04 眠る帽子屋 --2



 殺される。……マスターに? どうして?


 反射的に目を閉じる私の視界を、一瞬だけ黒い布のようなものが覆う。続いてかしゃん、と軽い音がした。乾いた音が路地裏に響いて消えたあとも体にはどこにも痛いところはない。いつの間にか地面の上に尻餅をついていたので少しだけお尻が痛いが、怪我をした様子はない。
 マスターの顔を見るのが怖い。もし彼の顔に憎しみとか嫌悪とかの暗い感情が浮かんでいたら、私はもうマスターのことを信じる自信がない。私はそうっと目を開ける。地面に広がった白いワンピースからゆっくりと目線を上げていく。マスターの足と一緒に、黒い銃と、一体のマリオネットが目に入った。マリオネットはちょうど私とマスターの中間ぐらいのところに銃と一緒に落ちている。例の人形劇団の帽子屋さんのマリオネットによく似ていた。小さなシルクハットが外れて少し離れたところに転がっている。
 そのマリオネットを跨ぐようにしてランさんが立ちふさがり、マスターに向けて続けざまに銃を数発撃った。マスターはまるで空から糸で吊るされた人形みたいにひょいひょいと身軽に跳びそれを全て避ける。ランさんの肩越しにちらりと見えた彼の顔には憎しみも嫌悪も浮かんでいなかったけれど、まるでピエロのような道化の笑みが貼りついていた。
「……待て!」
 不意に、ランさんが叫んだ。むしろ吠えたと表現した方が適切かもしれない。
「こんなことして何が楽しいんだよ! ふざけんな、返せ、返せ!!」
 かすれた声を吐き出し、彼はがっくりと膝をつく。
 とっくに太陽は沈んでいて、徐々に深くなる闇の中にマスターの姿は消えうせてしまっていた。



「ランさん……」
 やや間を置いて声をかけると、それまで微動だにしなかったランさんは黙ってゆっくりとした動作で立ち上がった。右手で乱暴に顔を拭う。背中がとても悲しそうに見えて私は思わず声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「……うるせえよ」
 覇気のない返事をして、彼は私の方を向いた。目が少し赤くなっている。私と目が合うと気まずそうに視線を逸らし足元に落ちている黒い銃を拾ってどこかへしまった。それから帽子屋さん風のマリオネットを拾い上げ何かを探すように地面をきょろきょろ見回す。私も地面から立ち上がると、ワンピースの裾をはたいてついてしまった泥を落とした。前ほどひどくはないけれど、このまま城に戻ればまたキャロルさんがランさんに怒り出すだろう。女の子をこんなに泥だらけにしてどういうつもりか、と。前回も今回も主な汚れは自分で転んだり尻餅をついたりしてつけたものなので、ランさんが責められるいわれはないのだけれど。
 それにしても……私はもうあの女王の城に戻ることを当たり前に思い始めているみたいだ。それはマスターが彼らと一緒にいなさいと言ったからなのだろうか? それともマスターよりも彼らが正しいと思っているから?
「なあ、あんた目はいいのか?」
「えっ」
 思考に沈んでいると、ランさんが話しかけてきた。彼は手に持ったマリオネットを目に近づけて眉間にしわを寄せている。
「俺は目が悪くて……駄目だ、わからん。あんた、細かい傷がついてないか見てやってくれよ」
「あっ、はい」
 ランさんに手渡されたマリオネットは意外と軽い。言われた通り見てみるが特にどこも傷んでいるところはなさそうだ。きっちりした衣装を着て、シルクハットをかぶっている。色素が薄く癖のない長めの髪に、青いガラス玉の瞳。
「ルノさんみたい……え?」
 無意識に漏れた自分の言葉にどきりとする。そういえばルノさんはどこへ行った?
 マスターの思わぬ行動があまりにショッキングで、私の頭はおかしくなっていたみたいだ。どうして気付かなかったんだろう。マスターが私に銃を向けてから、私はルノさんの姿を見ていない。そういえば目を閉じる直前に黒い布が見えた、それってもしかして、ルノさんのコートだったんじゃないの? そして私が目を開けるとこのマリオネットが地面に落ちていた。つまり。
 私の表情で何を考えているのかわかったらしく、ランさんはため息をついた。
「今更わかったのかよ。あんただって同じ事やられただろうに……まあ、覚えてないんだからしょうがないけどな」
「待ってください、それじゃあ本当に、このマリオネットは」
「ルノだよ。あんたをかばって代わりにマリオネットにされたんだ」
 私は絶句し改めてマリオネットを見る。どこからどう見ても普通のマリオネットだ。私には動かし方は分からないけど、ちゃんと糸もついているし、関節もおかしくない。人形劇に本物の帽子屋さんの人形の代わりに出ても大丈夫だろう。瞳は深い青のガラス玉だし、体は綺麗に彫られた木でできている。このマリオネットはさっきまで息をして、ものを考え、自分の足で歩いていたのだ。
「う……そ」
 嘘ではない、と分かっていても、口をついて出たのはその言葉だった。わかっている。わかっているのだ。でも頭が受け付けない。理解できない。
「あんまり乱暴にするなよ。腕が取れたりすると人間に戻ったときまずいからな」
 知らず知らずのうちマリオネットを抱く手に力が入る私を見て、ランさんは肩をすくめる。私はうっかりランさんの言ったことが本当になったらどうなるか想像してしまって、ざっと血の気が引いた。私がマリオネットから人間になったときもきっと同じだったのだろう。腕も足も全部くっついたままで本当によかった。あのときはマスターのカバンから振り落とされたのだから、もっと酷い状態になっていてもおかしくなかったのだ。


 そうだ。私はマリオネットだったんだ。
 もう忘れそうになっているなんておかしな話だ。人間になってからまだそれほど月日は経っていないのに。
「こんな、代わりにルノさんがならなくたって、よかったのに」
 私はマリオネットに戻りたかった。またマスターと一緒にアリスの人形劇を演じたかった。だからルノさんが私をかばう必要なんてなかったのだ。
 私の呟きに対して、ランさんは無言だった。顔を見上げると、表情を見る前に目を逸らされてしまう。何か余計なことを言っただろうか。
「とりあえず、帰るぞ。……もう無理矢理連れて行かなくても一緒に来るだろ?」
「……はい」
 不本意ではあるが、うなずくしかなかった。マスターは彼らと一緒にいなさいと言っていたし、何より一人でマスターを追いかけて見つけ出せるとは思えない。マスター自身に私を連れて行く気がないのだからなおさらだ。
 それに何より、私は怖い。マスターが私をマリオネットに戻そうとしたということは、また私を連れて行ってくれるつもりだったのかもしれない、とも思った。でもそれは本当に本当に小さな希望だ。私に銃を向けたときのマスターは、別の人にしか見えなかった。あのマスターについて行っても私はきっと幸せではなかった、そう断言できる。
 ならば、この人について行ったら、私は幸せなのだろうか。先を行くランさんの背中を見つめながらそんなことを考えていると、彼は振り向かずに口を開いた。
「……ルノは、体を張ってでもあんたをマリオネットにしたくなかったんだよ」
 私はそれに返す言葉が見つからなくて、私をかばった帽子屋さんを黙って強く胸に抱いた。




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