04 眠る帽子屋



 もうすぐ日が完全に沈む。太陽は最後の一仕事と言わんばかりに真っ赤な光で街を照らし、向かい合って立つルノさんとマスターの横顔を赤く染めている。ルノさんは初めて会ったときと同じように落ち着いた様子で、その表情にはなんの感情も浮かんでいないように見えた。ただ、マスターに狙いをつける目は真剣だ。マスターの方は静かに微笑を浮かべている。銃がまっすぐに自分の方を向いていると言うのに、先程まで私に向けていたのとまったく変わらない笑みだ。
「マスター……」
「そこにいなさい」
 私が木箱から立ち上がろうとすると、すかさずマスターは言葉一つでそれを制した。ひどく冷たい響きだった。私は思わず足を止める。それでも勇気を振り絞って口を開く。
「ルノさん、お願いですから、そんな危ないものはしまってください」
 ルノさんは私の言葉を無視した。マスターも私にそれ以上注意を向けることはなく、二人は睨み合いながら一歩も動くことなく時が過ぎていく。空気が電気でも帯びたかのようにぴりぴりと肌を刺した。うっかり動くと感電しそうな気がして私は木箱の上に腰掛けたまま固まってしまう。本当はマスターの前に出て、ルノさんを説得しなくてはいけないのに。マスターは自分が何をされるのか分かっていないのだろうか? あんな、危ない、銃なんて向けられて、笑っていられるだなんて。
 二人がいったいどれだけの間立ち尽くしていたのか、息を殺して見ているしかできなかった私には分からなくなっていたけれど、太陽は沈みきっていた。それに気付いたとき、もしかしてルノさんは日が沈んで暗くなるのを待っていたのだろうか、と思い背筋が冷たくなった。
 ふいに、マスターが口を開いた。
「そろそろ銃を下ろしてくれないかな。今日はお前たちと争いに来たわけじゃない」
「……では、何をしに来た」
「アリスに会いたくなったのでね」
 ルノさんの右足が少しだけ前に出た。マスターは気付いているのかいないのか、顔色も変えず和やかに話を続ける。
「わたしのことを殺せもしないのに、そんなものをやたらと振りかざしてはいけないよ。第一、ここには大事なアリスがいるだろう? アリスを巻き込んで怪我をさせたくはないんじゃ。それはお前だって同じだろうに、ルノ」
 ルノさんは何も言わない。マスターがルノさんの名前を呼んだときだけ目つきが険しくなったような気がした。

「……その口がそれを言うか」
 ぽつりとこぼした言葉には憎しみが溢れている。私はぎょっとなってルノさんの方を見かけたが、同時に動いたマスターに目が吸い寄せられて彼の表情を見ることはなかった。マスターは老人とは思えないほどの機敏な動きでルノさんから大きく三歩ほど離れる。その直後、マスターの頭上から降ってきたランさんが何か長いものを振り下ろして地面に着地した。それは鉄製の重たそうな棒状のもので、マスターが今まで立っていた場所の地面にめり込む。もしマスターが動かなかったら、彼の頭を直撃していたのは間違いない。
 やめて、と叫ぶ間もなく、ランさんは立ち上がりながら鉄の棒を斜めに振り上げマスターを狙う。マスターは涼しい顔で両手を後ろ手に組んでひょいひょいと振り回される棒を避けながら後退していく。鉄の棒はマスターの顔からわずか数インチの距離でうなりをあげて通っていくので、見ている私は恐怖のあまり悲鳴すらあげられない状態だったが、当のマスターは微笑を崩さなかった。
「バカが」
 突然聞こえた声に驚いて飛び上がる。振り向くと声の主はルノさんだった。さきほどの憎々しげな声とは違い心底呆れた様子だ。私は何か言わなければ、と思って口を開くのだが、何と言いたいのか考えているうちにルノさんが二人の方へ走っていってしまった。
 ランさんはまだ鉄の棒を振り回している。マスターは避け続けているし、余裕の表情も変わらない。ただ、マスターの背後には壁があった。あそこに追い詰められたらさすがに避けることはできない。ランさんはめちゃくちゃに攻撃を繰り出しているのではなく、最初から壁際に追い詰めるつもりだったようだ。マスターが危ない!
「マスター!」
 私の喉からやっと叫び声が出た。マスターは私に向かってにこりと笑って見せて、それから背中が壁にぶつかる。おや、と軽く驚いた顔をして動きを止めたマスターにランさんの一撃が迫る。
「ラン!」
 ルノさんが声を張り上げた。鉄の棒がマスターの頭にぶつかる直前、マスターはすっと体をかがめた。棒は勢い余って壁にぶつかりめり込んで、かがんだマスターの頭のすぐ上で止まる。棒を壁から抜くかどうか迷ったのか、それとも避けられるとは思っていなかったのか、ランさんは動きを止めた。マスターがかがんだ体勢のまま笑顔でランさんを見上げて、懐から銃を取り出しランさんの額に狙いをつける。
 私は息を呑んだ。ランさんもそうだろう。マスターが銃を持っているなんて思っていなかった。
「さようなら」
 耳をつんざくような音が響いた。脳裏に血まみれになって倒れるランさんの様子が浮かんで、血の気が引いていくのが自分で分かる。そのためランさんが地面に倒れたのを見て私はひっ、と小さく悲鳴をあげた。だが彼は血まみれになどなってはいなくて、すばやく地面を二、三回転がってマスターから離れ飛び起きる。ぎりぎりのところでルノさんが彼の足を払って避けさせたのだ。
 ランさんに怪我がないのを見て、体から力が抜ける。私は地面の上にぺたりと座り込んで初めて、自分が木箱から立っていたということに気付いた。
 どこに持っていたのか、ルノさんが左手でステッキを持ち横に振る。見た目に反してすごく重たそうなそのステッキは風を切ってマスターの手に当たった。銃がマスターの手から離れ、宙を飛ぶ。地面に落ちたか落ちないかのうちにランさんがそれを奪い取った。
「落ち着きのない……まったく最近の若いもんはなっとらんのう」
 そう言って、マスターはやれやれと言った様子で大げさに肩をすくめて見せる。ルノさんが右手の銃をまっすぐマスターに突きつけていて、その少し後ろではランさんが拾った銃を構えて狙いを定めている。
「渡せ」
 ルノさんの声は腹の底から絞り出したような声で、とても低かった。マスターは答えない。……というか、ランさんやルノさんとマスターの会話が成立したことは今までにあっただろうか。
 マスターはルノさんを見て、右手奥にいるランさんをちらりと見て、そして彼とは反対側で座り込んでいる私の方を見た。大丈夫だよ、とでも言うようににこりと笑う。さっきまでの私ならその笑顔にほっとしただろうが、今の私は一瞬浮かんだ血の色が頭の中にこびりついていて、心を凍らせていた。
 私はマスターを疑った。マスターが私の方を向いたとき、もうまともにものを考える余裕をなくした私の頭が思ったことは「怖い」ということだった。そしてそれは、たぶんマスターにも伝わったのだ。マスターは少し目を大きく開いて、そしてまた柔和な表情に戻る。

 そして私に銃を向けた。

 銃はさっきルノさんが吹っ飛ばしてランさんが拾ったはずだ。でもよく見ると今マスターが持っている銃はさっきのとは違う。さっきの銃は黒くてごつごつしていたけれど、これはとても綺麗な緑色をしているし表面は滑らかだ。あまり銃らしくはない。銃というよりは、妖精や精霊が存在するような空想の世界にある魔法の道具といった感じだ。そんなことを考えていると、さっきと同じ乾いた何かが破裂する音が響いた。




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