第七章:逃げられない悪夢 --4
いざ魔の山へ向かう前に、シュウたちは浅葱の傷の手当をするため屋敷の中の医務室へ向かった。窓には幕がかかり、外の光が入らないその部屋は燭台に灯されたささやかな火によって照らされている。壁には一面薬棚が作り付けられており、薬草の独特の匂いが漂っていた。
部屋の奥の方には寝台がいくつか並べられており、そこにも目隠し用に幕がかかっている。シュウたちの気配に気付いたのか、幕をかき分けて牡丹が顔を出した。
「松葉は?」
浅葱が小声で尋ねる。
「問題ありません。しばらく寝かせておきます」
「そっか」
どうやら大事ないようで、シュウはほっとため息をついた。牡丹が浅葱に座れ、と合図をし、大人しく腰かけた彼の傷の治療を始める。シュウは聖女と共に適当な椅子に座り、その様子を見学した。牡丹の手から淡い緑色の光が発され、浅葱の傷を塞いでいく。彼女の力は軽い傷であれば治してしまえるようだ。ハインリッヒ王国にも似たような力を使える者はいた。治癒術を扱う魔術師だ。彼らもシュウと同じように杖を用いて術を使うため、牡丹のように道具も何も使わずに人を治療することはできないが。
「アサギさんとボタンさんは、魔術師なんですか」
シュウは小声で尋ねた。浅葱と牡丹は顔を見合わせる。牡丹は黙って首を傾げ、我関せずといった感じに治療を続ける。シュウの質問には浅葱が答えてくれた。
「違うで。何でそう思ったん?」
「炎を操ったり、人の怪我を治したりできるのは、ハインリッヒ王国では魔術師だけだから」
「なるほど」
浅葱は頷き、少し考え込んだ。胸元に手を差し入れ、深い赤色の結晶を取り出す。
「結晶については前に話したよな。生まれつきその人に備わっている力を形にしたものが結晶や。おれには生まれつき炎の力が宿っていた。だからこの結晶には炎の力が封じ込められてる。結晶の力を使うことでおれは炎を操ることができる。牡丹さんも同じように癒やしの力を扱うことができる」
ふと、牡丹が浅葱を睨んだようにシュウには見えた。以前松葉があまり詳しいことを聞くなと怒ったことを思い出し、シュウはこっそり冷や汗をかく。浅葱は素知らぬ顔でさっと結晶をしまい込み、話を続けた。
「シュウくんの故郷、杯律国では結晶化なんてしてないやろ」
「うん」
「力を結晶化する代わりに、専用の杖を使って力を引き出してるんやろうな。国が違っても同じ人間や。理屈は一緒やろ。杯律国では杖を使って力を発揮していて、その力を魔術を呼んでいる。で、御鷺国では結晶化することで力を発揮する。魔術に対するような特別な呼び方はないけどな」
「ふうん……」
シュウは頷き、胸元に手を当てた。内ポケットに入れた結晶に服の上から触れる。結晶はあれほど激しい光と熱を発していたのが嘘のように、シュウの体温と同じ温かさでそこに収まっていた。あの時杖がなくても炎の魔術が使えたのはこの結晶のおかげだということだろうか。シュウはてっきり、浅葱の刀や松葉の短槍のような武器が杖の代わりになったのだと思っていたのだが、違っていたらしい。シュウは足元に置いた短槍に視線を落とした。血と泥にまみれた短槍は汚れきっていたが、あれほどの炎の渦の中心にいたわりには焦げ跡などはついていなかった。
「アサギさん、僕、マツバさんの槍、もうしばらく借りてちゃだめかな」
「ん?」
「だって、これから魔の山に登るんでしょう。僕らを狙う妖異の中に飛び込んでいくんだから、僕だって戦わなきゃ」
「うーん」
浅葱はちらりと牡丹を見上げた。牡丹は塞ぎきれなかった傷に包帯を巻いてやりながら、抑揚のない声で答える。
「丸腰で行くよりは良いのではないですか」
「まあ、牡丹さんがそう言うなら……でもシュウくん、あんまり無茶したらあかんで。おれたちと違ってシュウくんは結晶の扱いに慣れてないんや。さっき妖異を倒した時も力を使って正気を失ってたって柳から聞いたで」
「う、うん」
シュウは頷いた。確かに、先程は追い詰められていたとはいえ、正気とは言えなかった。自分が何をしたのかも正確には分かっていない。妖異を倒せたから良いものの、敵前で白昼夢など見ていては命がいくつあっても足りないだろう。シュウは短槍を握りしめ気を引き締めた。
「シュウ……」
シュウの雰囲気が変わったことで不安になったのか、隣りにいた聖女が身を寄せてきた。シュウは笑顔を浮かべハインリッヒ語で彼女を慰める。
「大丈夫ですよ、聖女さま」
「ごめんなさい、シュウ。わたしが……わたしの力が及ばないせいで、あなたに大変な思いをさせてしまっています」
「聖女さま……」
沈鬱な表情で聖女はうつむいてしまった。シュウが狼狽する。
「ねえ、聖女さま」
浅葱が滑らかなハインリッヒ語で会話に割り込んだ。聖女が身を引く。彼がハインリッヒ語を話せることは彼女ももう分かっているはずなのだが、話しかけると怯んでしまうようだ。
「昨日、あなたは名前がないと仰っていましたが、本当ですか」
「は、はい」
「今まで聖女としか呼ばれたことがないと?」
「……はい」
「ふむ」
牡丹の治療が終わったようで、浅葱は椅子から立ち上がりシュウと聖女の前に立った。牡丹は後ろで器具の片付けをしている。
「じゃあ、シュウくん、おれたちで聖女さまの名前を考えよう」
「へ?」
思いがけない提案に、シュウは素っ頓狂な声を上げた。奥で松葉が寝ていることを思い出し、慌てて口を閉じる。
「皆に聖女さま聖女さまって呼ばれて崇められているから、そうやって自分の力で何とかしなきゃいけないと思っちゃうんですよ。ザーラの町では聖女さまかもしれないけれど、今ここでは異国に迷い込んだただの女の子です。そう考えたら少しは気持ちも軽くなるんじゃないですか」
浅葱は聖女の顔を覗き込んでにっと笑った。聖女は思いがけない展開に面食らいぽかんと口を開けている。シュウも同様だったが、彼女より早く立ち直った。浅葱は少しでも彼女の緊張を解そうとしているのだろう。
「名前……何がいいかな」
シュウが呟くと、聖女が驚いた顔をそちらへ向ける。浅葱は彼女に構わず話を進めていく。
「女の子だから、花の名前がいいなあ」
「花の名前か」
シュウは聖女を見つめ考え込んだ。聖女はおろおろと彼を見つめ返し頬を赤らめた。シュウはそれに気付かず彼女の観察を続ける。長い金の髪に金の瞳は彼女の特徴の一つだろう。黄色い花の名前がいいだろうか。――いや。シュウは白一色の聖女の衣装を見て、最初に彼女と会った時のことを思い出す。寝台の上に寝かされた彼女を見た時、その白い装束が広がって、まるで白い花びらのように見えたのだった。それはまるで、ちょうど今の時期に故郷で咲き始める白い花のように。
「……マーガレット」
えっ、と聖女が小さく声を上げた。
「マーガレット。白い花びらに黄色い花芯の可愛い花ですよ。ハインリッヒ王国では人の名前にも使われるし……どうかな」
「おー、いいね。どう、聖女さま」
きょとんとしていた聖女は口の中でマーガレット、と小さく繰り返す。その口元がほころんだのに気付き、シュウと浅葱は顔を見合わせて笑った。
「決まりですね。改めてよろしく、マーガレット。おれは浅葱です」
「は、はい。よろしく、お願いします」
浅葱が差し出した手を、聖女改めマーガレットがそっと握った。
森の中を進んでいくうち、道は少しずつ登り坂になっていった。頭領の話では、彼らの里は山のふもとにあるとのことだった。山から降りてくる妖異を人里に近付けさせないために防衛戦を張っているのだと。ならばこれから登るのは、恐らく魔の山そのものではなく、その手前の山脈だ。ミサギ国とハインリッヒ王国の間にそびえる険しい山脈は、そのまま国境として大陸を横断し、大陸の中心にある魔の山にぶつかるのを避けるようにぐるりとその周りを取り囲むのだ。ミサギ国からでもハインリッヒ王国からでも、魔の山へ向かうにはまずその手前の山脈を抜けなければならない。とは言っても、自ら好き好んで魔の山に登る人間などいないだろう。そこは妖異の巣窟だからだ。
シュウはまた浅葱の背中に背負われていた。最初はシュウも自分の足で歩くと主張したのだが、それでは遅すぎると却下された。実際、浅葱の走る速さは相変わらず人を背負っているとは思えないほどだ。シュウにはとてもついていけないし、マーガレットにはもっと無理だろう。そのマーガレットは柳に背負われていた。白い衣装が風になびいてひらひらと揺れている。後ろから見ていると、生い茂る木々の枝に衣装が引っかかりそうでひやひやする。彼らの先頭には、紺色の短い髪と瞳を持つ壮年の男が走っていた。萩谷と名乗った彼は穏やかで優しそうな男に見えたが、まだほとんど話していないので実の所はどうなのか分からない。浅葱とシュウ、柳とマーガレット、そして萩谷の五人が魔の山を目指す面々である。
山へ入ればすぐにでも妖異が襲ってくると思っていたのだが、予想に反してなかなか姿を表さなかった。浅葱の話によると、隠れ里の人たちが何組か別行動で山に登り、妖異を引きつけてくれているらしい。おかげで妖異に取り囲まれて動けない、というような状況は避けられていた。たまに包囲網を抜けた妖異が向かってくることはあったが、先頭で最も身軽な萩谷があっという間に倒してしまう。彼の武器は松葉と同じような短槍だ。と言っても、わりと大柄な彼の体格に合わせてあるのか、松葉のものよりも長めに作られているようだ。その槍が翻るたびに、妖異たちは命絶え次々と倒れていく。萩谷はかなりの手練のようだ。ひょっとすると浅葱以上に強いかもしれない。彼がいたおかげで、浅葱と柳はほとんど足を止めることなく走り続けられていた。
彼らが足を止めたのは、日が暮れ周囲がもう少しで完全に闇に閉ざされる頃だった。
「今夜はここで休もうか」
先頭の萩谷がそう言って振り向く。木々の間に、ちょうどいい具合に開けた土地ができている。
「マーガレット、ここにモンスターが近付けないよう結界を張ってくれますか」
柳の背中から下りたマーガレットに、浅葱がハインリッヒ語でそう頼んだ。マーガレットは顔を曇らせる。
「あの……結界を張ることはできますが、今のわたしが力を使えば、かえってモンスターを引き寄せてしまうかもしれませんよ」
「大丈夫、その時はその時ですよ。先日だって狼のモンスターを追い払うことはできたでしょう。一晩夜を明かせれば充分です」
「……分かりました。やってみます」
マーガレットは顔を引き締めて頷いた。その様子を眺めていたシュウは萩谷に肩を叩かれる。
「シュウ君、きみは火をおこすのを手伝ってもらえるかな」
「あ、はいっ」
シュウは萩谷と二人で焚き火をするための枯れ枝を集めることになった。森の中に分け入って適当な枝を探すが、新緑の季節である五月の山にはあまり枯れたものが落ちていない。それでも、探していくと倒木の陰や大木の根元などに、去年の雪で腐らずに残ったものがいくつか見つけられた。萩谷はそういうものを探すのにも手際が良い。きっと野営することにも慣れているのだろう。シュウは関心しきりだった。
「きみは炎を操って妖異を倒したと聞いているが」
萩谷がその話題を振ってきたのは、あらかた焚き火の材料を集めきり野営地に戻る道すがらだった。
「柳は力が暴走したように見えたと言っていたが、実際のところどうなんだい」
「ええと……あの時は、普段なら出せないような火力が出ましたし、多分暴走したのだと思います。炎の魔術だけじゃなく、水や風の魔術でも、あんな強い力を使えたことはありません」
「ほう、炎も水も風も使えると? それはすごい」
思わぬところで萩谷に感心され、シュウはきょとんと彼を見上げた。
「浅葱たちの戦いを見ただろう。私たちは通常、一つの属性しか扱うことができないのだ」
へえ、とシュウは頷いた。そう言われてみれば、浅葱は炎をまとった刀で戦っていたし、松葉はずっと風に関する術を使っていた。二つの国の間には魔術の使い方以外にもいろいろと違いがあるらしい。
野営地に戻り、集めてきた枯れ枝を積み上げると、浅葱がすぐに火をつけてくれた。普段ならシュウも焚き火をおこすくらいは魔術で簡単にできるのだが、先日の恐ろしいほどの火力を思い出すと、魔術を使うのに少し躊躇してしまう。
マーガレットの結界は既に張られており、疲れてしまったのか彼女はもう眠りについていた。あどけない寝顔は穏やかなもので、見ていると少し安心する。シュウは浅葱にもらった干し芋をかじり簡単な食事を済ませると、交替で見張りをするという彼らに甘えることにして、早々に眠りについた。
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