第八章:止められない世界 --2



 親切な男について建物の中に入ると、入ってすぐ大きな階段が現れた。男が下りの階段で地下へ潜っていくので、シュウもその後をついていく。階段は思ったよりも深く、二階分くらいの距離を下りてようやく地下の階に着いた。両開きのドアを開けると、そこは吹き抜けの大ホールになっている。ホールの壁面には、人が一人すっぽりと収まりそうな大きさの卵型の黒い球体が縦横にずらりと並べられていた。球体には一つ一つラベルのようなものがついている。ホールにはかなり高いところまで通路と梯子が張り巡らされており、どうやら球体はただ並べてあるだけではなくしっかりと管理されているようだ。そしてホールの中央には、大きな大砲のようなものが置かれていた。大砲と言っても、どちらかと言うと煙突に近いような、冗談みたいな大きさのものだ。周囲にはどういう用途か分からない機械がいろいろと取り付けられている。
「この辺のものに勝手に触るなよ。中身が漏れたりしたら皆死んじまうからな」
 男が振り返ってにやにやと笑う。シュウは全く笑えなかった。つまりここがマーガレットの言っていた、毒物を研究している場所なのだろう。もしそうなら爆発の影響はこの場所にまで及ぶはずだ。あるいはここが爆心地かもしれない。シュウの心臓がばくばくと跳ね出す。周囲を見回して、怪しい人や物がないか探すが、初めての場所では何が普通で何が怪しいのかもはっきりしない。
「そんなびくびくしなくても大丈夫だよ、冗談だって」
 男はシュウが怯えていると受け取ったのか、そう言って笑った。シュウも怪しまれないように笑い返すが、その顔はぎこちない。
「そ、そうですよね」
「今日の実験は第二実験室だから、奥の真ん中のドアの先を突き当たりだ。早く行かないと怒られるぞ」
「ありがとうございます」
 男が指し示した方には番号の振られた三つのドアが並んでいた。シュウは例を言って男と別れ、「二」と書かれた真ん中のドアに向かう。このまま実験室に向かえば、シュウの運んでいる荷物が実験とは何の関係もないものだとばれてしまうが、ここまで来て戻るわけにもいかない。もうすぐ起こる爆発を止めなければならないのだ。
 だが、ホールの中の実験施設を初めて目の当たりにして、シュウは少し尻込みしていた。もし、爆発がこの施設で起こるのだとして、その原因があの大砲のような機械だったとしたら、どうやって止めればいいのだろうか。機械の扱い方など素人のシュウには分からない。大きすぎるし構造も分からないから、爆発する前に分解してしまうとか、まるごと氷漬けにするとか、そういう対処もできないだろう。やはりシュウには荷が重かったのだろうか。
 そう思いつつも、実験室へ続くドアを開けようとシュウは一旦荷物を床におろした。ドアノブに手を伸ばす。
 すると、シュウの手が触れるより先に、ドアノブが回転した。
(えっ?)
 ドアが勢いよく開かれる。シュウは寸でのところで後ろに飛び退き、ドアにぶつからずに済んだ。前のめりにドアを開けた人物がシュウの存在に気付き目を見開く。シュウも同様に驚いて息を呑んだ。その人物は聖女――マーガレットだったのだ。
「マ……っ」
 思わずマーガレット、と呼びそうになり、シュウは慌てて口をつぐんだ。今の、五月九日の彼女にはマーガレットという名前はないのだ。彼女はまだシュウのことを知らない。
「聖女さま、失礼し……」
 失礼しました、と言おうとした時だった。シュウはマーガレットの背後に思いがけないものを見た。通路の奥から、灰色の毛皮の狼が数匹こちらへ駆けてきている。モンスターだ。シュウは咄嗟にマーガレットの手を取り走り出した。走りながら体にくくりつけた紐をゆるめ、背中に隠した杖を取り出す。いきなり手を引かれたマーガレットは転びそうになったが、体勢を立て直して大人しくついてきた。
「おい、どうして聖女がここにいるんだ!」
 走るシュウたちを見咎めた研究員の一人が声を上げた。研究員たちの間にざわめきが広がり、男たちがシュウを止めようと前方に立ちふさがる。シュウは唇を噛んだ。今は研究員など相手にしている場合ではない。
 だが、研究員たちはすぐに相手にならなくなった。実験室へと向かうドアから、数匹のモンスターがマーガレットを追ってホールの中へ飛び込んできたからだ。
「モンスターだ!」
「脱走したぞ!」
 戦々恐々とした悲鳴が上がり、ホールの中は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。泡を食って逃げ出す者、無線機でどこかに連絡を取ろうとしている者、上の方の通路から指示を出そうと何やら喚いている者、と様々だ。こちらに向かってきていたモンスターたちも広い場所へ出たことでばらばらになり、遊ぶように研究員たちを追いかけ回している。そのうちの一匹がシュウたちの方へ走り寄ってきた。シュウはマーガレットを出口の扉の方へ押しやり、モンスターの前に立ちふさがる。
「聖女さま、逃げてください!」
「えっ……」
「早く!」
 マーガレットがためらっているのが気配で分かったが、モンスターはかなり接近してきていた。シュウは杖の先をモンスターに向け精神を集中させる。一瞬、脳裏にミサギ国の黒焦げになった森の風景が浮かび、じわりと嫌な汗をかいた。今ここであんな暴発するような魔術を使うわけにはいかない。爆発を止めに来たのに、シュウ自身が爆発の原因になってしまう。
 青白い光が杖の先に収束していく。それは先日暴走した時のような激しい光ではなく、シュウにとっては馴染みの深い魔術の波動だった。
「水よ、凍てつく棘となり我が敵を貫け!」
 いつもなら省略する呪文を一言一句噛みしめるように唱え、杖の先に集めた光をモンスターにぶつける。青白い光は淡い水色に変わり、モンスターの眼前で無数の氷の針となった。モンスターが咄嗟に身を捻ったせいで致命傷にはならなかったが、数本の針はモンスターの右脇腹の肉をえぐり取って床に突き刺さる。モンスターは血泡を吹きながらシュウに向かって突進した。シュウは再び魔力を集中する。
(炎は駄目だ)
 杖に集まった光は緑色に変化した。
「風よ、刃となれ!」
 すぐ近くに迫ったモンスターを殴りつけるように杖を振り下ろすと、シュウを取り巻くように突風が吹いた。風がモンスターの灰色の毛皮を切り刻み、派手に血飛沫が上がる。モンスターは勢いを殺せずにシュウの足元へ倒れ込んだ。まだ前脚がぴくぴくと震えているが、立ち上がることはできないだろう。
 シュウは出口の方を振り返ったが、マーガレットの姿はもうそこにはなかった。無事に外へ逃げられただろうか。気がかりではあるが、今は爆発を食い止める方が優先だ。ホールの中にはまだ四匹のモンスターが駆け回っている。何人かの研究員が噛みつかれた手足を押さえうずくまっていた。
「いやっ!」
 研究員を助けようと走り出した時、上の方から女の子の悲鳴が聞こえた。はっと顔を上げ上階の通路を見回す。一つ上の階の通路で手すりに追い詰められているマーガレットの金の髪がきらりと光った。
(マーガレット!)
 シュウは息を呑んだ。彼女の向かいに見える人影は白衣を来ていなかった。研究員ではないし、彼女の反応からして警備員でもないのだろう。遠いし薄暗くてよく見えないが、男は長い獲物を手にしているようだ。シュウは大急ぎで上階へ続く梯子を探した。あの男こそマーガレットを拐かそうとする輩だろう。このままでは彼女の身が危ない。
 だが、梯子へ飛びつこうとしたシュウの前に、一匹のモンスターが立ちふさがった。厄介なことに、研究員たちを追い回して興奮しているようだ。ぐるるる、と獣の呻き声が上がる。シュウは舌打ちをして杖を振り上げた。
「どけっ!」
 刃と化した風をモンスターの鼻面に叩きつける。モンスターが怯んだ隙にシュウは梯子を登り上の階の通路に手をかけた。狼の姿をした四足歩行のモンスターには梯子の上にまでは追いかけて来られない。そう安心した瞬間だった。
 通路に駆けたシュウの左手の甲を刃物が貫いた。
「うああああ!!」
 激痛が走り、シュウは絶叫した。正体を確かめる間もなく刃物らしきものは抜かれ、左手を蹴られてシュウは下の階に背中から転落する。
「がっ」
 背中をもろに打ち息が詰まった。左手の痛みと背中の痛みにのたうち回りながら、涙でにじんだ視界を上に向ける。上階には武装した男が一人、槍を手にして無感動にシュウを見下ろしていた。覆面をしているせいで顔は分からない。
(お前は何者だ)
 そう叫びたかったが、口から出てきたのは情けない呻き声だけだった。男がシュウに背を向け、マーガレットが追い詰められていた通路の奥へ向かう。そちらにはもう一人同じような服装をした覆面の男がおり、ぐったりと意識を飛ばしたマーガレットを肩に担いでいた。
「や……めろ……」
 左手の傷を押さえながらシュウはふらふらと立ち上がる。男たちはもはやシュウのことなど意に介さず、マーガレットを抱えて去ろうとしていた。シュウの方には敵意を剥き出しにしたモンスターが近付いてきている。敵を目の前にして、このままみすみす逃してしまうのか。
 未練がましく男たちの背中を見送っていたシュウの目に、槍を持った方の男が振り向く動作がスローモーションで映った。男は振りかぶってホールの中央へ何かを投げる。シュウの視線は自然とその何かに吸い寄せられた。それは握りこぶしくらいの大きさの丸い玉だった。
 次の瞬間、ものすごい光と熱がシュウの目を灼いた。全身に叩きつけられるような衝撃を感じる。息ができない。何も見えず、何も聞こえない。自分が立っているのか倒れているのかも分からない。シュウはただ絶望的な気持ちで、止められなかったのだ、と悟った。


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