04 眠る帽子屋 --3



「アリス!」
「あ、はいっ」
 廊下を歩いていると、背後からカツカツと音を立てて足早にキャロルさんが歩み寄ってきた。彼女のいらついた様子に内心首をすくめながら、にこりと笑ってどうしましたか、と尋ねると彼女は不機嫌さを隠そうともせずに答えた。
「ルノとランを見ませんでした? まだ報告を受けていないというのに、二人とも屋敷からいなくなってしまいましたの」
「さあ……私は、見ていないです……えっと」
 たどたどしい答えだと自分でも思う。キャロルさんが少し怒った瞳でこちらをじっと見ている。なんとかうまく誤魔化さなければと思うのだが、そう思えば思うほど頭の中がパニック状態になり何も考えられなくなる。ああ、どうしよう、私は嘘をつくことに慣れていないのだ。
「どうしたんでしょうね、あはは」
 不自然に笑うと、キャロルさんの瞳から怒りがすうっと引く。私が引きつった笑みのまま彼女の様子をうかがっているとキャロルさんはかすかに苦笑した。
「アリスに言っても仕方ありませんわね、ごめんなさい」
「あ、いえ、その……いいえ」
 にこりと笑ってきびすを返すキャロルさんの背中を見ながら、私は心の中で嘘をついてごめんなさい、と謝った。
 ルノさんは屋敷の中にいる。



 ランさんと二人で屋敷に戻ったあと、キャロルさんに見つからないようにランさんがいつも使っているという部屋に向かった。そこはあのマリオネットの部屋に近い、薄暗い廊下に面した部屋で、屋敷の使用人さんたちの姿が見えない場所。ここなら見つからないだろ、というランさんの言葉に妙に説得力を感じる。
 少し小さめのドアをくぐり薄暗く狭い部屋に入った。床に何か大きなものが散乱していてどこを歩けばいいかわからない。私がルノさんを抱えてまごついていると、ランさんは慣れた様子で奥の机の方へ行きランプに火をつけた。床にあるたくさんのものの正体が分かった。本だ。大量の。分厚い本が大量に積み重なっていくつも塔を作っている。中には私の目の高さまで積み上がっている塔まであって、崩れるのではないかと少し心配になる。ランプの置かれた机の上にも積まれているし、机の横のベッドの上なんかもう寝る場所ではなくなっていた。
 私が目を丸くしてきょろきょろと部屋の中を見ていると、ランさんはベッドの上のわずかに残った足場に膝をついて登り、わきにかかったカーテンを引いた。その奥にはまだスペースがあって、私のいる方とは比べ物にならないくらいの本があった。
「す……ごい、ですね」
「まあな」
 狭いと思った部屋だが、カーテンの向こうのスペースを考えるとけっこう広い部屋なのかもしれない。ベッドの本の塔の上に置かれたランプの薄暗い光を頼りに、塔を崩さないよう注意しながらランさんの方へ近付いていく。ランさんと違って私はワンピースを着ているので、裾が広がって本にあたるのだ。やっとのことでランさんの近くまでいくと、彼は本の山を少しずつ避けて一人の人間がぎりぎり横になれるくらいの場所を作っていた。
「ええと、そこに寝るんですか?」
「ああ、寝かせとけばそのうち戻る。それまでルノが人形にされたことをキャロにばれないようにしないと」
「ランさん、でもこの帽子屋さんに傷がついたらルノさんも怪我をするんですよね?」
「……そうだけど。傷ついてるのか?」
 本に埋もれて顔も上げなかったランさんが、傷という言葉を聞いた途端ふっと顔を上げた。私は慌てて首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。そうじゃなくて、そこにルノさんを寝かせておくと、この本が崩れたら……」
「確かに、危ないな」
 周りにある本を見ると、どれも分厚くて重たそうだ。私の腕の中にすっぽり納まってしまうこんな小さなマリオネットがこの本の下敷きになったら、ぼろぼろになってしまう。ランさんもそれに気付いたようで、本の山を見ながら何か考え込む。
「……じゃあ、下に古い本でも敷くか。ちょっと手伝ってくれ」
「はい」
「まず、机の上に『産業循環論』と『国富論』って本があるから、それを取ってきて」
「さん……?」
 聞こえなかったわけではないが、聞き慣れない言葉に私は目を瞬かせた。意味が分からないが、まあ見ればわかるだろうと思い机の前まで行き一つずつ本の表紙を確かめていく。なんだったっけ、さんぎょうじゅんかんろん?
 私が困っているのに気付いたのか、ランさんが声をかけてきた。
「交代するか。俺はどこにどの本があるか覚えてるから探す手間がかからないし」
 振り向くと、さっきまでベッドの向こうにいたランさんがもう私のすぐそばまで来ている。よくこんな場所でよく動けるなあと感心していると、手にもっていた本を取られた。
「……これ、『産業構造』だぞ。あんたもしかして字が読めないのか?」
「読めないことはないですけど……難しいのは無理みたいです」
「そうか、悪かったな」
 ランさんにいいえ、と返して、私は彼があっさりと見つけた二冊の本を抱えてベッドの向こうへ行く。ランさんが次々と渡してくる本をタイルみたいに敷き詰めて、床を底上げする。人間一人分のスペースは広く感じていたが、本一冊が大きいせいかすぐに底上げは完了した。できあがった本のベッドはなんとなく秘密基地のような、子どもが喜んで遊びたがりそうな、そんなものになった。
「寝心地は悪いだろうな」
 ランさんはそう言って苦笑しながら帽子屋さんのマリオネットを寝かせる。ベッドの上やその奥に積み重なった本の塔のおかげで、一番奥に彼が寝ているなんてことは誰も気付かないだろう。今ルノさんは小さなマリオネットになっているのだからなおさらだ。



 実際、ルノさんがここにいることはまだ私とランさん以外誰も知らない。それでもいつまで隠し通せるかは分からなかった。キャロルさんはさっきみたいにルノさんとランさんが戻ってこないと言ってかなり苛立っている。ランさんはおそらく、キャロルさんと顔を合わせるとルノさんについて詰問されると思って避けているのだろう。その判断は多分正しい。キャロルさんは私が相手だからあまり問い詰めてはこないけれど、ランさんを相手にすると厳しくなると思う。それに、ランさんはいるのにルノさんだけがいないとなると、余計にルノさんの不在が目立ってしまう。何かよくないことが起こったのだと知られてしまう。
 私は薄暗い部屋の中に入り、机のところまでなんとかたどり着くとランプの火を灯した。ルノさんを寝かせたときは文字通り足の踏み場もない状態だったが、それではこの部屋に来るたびに灯りをつけるのにも苦労しなくてはならない。そこで少しずつ本をどけて、扉から机までの道を確保したのだ。
 使われた形跡のないベッドに登り、本の山の奥を覗き込む。ルノさんはマリオネットのままで寝ていた。思わずため息を漏らしベッドに腰掛ける。

「よくないこと……」
 よくないこと、なのだ。人間がマリオネットになるなんて。分かるような気もするし、分からないような気もした。私だったらマリオネットに戻ったっていいけど、普通の人間は嫌なんだろう。ああでも、私でもあのマスターについて行くのならマリオネットになるのは怖いな。マスターはどうしてあんなに変わってしまったのだろう?
 ルノさんもランさんもあのマスターしか知らないのかもしれない。それならマスターのことをあんなに悪く言うのも分かる。本当のマスターがどんなに優しい人か知らないからあんな……いや、でも、実はあの怖いマスターの方が本物なのかもしれない。だめ、だめ、そんなこと考えてはだめ。怖くて何も考えられなくなってしまう。

 私は悪い考えを振り払うようにベッドから勢いよく立ち上がった。もう自分の部屋と言ってもいいだろう、与えられた部屋に戻ろう。
 ランプの火を消すために机の方へ足を向けた途端、足元でカランと音がして何か小さなものが転がるのが見えた。




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