第九章:崩壊



 熱い。苦しい。息ができない。僕はまた死んでしまったのだろうか。

「シュウ!」
 体を揺さぶるマーガレットの声でシュウは現実に引き戻された。肺へ一気に空気が流れ込み、げほげほと大きくむせ返る。生理的な涙がにじんだ視界は暗い。夜明けはまだ来ていないようだ。
「起きてください、シュウ!」
 焚き火に照らされ、マーガレットの輪郭が闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。シュウが体を起こすと、彼女はほっとため息をついた。
「大丈夫ですか。ひどくうなされていました」
「ありがとう、ございます」
 シュウはぎこちなく笑った。うなされていたと聞いても驚きはない。あんな夢を見ていて、穏やかに眠っていたとしたらそちらの方が驚きだ。もう何度も何度も死ぬ夢を見ているが、死の感覚には慣れそうにもない。もっとも、あれはあくまで夢の中の出来事なのだから、本当の死が訪れる時は全然違う感じがするのかもしれないが。
「シュウ?」
 考え込んでいるシュウの顔をマーガレットが心配そうに覗き込む。彼女は焚き火に照らされてまるで後光を背負っているかのようだ。あの夢の中で彼女は無事に爆発から逃れられただろうか。爆発の引き金を引いたのは彼女を拐かそうとしていた奴らだ。ならば首尾よく逃げ出せたのかもしれない。その後に彼女がどんな目に遭わされるのかは分かったものではないが。
「もしかして、僕のせいで起こしちゃいましたか」
「いいえ、わたしも怖い夢を見ていて、起きてしまったんです」
 そう言って弱々しく微笑むマーガレットの言葉が本当のことなのか、シュウに気を遣って嘘をついたのか、シュウには判別がつかなかった。ただ、もし本当に悪夢を見ているのだとしたら、その内容は容易に想像がつく。彼女はシュウと同じザーラの町の五月九日を体験した唯一の人間なのだ。それも、その日の記憶が何故だか丸々抜け落ちてしまったシュウとは違って、マーガレットには不完全とはいえ記憶がある。きっと沢山のおぞましいものを目にしたことだろう。それはシュウがこれまでに見てきた夢よりもずっと地獄の光景かもしれないのだ。押し黙ったシュウの心中を知ってか知らずか、マーガレットがやさしく声をかける。
「シュウも怖い夢を見たのでしょう」
「あ……はい」
「どのような夢でしたか」
 シュウは思わずマーガレットの顔を見た。どのような夢かとは、話せと言うのだろうか。あの夢のことを。夢とはとても思えないあの五月九日の出来事を。
「悪夢は人に話すと本当にならないと言いますから」
 マーガレットは聖女らしい邪気のない笑みでそう言った。シュウは何か答えなければと口を開いて、しかし何も言えずに空気だけを吐き出す。ぱちぱちと焚き火のはぜる音がした。シュウは彼女から逃げるように目をそらす。焚き火を挟んで反対側では浅葱が横になっていた。胸が規則正しく上下していて、すっかり寝入っているようだ。萩谷と柳の姿は見えない。交替で見張りをするということだったから、見えなくとも近くにはいるのだろう。シュウたちの話し声が聞こえているかは分からないが、あの二人はあまりハインリッヒ語が得意でないようだったから、聞こえても内容までは分からないだろう。
 今なら、聞いているのはこの少女だけだ。
「僕は……あの日のことを何も覚えていないんです」
 絞りだした声はみっともなく震えていた。
「一部だけ思い出せないとか、そういうことじゃなくて。前の日までは普通に覚えているのに、あの日のことだけ、全く何も覚えていないんです」
「五月九日……」
 マーガレットが確認するようにぽつりと呟く。シュウはうなずいた。
「五月八日の夜にザーラの町でいつものように眠りについて、次に目が覚めたら、僕はミサギ国の牢屋の中で横になっていました。ザーラに毒の霧が蔓延しているとか、大きな爆発があったとか、そういう話を聞かされても、とても信じられませんでした。自分がミサギ国にいるってことも嘘じゃないかと思いました。でも本当だった」
 シュウは一つ大きく息を吸った。なんとなく、マーガレットは彼の話を信じてくれる気がした。
「それから毎晩、同じ夢を見るんです」
「同じ夢、ですか」
「厳密には同じではないんです。でも、夢の中で僕は必ず、五月九日のザーラの町の、僕の部屋のベッドで目を覚ますんです」
 マーガレットが小さく息を呑む。
「それも、とても現実的な夢で。最初に見たときは、ミサギ国にいたことの方が夢だったんだと思いました。それくらい現実としか思えない夢なんです。匂いも味も感じる。痛みだって感じる。でも……やっぱり夢なんです。だって、毎回夢の最後に僕は死んでしまうから。あれが現実だったら僕は今ここに生きてはいないということになります。それでも、僕にはあれがただの夢だとはどうしても思えないんです」
「夢の中で、何度も五月九日へ戻っているということですか」
「はい。夢としか思えないんですけど、本当に夢なのか今こうしていても分からなくなるくらい、現実みたいな時間です。……マーガレット、大丈夫ですか」
「えっ」
 はっと顔を上げたマーガレットはひどく顔色が悪かった。実際には焚き火の光が逆光になっていて色はよく分からないのだが、浮かない表情ははっきりと読み取れる。
「すみません、いきなりこんな話をしてしまって。もっと楽しい話をすればよかったですね」
 シュウが無理やりに笑顔を作ると、マーガレットは慌てて首を横に振った。
「い、いえ、わたしが聞いたのに、ごめんなさい」
 やたらと恐縮するマーガレットを宥めながら、シュウはふと彼女はどんな夢を見ていたのだろう、と思った。彼女もまたあの日の悪夢を見ていたのだろうか。そうだとすれば、シュウと違って記憶がある分、それは余計に救いがなくて辛い夢なのではないだろうか。シュウは聞き出すべきかどうか悩んだ。彼女が言ったように、話すことで楽になる種類の悪夢も確かにあるが、それがそういう類の夢だとはとても思えなかったからだ。
「二人とも、そろそろ眠った方がいいよ」
 背後から穏やかな声をかけられ、シュウとマーガレットは二人揃って振り向いた。いつの間にかそこには萩谷が立っている。見張りの交替に戻ってきたのだろう。
「眠れないのも分かるが、少しでも体力は温存しておくべきだと思うな」
「あ……はい。すみません」
 シュウはぺこりと会釈すると、マーガレットに萩谷の言葉を伝える。大人しく横になった彼女に、シュウは自分の上着をかけてやった。
「浅葱、起きなさい」
 萩谷はシュウの隣に腰を下ろすと、焚き火に手をかざしながら小声で浅葱に声をかける。そんな小さな声で眠っている人を起こせるものだろうか。シュウが焚き火越しに様子を見ていると、浅葱はもぞりと一つ寝返りを打って、再度寝息を立て始めた。やはりあれくらいでは起きないだろう。
「狸寝入りはやめなさい」
 横になろうとしていたシュウは萩谷の言葉に思わず浅葱の方を見やる。狸寝入りというのは確か、ミサギ語で寝たふりのことだ。ということは、浅葱は先程のシュウとマーガレットの会話も聞いていたのだろうか。別に聞かれて困るようなことを話したつもりはないが、何となく気恥ずかしい。浅葱はシュウが何度も夢にうなされているところを見ているから、悪夢の話を聞いたところで今更かもしれないが、今は夢のことばかりに構っていられる状況ではないのだ。
「……ばれないと思ったんやけど」
 浅葱はばつの悪そうな顔をして身を起こした。萩谷がにっこりと笑う。
「私を欺こうなんて百年早いよ」
「へいへい」
 浅葱は肩をすくめて立ち上がり、暗い木立の中へと消えていった。シュウはそれを見送り、萩谷とマーガレットに挟まれて地面に横になる。あまり眠れそうにはなかったが、萩谷の言う通り少しでも体力の回復に努めるべきだろう。
 ゆっくりと目を閉じて前回の夢の内容を思い出す。爆発を止めることもマーガレットを守ることもできなかったが、それでも最初の夢に比べればかなり事の真相に近づいているように思えた。爆発はやはり工場の中で起こったのだ。それを引き起こしたのは、マーガレットを拐かしたあの覆面の男だ。爆発が起こる直前にあの男が投げた丸い玉のようなもの、あれはきっと爆弾だったのだろう。実験施設が爆破されたことで中に保管されていた毒物が漏れ出し、ザーラの町が毒の霧で覆われたのだ。ならば全ての元凶はあの覆面の男なのだ。奴を止めることができれば、ザーラは救われる。
 救われたとして、その後どうなるのだろう。
 あれは夢だ。どんなに現実のようでも、あれは夢なのだ。夢はいつか覚めるものだ。もし、もう一度あの夢の中で今度こそザーラの町を救えたとして、目が覚めればシュウはこの現実へと戻るしかない。現実世界では五月九日という日はとっくに過ぎ去っていて、ザーラの町は毒霧の蔓延する死の町と化している。この現実において夢の中のザーラを救うことに果たして何か意味があるだろうか。
 それとも夢の中でザーラを救うことができれば、シュウが夢の中で死ぬことなくあの忌まわしき五月九日を越えることができれば、夢の世界は続いていくだろうか。思えば目が覚めるのは決まってシュウが死んだ瞬間だった。それならば、シュウが死ななければ、目を覚ますことはなく夢の世界で生きていくことができるだろうか。家族と友人と笑い合ってあの町で暮らしていくことができるだろうか。
 そんなことはあり得ないと分かっていながら、シュウは願わずにはいられなかった。


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