第十章:炎上



 小鳥のさえずりが聞こえてくる。こんな平和な音を耳にするのは久し振りだ。もう何日も山の中にいたというのに、動物の鳴き声はおろか気配すら感じたことはなかった。小鳥の声というのはこんなにも人の心を穏やかにするものだっただろうか。
 ぼんやりそんなことを考えていたシュウは、自分が柔らかいシーツに包まれていることに気付いた。脳が一気に覚醒する。がばりと勢いよく起き上がったシュウの目に飛び込んできたのは、見慣れたザーラの町の自分の部屋だった。しばし呆然とする。
「嘘……だろ」
 ベッドの中のシュウはパジャマを着ていた。学校の制服はいつもと同じように壁際のコート掛けに引っ掛けてあり、杖もベッドに立てかけてある。窓の外からは穏やかな日差しが差し込んでいる。シュウは眩暈がした。ここは五月九日のザーラだ。ここ最近は夢をみていなかったのに、何故またこのタイミングで夢の中へ戻ってきたのだろう。
 シュウは頭を抱えた。つい先程までシュウは萩谷と対峙していたのだ。一か八か崖下へ飛び降りて谷川へ飛び込み、その後の記憶はない。こんな大変な時にまさか眠っているというのだろうか。それとも気絶しているのか。人間は気絶している時も夢を見ることができるものなのだろうか。いや、そんな事はどうでもいい。一刻も早く目を覚まさなければならない。怪我をしている浅葱のことが心配だ。それに、萩谷がもしあの洞窟から逃れていたら、マーガレットを追ってくるに違いない。
 だが、どうすれば目を覚ますことができるのだろうか。この五月九日の夢は何度も見ているが、目を覚まそうとしたことはない。そもそも、これが本当に夢だとまだ決まったわけではないのだ。
 とりあえず、ただ祈っているだけでは何も起きないらしい。シュウはベッドから下りるとパジャマのままで愛用の杖を手に取った。手が少し震えている。この杖を自分に向けて、風の魔術で首を胴体から切り離せば、ミサギ国の自分は目を覚ますだろうか。だって、目を覚ますのはいつもシュウが死ぬ時だ。
 淡い光がシュウを取り巻き渦を巻く。杖の先をゆっくりと自分の顔に向ける。シュウはごくりと唾を飲み込んだ。でも、もしもここが夢の中でなかったら。ミサギ国の方がリアルな夢だったとしたら。
「シュウ、そろそろ起きなさいよー」
 階下から聞こえた母親の声に驚き、シュウは杖を取り落とした。光が霧散していく。心臓がばくばくと大きな音を立てていた。
「シュウー?」
 シュウは答えられずに床にへたり込んだ。少しも動いていないのに、全身がいつの間にか汗でびっしょり濡れている。息が苦しい。
 たんたん、とリズミカルに階段を昇る音がする。部屋の入り口から母親がひょっこりと顔を出した。返事をしないシュウに焦れて様子を見にきたようだ。
「何やってるの、あんた」
 シュウは油の切れた機械のように、ぎしぎしとぎこちなく母親の方を向いた。何か言わなければ、うまく誤魔化さなければと思うものの、何も思い浮かばない。
「具合でも悪いの?」
 呆れ顔だった母親の表情に心配の色が混ざる。シュウは首を横に振った。違うんだ、母さん。具合が悪いのは、手当てをしなくちゃいけないのは、僕じゃない。
 シュウは涙腺が緩みだしたのに気付いた。いけないと思うが止められない。こんな泣き方まるで子供じゃないか。だが今のシュウは子供みたいなものだ。無力で何もできない、誰も助けられない。事態の大きさにただ立ちすくむしかできない。
「シュウ」
 母親はシュウの傍らに膝をつき、シュウの背中をそっと撫でた。その手の温かさがあまりに心地よくて、シュウはもう涙をこらえることができなかった。突っ伏した床の上に涙のしずくがぽたぽたと垂れる。唇を噛みしめて、鳴き声を上げることだけはどうにかこらえた。喰いしばった歯の隙間から嗚咽が漏れる。母親はシュウが泣き止むまで黙って背中を撫で続けていた。
「何かあったのね」
 ようやく涙が止まり、気まずそうに顔を上げたシュウに母親が静かに声をかける。それは質問というよりもほとんど独り言だった。シュウは俯く。
「それはお父さんにも言えないこと?」
 言えない、と今までずっと思っていた。こんな話誰も信じてくれないだろうから。母親の顔を上目遣いに見上げる。母親は思った以上に真剣な顔をしていた。シュウの様子からただ事ではないと察しているようだ。だが、それでもシュウがこのザーラの町の滅亡なんて大それたことを言いだすとは予想していないだろう。もしこれまでの事を全部打ち明けたら、頭がおかしくなったと思われるだろうか。それとも信じてもらえるだろうか。
「お父さんじゃなくてもいいわ。あんたの仲良しの子は? ほら、今日も一緒に試験を受けるんでしょう。あの子にも言えないの?」
「……ディック?」
 シュウは瞬いた。その名を口にしたのは随分久し振りのような気がする。
「誰でもいいのよ。ただ、あんた一人でどうしようもできないことなら、泣いてないで助けを求めなさい。それとも、誰にも言えないような悪いことをしたの?」
 母親の顔が一転、般若に変わる。シュウは慌てて否定した。
「し、してないよ! ただ、ちょっと……信じてもらえないかもしれない」
「そんなの言ってみなくちゃ分からないじゃないの」
 母親は笑った。冗談だったらしい。彼女は息子の背をぽんと叩き立ち上がった。
「ほら、着替えて顔を洗ってらっしゃい。ごはんできてるわよ」
 先程の真剣な空気はどこへ行ったのか、鼻歌でも歌いだしそうないつもの調子で母親は階段を下りて行った。シュウも立ち上がり、できるだけ急いで制服に着替える。思い切り泣いたことで頭は少しすっきりしていた。浅葱のこと、ミサギ国のことは気にかかるが、今のシュウにはどうすることもできないのだ。これが夢ならいずれは覚めるだろう。向こうのことはそれから頑張るしかない。今すべきことは、今日このザーラの町で起こるはずの大事件を未然に防ぐことだ。
 シュウは一気に階段を駆け下り、ダイニングへ飛び込む。テーブルについていた父親が目線を上げた。
「試験があるんじゃないのか。時間は大丈夫なのか」
「父さん」
 ダイニングテーブルに手をつき、シュウはまっすぐに父親の視線を受けとめる。
「大事な話があるんだ」
「……分かった。座りなさい」
 ダイニングテーブルには既に温かい朝食が用意されていた。たっぷりジャムをのせたトーストとミルク。この平和な食卓をまた家族で囲めるように、できるだけのことをしなくちゃいけない。
 シュウは五月八日の夜に眠ってから最初にミサギ国の牢屋の中で目を覚ましたこと、そこから今に至るまでの経緯をかいつまんで話した。シュウ自身何が起こったのかよく分かっていない部分もあり、あやふやな説明にならざるを得ない箇所もあったが、父親はただ黙って話を聞いてくれた。母親はキッチンに引っ込んでいて話を聞いているのかどうか分からなかった。
 一通り話をする中で、シュウは萩谷の語った、マーガレットが妖異つまりモンスターだということは口にするのを止めた。ハインリッヒ王国の人間にとって崇めるべき存在である聖女をいきなりモンスターだなんて言われても信じる人はいない。シュウにも本当の事かどうかまだ判断がついていないのだ。
 現在に至るまでの話を聞き終えると、父親は難しい顔で腕を組み低く唸った。シュウはそそくさとテーブルを立つ。
「そういう訳だから、父さんたちはアイシャとカナを連れて、できるだけ遠くへ逃げてほしいんだ」
「待ちなさい。お前はどうするんだ」
「僕は工場に行くよ。止めないでね、父さん。急がないと間に合わない」
「落ち着きなさい。避難するにしても、分からないことが多すぎる。その毒の霧というのは、工場の爆発からどれくらいで町に広がるんだ」
 玄関へ向かっていたシュウははたと足を止め、父親を振り返った。
「……信じてくれるの」
「お前はそういう嘘をつく子じゃない」
 父親の真摯な言葉に胸がじわりと熱くなるのを感じる。なんとなく気恥ずかしくなって、シュウは俯き父親の質問について考えた。
「毒の霧は、僕は直接見たわけじゃないんだ。これまでに見た五月九日の夢ではいつも工場の爆発に巻き込まれて目を覚ましていたから。でも、確か……ミサギ国の人が言ってた。五月九日の夕方ごろ、ザーラの方面の空が赤く染まって、それで様子を見に行ったら、毒の霧が立ち込めていて近付けなかったって」
「夕方ごろ?」
 父親が眉をひそめる。
「お前の話では、工場で爆発が起こるのは昼過ぎのはずだ」
「え。あ、そうか……」
 シュウは息を呑んだ。父親の言う通りだった。一番最初に見た夢では、士官学校の試験の帰りに爆発に巻き込まれた。試験開始時刻は正午だったから、試験にどれだけ時間がかかったとしても夕方まではまだ大分時間があったはずだ。
「とにかく、私は討伐隊の知り合いに声をかけておく」
「あ、う、うん。それじゃあ、僕は……」
「シュウー! いるかー!?」
 戸口からディックの声が聞こえてきた。随分と慌てている。シュウは壁にかかった時計に目をやった。もうすぐ試験の受付時間だ。そういえばディックは遅刻してくるのだったか。
「今行く!」
 シュウはディックに叫び返すと、父親の方を振り返る。
「ごめん父さん、僕行くよ!」
「気をつけなさい」
 うん、と頷きシュウは玄関のドアに手をかけた。続く言葉は声に出さず口の中で呟く。父さん、ありがとう。
 ドアを開けると、ディックがいらいらと門の前で歩き回っていた。家から出てきたシュウを見つけ駆け寄ってくる。
「何やってたんだよ! もう時間ないぞ」
「自分だって寝坊したくせに。って、そうじゃないんだ。ディック、ちょっと話が」
「喋ってる暇があったら走れ!」
「あっ、ちょっと、待って!」
 ディックは話を聞かずに走り出してしまった。シュウも慌てて後を追う。前を行くディックは工場へ忍び込む抜け道を目指している。ひとまず行くべき方向は同じだが、どう説明すれば分かってもらえるだろうか。
「ちょっ、ディ、ディック、待って」
 考えながら走っていたせいか、ディックのスピードが速いせいか、すぐに息が上がってしまった。工場の外壁に沿って立つ大木の前で立ち止まり、上体を折って荒い息を吐く。
「ほら、行くぞ。ここから中に潜り込めるんだ」
「僕、行かない」
「何言ってるんだよ。普通に行ったってもう間に合わないぞ」
「そう、じゃ、なくて」
 シュウは大きく息を吐いて呼吸を整えると、キッと顔を上げた。
「訓練場には行かない」
「はあ?」
 ディックの表情が険を帯びる。シュウは怯まずディックを睨み返した。
「試験は受けない。この町はもうすぐそれどころじゃなくなるんだ。ザーラは滅ぼうとしている」
「は……」
「誰も気付いていないけれど、僕だけはそれを知っているんだ」
「お前、何言ってるんだ」
「お願いだよ、ディック。一生のお願いだ。僕のこと信じて」
 二人の間に一瞬沈黙が流れる。それを打ち破ったのはディックの深いため息だった。
「まったく……何言ってんだかさっぱり分かんねえよ。仕方ないな。分かったから説明しろ。しょうもない話だったらぶっ飛ばすからな」
 ディックがにやりと笑う。シュウにはその笑みがやけに頼もしく輝いて見えた。


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