第九章:崩壊  --4



 シュウは眼前の光景の意味が理解できずにいた。萩谷が浅葱を刺した。なぜ、なんのために、そんなことを。
 距離をとった萩谷は何事もなかったかのような顔でそこに立っている。彼だけを見ていると、まるで悪い夢でも見たかのようだ。だが、シュウの前にいる浅葱は確かに怪我をしている。短剣が深々と突き刺さった背中には血が滲み始めた。短剣はほとんど柄の根元まで埋まっている。これはどう考えても冗談では済まない深手だ。
「は……ぎ、や……!!」
 浅葱は肩で息をしながら声を絞り出した。その体がぐらりと傾ぐ。シュウは彼を支えようと慌てて手を伸ばした。浅葱が刀を抜き、地面に突き立てる。それにすがりつきながら、それでも立っていられず膝をついた。両手ががくがくと震えている。
「アサギさん!」
 浅葱はシュウの差し出した腕を痛いほどに強く掴んだ。だが、シュウを支えにしても、彼は立ち上がれない。
「動かない方がいいよ。毒の回りが早くなる」
 萩谷の声は怖いほどに優しい。シュウはそれが却って恐ろしかった。
「毒って、そんな……!」
 毒。毒と言ったか。味方にこんな大怪我をさせたというだけでも信じられないのに、怪我だけで済まないというのか。
 シュウが呆然としている間に、浅葱は忠告を無視してまた立ち上がろうとする。だが痺れた手足では力が入らず、刀にすがっていることもできなくなった体が地面にくずおれた。シュウが我に返る。倒れた浅葱を抱き起し、その土気色の顔を見て冷や水を浴びせられたような気分になった。
「あ、あの、大丈夫ですか……?」
 ただならぬ雰囲気に、奥の方に一人残るマーガレットが恐る恐る声をかけてきた。シュウは恐怖を噛み殺して萩谷を睨みつけ、振り向くことなく彼女を怒鳴りつける。
「マーガレット、動かないで!」
 マーガレットが怯えているのは分かっているが、今は彼女に配慮している余裕などあるはずもなかった。腕の中で浅葱が小さく呻く。
「シュ……く……」
 毒のせいだろうか、舌が回っていない。シュウは浅葱を抱き締める腕に力を込めた。そうしなければシュウも倒れてしまいそうだった。
「どうして」
 シュウの声が震える。それは恐怖のためか怒りのためか、シュウ自身も分からなかった。
「どうして、こんなこと、するんですか! 仲間、なのに!」
「仲間ね」
 萩谷がくすりと笑った。
「どこの国でも権力闘争はあるだろう? きみたちは不運にもこの国のそれに巻き込まれたというわけさ」
「けんりょく、とうそう、って」
「おや、言葉が難しかったかな。つまり、私は隠れ里と敵対する勢力の人間なんだよ。私の本当の目的はこの作戦を失敗させること。そして、もう一つ」
 萩谷の視線がちらりと奥の方にいるマーガレットに向けられる。固唾を飲んで見守っていたマーガレットが後ずさりした。
「彼女を、『山の主』を手に入れること」
「山の主? なんだよ、それ!」
 叫び返したシュウは、背後でマーガレットが顔を青ざめさせたのを知らない。萩谷が彼らに近付こうと一歩足を踏み出した。シュウは咄嗟に、地面に突き立ったままになっていた浅葱の刀を手に取り萩谷へ向ける。
「動くな!」
「ふ、それで私を脅しているつもりかい」
「僕は魔術師だ。武器の心得はないけど、魔術でならあなたを止めることができる!」
「聞いているよ。だがきみの火力では、この洞窟まるごと潰してしまうのではないかな」
「あなたの目的次第では、そうした方がましかもしれない。……僕は本気です。動かないで」
「……仕方ないな」
 萩谷は降参した、というように両手を挙げて足を止めた。余裕の表情は崩れていない。刀を突き付けているシュウの方が、手が震えださないよう必死だった。浅葱を抱き締める左腕が彼の血で濡れそぼっているのが分かる。ひとまず時間稼ぎはできそうだが、そうしている間にも浅葱の体はどんどん冷たくなっていく。萩谷を退ける手段も思いつかない。シュウの背中に嫌な汗がじわりと滲んだ。最悪なことに、萩谷にもきっとそのことが分かっている。
「山の主とは何ですか。彼女をどうするつもりですか」
 シュウの問いかけに萩谷は素直に答えた。
「文字通りさ。彼女はこの神の山の主、全ての妖異を束ねる存在。非力な少女の姿をしているが、その本性は妖異だ」
「は?」
「彼女は妖異に追われていると思っているだろう。逆だよ。追わせているんだ。それが妖異の王とも言える彼女の力だ。妖異を意のままに操ることができる、それが彼女の本当の能力だ」
 ちょっと待ってくれよ、とシュウは言葉に出さず喘いだ。神の山の主? 妖異の王? よりにもよって彼女が、マーガレットがそうだと言うのか。そんなもの、聖女とは正反対の存在ではないか。そんな馬鹿なことがあるものか。
 しかし、その時シュウの脳裏にふと浮かんだ言葉があった。
(追い払うことができるってことは、つまり自分の意のままに操ることができるとも言えるからな)
 マーガレットが、妖異を退ける力を持っていると話した時に、浅葱が言っていた言葉だ。あの言葉が真実だったということなのだろうか。
 そんなわけないだろうと思いつつも、完全に否定できない自分がいることにシュウは気付いた。口の中がカラカラに乾いている。疑いたくない。疑いたくないが、もし彼女までもがシュウを騙していたのだとしたら、今ここにシュウの味方は誰もいないのではないか。
 シュウの動揺に萩谷は目ざとく付けこんでくる。
「私たちは山の主の能力を必要としている。もしきみが私たちに協力してくれるなら、きみに危害は加えないよ。彼女を無理やり連れていくことは簡単だが、きみが通訳をしてくれる方が何かと便利だからね」
「協力なんてできるわけないでしょう!」
「どうしてだい? きみは杯律国の人間だ。隠れ里の肩を持つ必要はないはずだよ。しばらく一緒に行動して情が移ったのかな。無駄なことだ。それはもう助からないよ」
 シュウはぎりっと歯を喰いしばった。腕の中で動かなくなった浅葱の体がずっしりと重い。命の重みだ、とシュウは思った。死なせたくない。誰が敵で味方なのかもうよく分からないが、そんな事は関係なく、自分の腕の中で人が息絶えていくのは耐え難い感覚だった。
「シュウ……」
「マーガレット、お願いだから、そこから動かないで」
 その時、シュウは萩谷の穏やかな表情が若干揺らいだことに気付いた。それは変化とも呼べないようなほんのわずかな違いだったが、シュウは一つあることに思い当たる。
(警戒されている?)
 シュウとマーガレットはハインリッヒ語で話している。大したことは話していないが、言葉の分からない萩谷にはそれも判断できないはずだ。彼が警戒するようなことがあるとすれば何だろうか。浅葱は戦闘不能状態だ。シュウは魔術を使えるが、萩谷の速さが相手では実際に術を発動する前にやられてしまうだろう。そうなると、彼が警戒しているのはマーガレットだ。彼らが必要としている山の主の能力を恐れているのだ。
「マーガレット、よく聞いて。ここで祈りの儀式をやるんだ」
「え……ここで? 今、ですか?」
「そう。でも、本当にやるんじゃなくて、儀式をするふりをしてほしい。合図をするから、それまで待って」
「は、はい」
 シュウは浅葱の刀をぎゅっと握りしめる。マーガレットが自分を騙しているかもしれないとは今は考えないことにした。他に現状を打開する方法は思いつかないし、それに彼女はミサギ語が分からないから、萩谷が彼女の正体について語ったことも知らないはずだ。
「私を倒す相談かな」
 萩谷が冗談めかして笑う。シュウは彼を睨みつけたままあっさりと頷いた。
「そうです。あなたもアサギさんのようにハインリッヒ語を勉強していれば、僕らが何をしようとしているのか簡単に分かったんですけどね」
 分かりやすく挑発するが、萩谷は動じない。シュウは腹をくくった。精神を集中し研ぎ澄ませていく。内ポケットに入れた青い結晶が熱を発するのが分かる。シュウは浅葱の体を地面に下ろし立ち上がった。
「術を使うのは止めてくれないかな。生き埋めはごめんだよ」
「僕だって嫌です。……マーガレット、今だ!」
 シュウは叫びながら浅葱の刀を振り上げた。青い結晶がまばゆい光を放ち、刀を中心に渦巻いていく。その背後では、マーガレットが彼の指示通りに祈りの儀式を始めようとしていた。胸の前で両手を組み合わせ、地面にそっと膝をつく。萩谷が目をすがめた。
 萩谷が姿勢を低くしたのが見えた。どうか引っかかってくれ。シュウは魔術を編みながらただ祈る。
「風よ、うっ……!」
 魔術を発動させようとした瞬間、シュウは萩谷に思いっきり蹴り飛ばされた。受け身も取れずに無様に転がり這いつくばりながら、シュウは必死に顔を上げる。衝撃が大きすぎて息ができない。苦しい。
 萩谷はシュウを一蹴りで黙らせると、その勢いのままマーガレットへ接近する。ハインリッヒ語の分からない萩谷は、シュウがマーガレットにどんな指示を出したのか知らない。だが、真偽はともかく、萩谷にとってマーガレットは妖異を操ることができる能力の持ち主なのだ。つまり彼は祈りの儀式を始めた彼女を見て、「妖異を呼ぼうとしている」と誤解している。シュウは起き上がれず呼吸もおぼつかないまま、それでも離さなかった刀の切っ先を持ち上げた。
 マーガレットに向けて。
「き、り、さけ……!!」
 収まりかけていた青い結晶の放つ光が再び炸裂する。刀の先端で淡い緑色に変わったその光は突風を巻き起こし、刃となって、ひざまずく少女に襲いかかった。萩谷が目を見開く。マーガレットは気付いていない。もし彼女が目を閉じていなかったとしても、避ける間はないだろう。だが萩谷の速さならば。
 萩谷は素早く方向転換し、シュウとマーガレットの間に立ちふさがった。地面に突き立てた刀から放たれた白い光が氷の壁を作り、風の刃から萩谷とマーガレットを守る。しかし流石の萩谷も風に追いつくのは難しかったようだ。先頭を切った刃は氷の壁をすり抜け萩谷の体を切り裂いた。血飛沫が飛ぶ。金属がぶつかり合うような固い音が響き、氷の壁に大きなひびが入る。マーガレットがびくりと震え目を開けた。体を傷だらけにした萩谷が膝をついているのを見て、思わず祈るふりを忘れ身を引く。
 シュウの放った風の刃は萩谷だけでなく、洞窟の壁や天井にまでも傷を走らせた。ガラガラと音を立てて岩肌が崩れだす。
「マーガレット、穴の方へ走って!」
 シュウはもう一度風の魔術を、今度は天井に向かって放つ。洞窟の崩壊が目に見えて加速した。
「うああああっ!!」
 腹から声を出し、浅葱の体を肩に担ぎ上げる。人一人分の重さと降ってくる岩が邪魔をしてうまく走ることができない。
「待て、貴様!」
 萩谷も同様だ。声に焦りが見えている。壊れかけた氷の壁と崩れた岩に隠れて位置が分からない。シュウは必死に大穴を目指した。逃げられるとすれば今しかない。
「シュウ!」
 穴の近くまで来るとマーガレットが走り寄ってきた。右手で彼女の手を取り、ずり落ちそうになる浅葱の体を左手一本でどうにか支える。すぐ目の前には穴を隠すように生えている大木。その根の間からは遥か下に流れる谷川が見えている。
「危ない!」
 マーガレットに手を引かれシュウはすっころんだ。つい今までシュウの頭があった位置を短剣が音を立てて通り過ぎ、大木の幹に突き刺さる。シュウはぞっと鳥肌を立てた。瓦礫の向こうで鬼気迫る表情をした萩谷がこちらを睨んでいる。
「動くな。その高さから落ちれば助からないぞ」
 シュウは答えなかった。両手にそれぞれマーガレットと浅葱を抱え、萩谷を睨み返したまま地を蹴り――崖へと身を投じた。
「きゃああ!!」
 マーガレットが悲鳴を上げる。萩谷がこちらへ突進するのが見える。シュウは落下しながら、洞窟の中に向けて魔術を放った。
「炎よ、焼き尽くせ!」
 まるで洞窟が火を噴いたようだった。萩谷の姿が真っ赤な炎に飲み込まれて消える。
 萩谷がどうなったかを気にする間もなくシュウは下を向いた。遥か下に見えたはずの谷川がすぐ近くに迫っている。迷っている暇はなかった。
「風よ……!」
 連続で魔術を使いすぎて魔力は枯渇寸前だ。そのわずかに残った魔力を全て集中させ突風を巻き起こす。内ポケットの青い結晶が火傷しそうなほどの強い熱を持った。目を開けていられない。風の音以外は何も聞こえない。自分が下を向いているのか上を向いているのかも分からない。それほど強い風がシュウたちと川の水面の間で吹き荒れたにも関わらず、彼らの落下速度が緩んだようには思えなかった。
 なす術もなく水面に叩きつけられ、シュウの意識は闇へと消えた。


 Back   Next   Top   Index