっ」
 私は反射的に叫んだ。オルドジヒさんはこちらを向いてくれない。どういうことですか、と聞くことも恐ろしくて私はただ唇を震わせる。彼は死んでしまうのか?
 ランさんがまたゆっくりと目を開けた。
「紛らわしい、ことを」
「では、何か伝言はありますか? 今から麻酔をかけます。しばらく誰ともお話できなくなりますよ」
「……アリス」
「は、はい」
 彼はすぐに目を閉じてしまったが、小さな声で私を呼ぶ。アリスと呼ばれることにかすかに違和感を覚えた。
「そこのマリオネットを、あの部屋に、頼む。あと、……死なないから、そんな、怖がるな」
「わかりました……」
 震える声で返事をして頷く。オルドジヒさんは注射器に透明な液体を入れて、針をランさんの腕に近付けた。
 人の体に針が刺さるところを見るのは怖かったので顔をそむけていると、遠くからずいぶん乱暴な足音らしき音が聞こえてきた。だんだん近付いてくる。まさかと思って廊下の私が通ってきた方に目を向けると、ちょうどその瞬間に小さな影が視界へと滑り込んできた。
「お……」
「ミティーちゃん!」
 興奮で顔を赤くし肩で息をするミティーちゃんには、私のことなんか見えていなかった。彼女は暗い赤の瞳をこれ以上ないほどに見開き白くなった両手を胸元で強く強く握りしめる。
「なん、で……!」
 ランさんも同じ色の瞳を見開いていた。さきほどまでの眠たそうな、辛そうな様子から急に生気を取り戻したように、怪我をしていない方の腕で体を支えて身を乗り出す。
「なんで、ここにいるんだ、ミティー!」
「な……でって、それは……」
「帰れ、今すぐ! 父上にここがばれたら」
 ミティーちゃんの赤い顔が一瞬でざあっと青くなる。私は彼女が倒れてしまうのではないかとハラハラしながらランさんとミティーちゃんを見比べる。
「ミティー!」
「……ばれたら何だって言うの!」
 ミティーちゃんが突然金切り声をあげた。握りこぶしを胸の高さから降り下ろして、腹の底から叫ぶ。
「いつまでもいつまでもミーアのこと追いかけて、どうせ見つかりっこないのに! パパもママも心配してるのがどうしてわかんないの!?」
「お嬢様……」
 顔を歪めて息をつめるランさんを抱きすくめるようにしてオルドジヒさんが声をかける。ミティーちゃんには聞こえていない。
「ねえ、もう諦めてよ! ミーアはきっと、もう、生きてなんかないよ」
「黙れ」
 ミティーちゃんはびくりと体を震わせて沈黙した。みんなの視線がランさんに集中する。彼はオルドジヒさんに支えられて、頭を重たそうにだらりと下げ、かすれた低い声で続ける。
「お前でも、許さない」
 それきり彼の体から力が抜けた。私は一瞬最悪の事態を思って身震いしたが、オルドジヒさんが大丈夫だというように首を横に振るのを見て安堵のため息をつく。
「麻酔が聞いてきたようですな。まったく無理をなさる」
「あの、だ、大丈夫なんですよね?」
「ええ。出血が多いからしっかり休ませなきゃいけませんがね。泣かんでいいよ、お嬢ちゃん」
 私ははい、と言って頷いた。涙は出ていなかったが、私の声はみっともないほど震えて涙声になっていた。
 それからメイドさんが警備員さんを二人連れて走ってくる。彼らは長い棒が二つついた白い布を持っていた。それを担架のようにしてぐったりしたランさんを乗せ、慣れた様子でどこかへ運んでいく。私はついていこうかどうか迷ったが、唇を噛んで立ち尽くしているミティーちゃんを放っておくわけにもいかずおろおろしていた。そのうちにオルドジヒさんも荷物をトランクに戻してふたを閉め、警備員さんたちの後を追っていってしまう。彼が私たちの横をすり抜けたとき、私はとっさに彼を呼び止めたいと思ったのだがやめておいた。そもそも私が彼に言うべきことは何もないのだ。
「……ミティーちゃん」
 ミティーちゃんはまだ一歩も動かずにいた。私がそっと彼女の肩に手を置くと、彼女は血が滲んできた唇を噛みしめたまま、声もなく涙をこぼした。




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