第九章:崩壊  --3



 木々の間を走り抜け、上り坂になった辺りで浅葱が足を止めた。まだ萩谷と別れた場所からそれほど離れてはいないが、シュウはとっくに息が上がっていた。へなへなとしゃがみ込み荒い息を繰り返す。周囲にはごつごつした岩が多く転がっていて、走りにくいことこの上なかった。目の前の上り坂も、びっしりと生い茂ったつる草の下から岩肌が覗いており、小さな岩山といった感じだ。
 浅葱はその岩山に近付いていくと、つる草をかき分けるようにして身をかがめた。シュウとマーガレットに手招きをする。
「ほら、早く」
 つる草に隠された岩の表面には、まるで小人の家のような、小さな木の扉が取り付けられていた。扉の向こうには細く暗い洞窟が続いている。四つん這いにならなければ入れないような狭さだ。この中に入れというのだろうか。
 マーガレットも同じことを考えたらしく、怯えた顔でシュウを見上げてくる。シュウは臆する心を隠して彼女に頷いて見せると、洞窟の中へ先陣を切って潜り込んだ。浅葱が示した道なのだから、いくら暗くて狭くても安全な場所だろう。迷っている場合ではないし、女の子の前で臆病なところを見せたくないという見栄もいくらかあった。
 洞窟の中には明かりがないが、奥に向かってまっすぐ伸びていて迷うことはなさそうだ。緩やかな上り道になっている。シュウがおっかなびっくり進んでいくと、マーガレットと浅葱も後ろに続く気配がした。最後尾の浅葱が目隠しのつる草を元に戻し扉を閉めると、洞窟の中は真の闇に包まれる。
「大丈夫やで」
 浅葱がマーガレットを宥める声が聞こえる。少し暗闇に慣れてきたシュウは二人に構わず黙々と進むことにした。四つん這いではマーガレットの手を引いてやるわけにもいかない。とにかくこの狭い通路を抜けてしまいたかった。洞窟に入ってから距離としてはほとんど進んでいないだろうが、先の見えない、自由に動けないこの通路は非常に長く感じる。
 そんなことを考えながら差し出したシュウの手に、何か固いものが触れた。どきりと心臓が跳ね、反射的に手を引っ込めてしまったが、生き物の類ではなさそうだ。恐る恐る手を伸ばして探ってみると、どうやら木材のようだ。
「シュウくん、そろそろ梯子があると思うんやけど」
「あ、うん。あったよ」
 浅葱に言われて、それを梯子だと認識する。通路の天井もそこだけかなり高くなっており、梯子を伝って上がっていけるようだ。シュウは四つん這いの体勢から立ち上がり梯子に足をかける。梯子は五段ほどしかなく、シュウはすぐに通路の出口へとたどり着いた。
 そこはまだ洞窟の続きのようだが、思いの外広い空間が広がっていた。大きさとしては小さな講堂ぐらいはあるだろうか。地面は天然の洞窟そのままらしくでこぼこしているが、奥の方は比較的平らになっているようだ。右手にはどうやって運び込んだのか何かの荷物が積まれ布をかけられている。中身は緊急時の食糧かなにかだろう。
 明かりのない洞窟の中でシュウの目にこれだけのものが見えたのは、この場所が外に通じているからだ。奥の方、左手の壁面にはぽっかりと大きな穴が空いている。天井近くから足元までに至るその大きな穴はしかし、みっしりと生い茂る木々によってうまく隠されていた。月明かりだけが木の枝の合間からしんしんと降り注いでいる。それは美しい光景であったが、今のシュウには関係のないことだった。妖異に追われて逃げ込んだこの場所で、万が一にも挟み撃ちされてはたまらない。シュウはそろそろと大穴に近付いていった。
「そっち行ったら危ないで」
「え」
 浅葱に制止され、足を止める。
「そっち側は崖になってるから、空を飛べない獣は入って来れない。鳥とか空を飛べる妖異なら別やけど、そいつらは大抵夜目が効かんから。ひとまずは安全や」
「そっか」
 シュウはそうっと大穴の方を覗き込んでみた。確かに穴の下は高い崖になっており、遥か下の地上には川が流れているのが見える。大穴を覆い隠している木々は崖の壁面に横向きに生えているようだ。この場所だけでなく、崖のあちこちに同じように木が生えているので、外から見ればこの隠れ場所がどこにあるのか、存在を知らなければ見つけられないだろうと思われた。シュウはほう、とため息をつく。少し肩の力が抜けた。
「そろそろ進むのは無理でしょうね」
 奥の方に三人で腰を落ち着けると、浅葱はハインリッヒ語で話し出した。マーガレットがハッと顔を上げる。
「ここは私たちの拠点のうち、最も神の山に近い場所です。私たちは普段これほど神の山に接近することはありません。何かあった時のために設けている拠点もここが最後です。モンスターの襲撃が激しくなっていることを考えても、これ以上進むのは危険です」
 シュウは同意しようとして頷きかけ、マーガレットの膝の上で握りしめた両手がカタカタと震えているのに気付いた。
「マーガレット?どうしたの」
「ごめんなさい」
 マーガレットが頭を下げる。今にも泣きだしそうなその声色にシュウは慌てるが、浅葱の方は動じることなくにっこりと笑う。
「大丈夫ですよ。柳も萩谷さんも強いから、今頃はモンスターもみんなやっつけられてるでしょう」
「そ、そうだよ。心配しなくても大丈夫だって。あの二人は強いし、ここは安全な場所だもの。それに万が一ここにモンスターが侵入してきたとしても、アサギさんも僕もいるよ」
「まあ、こんな場所でシュウくんが前みたいな大爆発を起こしたら、みんな生き埋めですけどね」
 涼しい顔の浅葱に茶々を入れられ、シュウは言葉に詰まる。顔を上げたマーガレットはまだ元気のない様子だったが、それでも二人のやり取りに少しだけ笑みを零した。
「そのうち柳も萩谷さんもここに合流するはずです。二人を待って、夜明けが来たら外で例の儀式をやりましょうか」
 マーガレットの笑みがすっと消える。シュウは思わず浅葱の顔を見た。彼は穏やかな表情を崩さない。
「夜の闇の中ではモンスターの方に分がありますからね。儀式の間二人を守り抜くには明るくなってからの方がいい。……そんなに怯えなくても、ちゃんと守って見せますよ。マーガレット」
 マーガレットはふるふると首を横に振った。
「違うんです。モンスターも、怖いですけれど。わたし、また失敗するかもしれません。わたしの力は少しずつ弱くなっているみたいなんです。モンスターを鎮めて追い払うどころか、今よりもっと引き寄せてしまうかもしれません。こんな場所でそんなことになってしまったら、きっと、みなさんも……」
 喋るにつれてマーガレットの視線が落ちていく。無理もない、とシュウは思った。シュウは今までの人生でこれほど妖異に囲まれたことはなかったし、恐らく彼女もそうだろう。先程自分たちを襲ってきた妖異の鋭い爪、牙、あんな奴らが近くにうじゃうじゃいるのだ。しかも、自分たちがその餌食になるかどうかは彼女にかかっている。これが重荷でなくて何だろう。
 シュウは彼女を元気づける言葉を一所懸命探したが、どれも薄っぺらいような気がして何も言えなかった。
「失敗した時のことなんて考えなくていいんですよ」
 一方、浅葱はあっさりとそう言う。
「そりゃ、やるからには失敗することだってあるでしょう。でも、失敗するかもしれないからやらないって選択肢は今ここにはないでしょう? モンスターたちを鎮められないまま放ってはおけません。奴らが人里へ下りるようになれば被害は広がるし、私たち隠れ里の者でも太刀打ちできないほど強いモンスターが現れたりしたらこの国はおしまいです」
「で、でも……何もしないより、悪いことになるかもしれません」
「その時にはその時です。御鷺国には『人事を尽くして天命を待つ』っていう言葉があるんですよ。精一杯頑張ったら、あとは運を天に任せようって意味ですね。つまり結局最後は運なんです、運」
 そんな無茶苦茶な。シュウは浅葱の乱暴な理論に内心呆れたが、口は挟まなかった。
「運なんて人の力ではどうしようもありません。だからマーガレット、あなたも自分が今できることだけを精一杯やればいいんです。言ったでしょう、ここではあなたは聖女さまじゃない。異国に迷い込んだ一人の女の子に過ぎないんです。全部自分が解決しようと思わなくていいんですよ。もしあなたの力が及ばなかったら、その時どうするかみんなで考えましょう。あなた一人の責任では決してない」
 マーガレットはぽかんと浅葱の顔を見つめている。シュウも同様だった。浅葱の言葉は言うまでもなくマーガレットに向けられたものだが、シュウの心にもじわりとしみ込んでいった。全部自分が解決しようと思わなくていい。一人の責任ではない。それをあの日の、五月九日の夢の中の自分に言えたらいいのに、とシュウは思った。あの夢の中でシュウは本当に一人なのだ。誰もこれから起こる惨劇を知らずにいつも通りの一日を過ごしている。シュウ一人が、それをどうにかしようともがいているに過ぎない。
 シュウは頭に浮かんだその思いを振り払った。マーガレットの肩をぽんぽんと叩く。
「アサギさんの言う通りだよ。僕の力も助けになるんでしょう? マーガレット一人でもし無理だったとしても、二人いればきっとなんとかなるよ」
 振り返ったマーガレットの頬が緩んだのが月明かりの中でも分かった。
「はい。……お二人とも、ありがとうございます」
「どういたしまして。さて、そうと決まれば、朝までしっかり体を休めること! 明日は頑張らなきゃいけませんからね」
 浅葱がそう言って大きく欠伸をする。シュウとマーガレットは顔を見合わせて笑い合った。

 萩谷が合流したのはもうすぐ夜が明けようという時だった。シュウとマーガレットは横になってうとうとと微睡んでおり、浅葱が立ち上がったのにも気付かなかった。目が覚めたのは、彼らの交わす会話が聞こえてきた時だ。
「外の様子は」
「あらかた片付いたよ」
「柳とは一緒じゃないんですね」
「完全にはぐれてしまったらしい。近くにはいないようだ」
 シュウが体を起こすと、マーガレットも目をこすりながら起きだした。萩谷と浅葱が出入り口の梯子の近くに立っているのが見え、そちらに近付いていく。
「もうこの辺で儀式をやるべきやと思います。柳のことは気になりますが、ここであまり長時間待っているのもまずいでしょうし」
「そうだね」
 夜明けが近いとはいえ洞窟の中はかなり薄暗い。だがそれでも萩谷がかなりの返り血をかぶっているのは分かった。つい先程まで戦闘を続けていたのだろう。それなのに動作や声色からは疲労の色がほとんど見られない。
「大丈夫でしたか、ハギヤさん」
「ああ。この通り無事だよ」
 シュウが声をかけると、萩谷はそう言って腕を広げて見せた。暗い中ではよく見えないが、大きな怪我はしていないということだろう。シュウはほっとした。
 浅葱がシュウを振り返る。
「もうすぐ夜明けや。柳はまだやけど、先に儀式を――」
 萩谷がよろめき、浅葱の背中にもたれかかったようにシュウの目には映った。だが萩谷は一瞬の後に後方へ素早く飛び退る。浅葱の言葉が不自然に途切れた。萩谷の動きに一拍遅れて彼の方を向いた浅葱の背中から、棒のようなものが突き出ている。
 それが、彼の体に突き刺さった短剣の柄だと理解するまで、シュウは更に数秒の時を要した。


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