第九章:崩壊  --2



「シュウくーん。朝やで」
 すっかり聞き慣れてしまった異国の言葉に揺り起こされ、シュウはゆっくりと目を開けた。木々の間から覗く空は白み始めているが、辺りはまだ薄暗い。焚き火は既に消されていた。火がなくなったせいか、寝起きのせいか、少し肌寒い。
「ほら、それ食べたら出発するで」
 浅葱に干し芋を手渡される。シュウはぼんやりしたままそれを口に含んで、違和感の正体に気付いた。
 ここはミサギ国だ。
 ばっと顔を上げたシュウを浅葱が訝しげに見やる。シュウは呆然とした。浅葱がいるということは、ここは五月九日のザーラではない。いつものあの夢ではないのだ。
「シュウくんどうしたん」
「夢じゃ……ない」
「うん? まだ寝ぼけてるんか。しっかりしてや」
 シュウは手元の干し芋に目線を落とす。ざらざらした感触を手に感じる。口の中にはほのかな甘みが広がっている。ここは紛う事なく現実だ。寝ぼけているわけではない。それでは、昨夜マーガレットと話をした後、眠りについたシュウは本当にあの日の夢を見なかったのだ。
「早よう食べんと、置いてくで」
「アサギさん、僕」
「うん」
 首を傾げた浅葱に半ば詰め寄るようにしながら、シュウは言葉に詰まった。
「僕……夢を、見なかったんです」
「例の五月九日の夢ってやつ? 良かったやん。よく眠れて」
 良かった。シュウは唇の動きだけでその言葉を繰り返す。良かった、のだろうか。確かにあの日の夢は辛くて苦しい。何度もがいてもザーラの町は救われず、最後にはシュウも命を落とすことになる。痛い思いはもちろんしたくない。でも、あの夢を見られなければ、ザーラを救おうともがくことすらできないのだ。
 シュウは心の中で焦りがくすぶっているのを感じつつも、それをうまく言葉にできず黙って干し芋をかじった。
 一行は山中の道なき道をひたすら進んでいく。基本的にはシュウとマーガレットはそれぞれ浅葱と柳に背負われていたが、道が険しくなるにつれてそうもいかなくなってきた。急な坂道などはまだいい方で、ほとんど崖に近いところをよじ登ることもあった。更に、進めば進むほど妖異の襲撃の頻度が上がっていく。最初の頃は萩谷一人で妖異を倒すことができていたが、次第に数が増えていき、浅葱と柳も戦いに加わるようになった。遠くで別動隊が戦闘しているらしい音が聞こえることも多くなっていった。本当はシュウも戦いに加わりたかったが、それは萩谷に止められている。先日のような大爆発を引き起こされては、敵に居場所を教えるだけだ。せっかく別動隊を何体も投入して妖異を引き付けているのが無駄になってしまう、ということだった。
 何故あのような大きな火力が出たのか、自分でも分からないシュウには従うしかなかった。シュウとしては、松葉の短槍をいつもの杖に見立てて、普通の魔法を普通に使っただけなのだ。
「シュウは大きな力を持っていますから」
 マーガレットはシュウの話を聞くと、当然のことのようにそう言った。
 彼女は野営のたびに、わずかな時間でもシュウと話をしたがった。慣れない強行軍で疲れているだろうに、眠い目をこすりながらとりとめのないことを話しかけてくる。シュウも彼女の気持ちが分からないでもなかった。日中は人と話している余裕などないし、彼女と常に一緒にいる柳はハインリッヒ語が分からない。
「確かに、あの時はすごい火力が出せたみたいですが、いつもだったらあんな事、僕にはできませんよ」
 シュウは決して落ちこぼれではなかったが、その代わり取り立てて突出した力を持っているということもなかった。ザーラの魔術師としてはごく一般的な魔力しか持っていないし、術の扱いに特別長けているという程でもない。
 焚き火の明かりの中で、松葉の短槍の柄をそっと撫でる。思い付きで借りてきてしまった武器だが、今のところ全く出番はなかった。短槍はよく使いこまれている。松葉は手入れを怠っていないようで、戦闘でついた血や泥を拭き取ると槍の穂先はすぐに輝きを取り戻した。切れ味も落ちてはいないだろう。試したわけではないが。実はこの短槍の方がすごい力を持っているのではないかとは何度も考えた。だが、浅葱が言うには、これは至って普通の武器であり、魔力の類が込められているものではないそうだ。確かにこうして触っていても、力のようなものは何も感じない。
 そうなると、あの力は一体なんなのだろうか。
 短い夕食を終え、マーガレットと並んで横になる。木の枝を透かして見える夜空は満天の星空だ。運の良いことに、山中へ入ってから天候には恵まれているが、今夜は特別によく晴れている。シュウは無意識に北のしるべ星を探した。町を離れて旅をする越境商人にとって、星から方角を読み取る能力は必須のものだ。シュウも幼い頃から父親に教え込まれた。おかげで星空を見ればまず北の空に浮かぶ青い一等星を探すのが癖になっている。
(青い光……)
 シュウは閉じかけた目をはっと見開いた。そうだ、どうして忘れていたのだろう。魔術を使ったあの時、いつもと違うことが一つだけあったではないか。
 内ポケットにそっと手を入れる。体温と同じ温度に温まった青い結晶がそこに大人しく収まっていた。相変わらず不思議なことに、シュウの指が結晶に触れている感触だけでなく、「触られている」感触がシュウにはあった。確かに感じるのだが、どこを触られているのかと問われても説明はできない。
 魔術を使ったあの時、この結晶は強い熱と光を放っていた。この結晶は本人の持つ力を形にしたものだと浅葱は言っていた。そう言えば浅葱や松葉が戦っている時も、何度か結晶らしきものが光を発するのを目にしている。ならば、強い力を持っているのはこの青い結晶なのではないか。
 そこまで考えて、シュウは内心で首をひねった。おかしい。そうなると結局、強い力を持っているのはシュウ自身ということになってしまう。堂々巡りだ。
 シュウは考えるのを諦めて、ひとまず眠ることにした。隠れ里を出てからは、まだ一度しか五月九日のザーラの夢を見ていない。それが良いことだと手放しに喜ぶことはシュウにはできそうになかった。

 変化があったのは四日目の夜だった。
 いつものように焚き火を囲んで眠りにつきかけた時、すぐ隣に腰を下ろしていた浅葱が何気ない動作でシュウの肩に手を置いた。まどろみの中から引き戻されたシュウがどうかしたの、と問おうとすると、浅葱は唇を動かさずに小さく鋭い声でそれを制した。
「静かに」
 シュウの頭が覚醒する。何かは分からないが、危険が迫っていることを察した。
 萩谷と柳の姿は近くにない。マーガレットは何も知らずにシュウの背中側ですうすうと穏やかな寝息を立てている。浅葱はそれ以上何も言わず、表面上はぼんやりと焚き火を見つめているように見える。シュウも浅葱に倣って寝たふりを続けながら耳を澄ませるが、ぱちぱちと焚き火の爆ぜる音、風に吹かれた木々の葉が擦れる音以外は何も聞こえなかった。シュウはごくりと唾を飲み込む。
「ううん……」
 マーガレットが寝返りをうったのと同時に、浅葱の足がシュウの腹の下へ潜り込みシュウの体は勢いよく蹴り飛ばされた。
「ぐえっ!」
「きゃあ!」
 内臓が押し潰され情けない声が漏れる。すぐ近くにいたマーガレットを巻き込んで二人で地面を転がり、目を白黒させている彼女を助けながらシュウも慌てて立ち上がる。たった今までシュウが寝ていた地面が大きく抉り取られていた。焚き火は散らかされ、あちこちに散らばった火が燻っているものの、明かりが小さく視界が悪い。
「な、なに……?」
 状況が飲み込めていないマーガレットを後ろに押しやり、シュウは松葉の短槍を握りしめた。焚き火があった場所の向こうに、なにか大きくて黒い生き物がいる。まさかここまで来てただの野生動物というわけはないだろう。
 視界の左端で赤い炎をまとった浅葱の刀が閃く。一気に空中高くへと跳躍した彼の炎に照らされて、黒い妖異の姿があらわになった。妖異の姿は後ろ足で立ち上がった熊のような形をしている。大きさは人間の身長の二倍ほどだろうか。大きさだけで言えば以前に襲われた妖猫と同じくらいだ。頭部には赤く光る三つの目が爛々と輝いている。三つの目のうち一つは襲い掛かる浅葱の方を向き、残りの二つはシュウとマーガレットの方を見据えていた。シュウの背筋に嫌な汗が一筋垂れる。
 ガキン、と金属同士をぶつけたような音がして、浅葱が妖異の上から飛び退いた。妖異が振り上げた腕には、闇の中でもそうと分かるほど立派な鉤爪がついている。浅葱がいなければシュウはあの爪の餌食になっていたことだろう。
 妖異の狙いは浅葱に定まったのか、両者の距離はじわじわと縮まっていく。妖異の二本の腕はその大きさに似合わずかなりの速さで動き浅葱を翻弄した。切り込もうとしても鉤爪に防がれ、お返しとばかりに繰り出される攻撃は浅葱の速さでも避けるので精一杯という感じだ。浅葱はちっ、と舌打ちをして大きく後退し木立の間へ潜り込んだ。図体の大きい妖異は木々が邪魔でうまく動けないだろうと踏んでの行動だが、妖異の方はお構いなしだ。大きな腕を振り回し、浅葱が隠れた木を鷲掴みにし、めきめきと軋ませなぎ倒していく。
 マーガレットがひくりと喉を震わせたのが分かった。当然だろう。あれほどの力を持っている怪物が、自分からひと時も目を離さずに見つめ続けているのだから。いつ矛先を浅葱からシュウたちに向けてもおかしくない。そして浅葱にも負けないくらいの速さを持つあの妖異に襲われて、逃げ切れるとはとても思えない。
「浅葱!」
 シュウとマーガレットの後方から萩谷の声が聞こえた。妖異が暴れたおかげで、離れていた彼にもその襲撃が伝わったようだ。防戦一方だった浅葱が攻めに転じる。炎をまとった刀が妖異の鉤爪と切り結ぶのが木々の向こうに見えた。刀と爪が打ち合うたびに文字通り火花が散る。両者は一歩も譲らない。妖異の三つ目のうち、シュウとマーガレットの方を向いている二つがぎろりと動いた。三つ全ての目が浅葱を注視する。
 その時、シュウたちの後方で白い光がきらめいた。反射的に振り向いたシュウのすぐ近くを何かが矢のように一瞬で通り過ぎる。直後、妖異のおどろおどろしい悲鳴があがった。シュウがもう一度振り向くと、妖異の赤い目のうち一つが潰されている。白く鋭い何かが深々と突き刺さっている。あれは氷の塊だ。
 浅葱は妖異の怯んだ隙を見逃しはしなかった。地を蹴って鉤爪の射程の内側へ飛びかかり、頭部を袈裟切りにして目を一つ潰す。妖異は悲鳴をあげ、狂ったように腕を振り回した。
「危ない、アサギさん!」
 シュウは思わず身を乗り出した。浅葱は敏捷な動きで妖異から距離を取ろうとするのだが、妖異の方も本気になっている。今にもその鋭い鉤爪が浅葱の体を切り裂きそうだ。
「二人とも動かないで」
 萩谷の落ち着いた声が近くから聞こえた。頭上の木の枝ががさりと音を立ててしなり、シュウたちのすぐ前に槍を構えた萩谷が着地した。彼の胸元からは先程と同じ白い光が漏れている。萩谷は槍を大きく振りかぶり、地面に突き立てた。白い光が弾ける。光は瞬き一つで氷に変化し、ばきばきと地を割りながらまっすぐに妖異を目指した。妖異の太い脚を刃のようにとがった氷が貫き、その場に縫い留める。妖異の体は大きく均衡を崩した。残った最後の目がようやく萩谷の存在に気付き、ぎろりと彼を睨みつけ――次の瞬間には浅葱の刀によって焼かれていた。
 妖異は動きを止め、地響きを立てて倒れ伏す。マーガレットがシュウの後ろでほっと息を吐いたのが分かったが、シュウはまだ緊張を解けずにいた。まだ気配を感じるような気がする。
「遅いで萩谷さん」
「おや、この程度の相手にまさか苦戦していたのかい」
「まさか。萩谷さんの見せ場を作っただけやで」
 浅葱と萩谷は軽口を叩き合って笑っている。だが二人は刀を納めようとはしなかった。
「シュウくんもマーガレットちゃんも大丈夫?」
 すたすたと歩いてくる浅葱の顔には流石に若干疲労の色が見えていた。返答に迷うシュウを見て浅葱が笑う。どこか凄みのある笑顔だった。
「気付いてるみたいやな」
「アサギさん……」
「走るで。囲まれたら厄介や」
 シュウが頷くと、浅葱はマーガレットを抱き上げて森の中へと駆け出した。突然のことに驚いたマーガレットが小さく悲鳴をあげて浅葱にしがみつく。シュウも彼の後を追ったが、萩谷がその場から動かないのに気付いて慌てた。
「アサギさん、ハギヤさんが!」
「足止めしてくれる。気にせんと走れ!」
 背後で妖異の咆哮が、木々のなぎ倒される音が聞こえ出す。シュウはぐっと歯を噛みしめ、浅葱の後を追うことに集中した。他人のことを気にしている余裕はない。ただ、何の助けにもなれない自分が情けなかった。


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