第七章:逃げられない悪夢 --3
シュウは炎の中にいた。肌を焼く激しい熱に肺の中まで蝕まれ、うまく息ができない。焦げくさい臭いが辺りに充満している。空をも焦がさんばかりの炎と共に黒煙が上がる。耳鳴りがうるさくて何も聞こえない。
目の前に松葉が倒れていた。気を失ったまま動かない彼の傷からは今も出血が止まっていない。辛うじて炎に呑まれることなく残った草地に血の染みができていた。逃げなければ。ふとそのことに思い当たり、シュウは松葉へと手を伸ばした。妖異から逃げなければいけないのだ。浅葱に託されたのだから、ちゃんと守り通さなければ。
だが、シュウの意思に反して、体はぴくりとも動かせなかった。口を開いても、熱された空気が入ってくるばかりで、どれだけ力を込めても喉は震えてくれない。動かすことができるのは瞼だけだ。
ひとつ、ふたつ、瞬きをする。炎に呑まれ黒焦げになった木々の残骸が、ザーラの町の瓦礫に変わっていく。倒れた松葉の体もいつの間にか瓦礫の下敷きになっていた。いや、あれは松葉ではない。女の子だ。夢の中で助けることができなかった少女だ。少女の下には血溜まりが広がっている。炎よりもずっと赤い色だ。
「シュウ!」
頬を叩かれ、シュウは我に返った。泣きそうな顔をした聖女がシュウの顔を覗き込んでいる。
「しっかりしてください!」
がくがくと肩を揺さぶられる。シュウは首を振り、改めて周囲を見渡した。炎はいつの間にかほとんど消えていた。シュウを中心に渦を巻くように炎の爪痕が草の上に黒く残っている。黒焦げになった近くの低木にはまだ火種がくすぶっていた。
松葉は草の上に倒れているが、その傍らには牡丹がついていた。傷口にあてがわれた彼女の手からは淡い緑色の光がじわりと漏れている。以前シュウに施してくれたものと同じ、傷を癒やす魔術のようなものだろう。シュウはほっと息をついた。
妖異がいたはずの場所には、黒い大きな何かがあった。最初見た時はそれが何か分からなかったが、それは首から上を失った妖異の黒焦げ死体だった。妖異の体はもともと黒かったが、毛並みとは違う焦げた色をした死体からは煙が上がっている。首は少し離れたところに転がっていた。その近くに、刀を持った男の人が立っている。浅葱ではない。もう少し背が高く、長髪を一つにまとめて結わえている人だ。
「シュウ、大丈夫ですか」
「あ、はい。大丈夫です」
心配そうな聖女に声をかけられ、シュウは頷いた。聖女は黙ってうつむき、何やら手を動かしている。シュウが目線を落とすと、彼女の手は短槍を握りしめたままのシュウの手を撫でていた。そこで初めて、シュウは手の感覚がなくなっていることに気付く。両手は握りこぶしになって固まっており、聖女の助けがあってもなかなか槍から外れてくれなかった。
「貴様がやったのか」
長髪の男の人に声をかけられ、シュウは顔を上げた。声を聞いて彼のことを思い出す。彼は頭領のそばに控えていた人だ。シュウが頭領に失礼なことを言ってしまった時に、激高していた護衛の人。確か名前は柳と呼ばれていた。
聖女が不安そうに柳の方を振り返った。彼が話しているのはミサギ語なので、彼女には意味が分からないのだろう。
「妖異にとどめを刺したのは私だ。だが、私たちが来た時には既に瀕死だった」
「……分かりません」
シュウは素直に答えた。魔術を使おうとして、炎が辺りを包んだところまでは確かだが、その後はどうなったのか定かでない。状況を考えると、シュウの炎が妖異を、辺り一面を焼いたことは明らかだ。それでもシュウが自分がやったのだと言えないのは、炎の威力があまりに強すぎるからだ。炎を操る魔術で出せるのは、せいぜい人間の頭くらいの大きさの火の玉だ。どんなに強い魔力を持つ魔術師でも、呪文一つで周囲を焼き払うような火力は出せないものだ。そんなことができるなら、それはもはや魔術師の領域を超えている。恐らく柳も同じことを考えているのだろう。ハインリッヒ王国の魔術に明るくなくとも、その辺りは察しがついているに違いない。
「ごめん、遅くなった。……何があったん?」
追いついてきた浅葱が呆然と辺りを見回す。シュウは浅葱と目が合ったが、どう説明すればいいか分からずうつむいてしまった。代わりに柳が話し出す。
「その娘が、お前たちに危険が迫っていると言うから、牡丹さまと共に来てみればこの通りだ」
「柳、杯律語さっぱりなくせに、よう会話できたなあ」
「ほとんどは牡丹さまだ。それでもあまり意思の疎通が取れないと仰っていたが。ともかく、その娘はその少年の居場所が分かるらしい。その娘の言う方向に進んでみたところ行き先で火柱があがり、ここに辿り着いたというわけだ」
柳は不機嫌そうに腕を組んだ。シュウは聖女にハインリッヒ語で尋ねてみる。
「聖女さま、僕たちを助けに来てくれたんですか?」
聖女はうつむいた。
「わたし……何もできなかった。ごめんなさい」
「そんな、謝ることないです。助かりましたよ」
聖女の手はまだ解れていないシュウの手を撫でてくれていた。シュウは慰めではなく本心からそう言ったのだが、聖女の顔は晴れないままだ。
「だって、あの二人を聖女さまがここに連れてきてくれたんでしょう。どうして僕たちがここにいるって分かったんですか?」
「それはシュウが強い力を持っているから」
当然のようにそう返され、シュウは怯んでしまった。強い力というのは、やはりあの炎、眩しく激しい光のことを指すのだろう。それは分かるが、シュウにはそんな特別な力など何の心当たりもないのだ。
シュウの手からようやく短槍が外れ、草の上にとさりと落ちた。聖女は祈るような姿勢でシュウの手を握りしめる。
「お願いです。シュウ、あなたの力を貸してください。わたしだけではもう、どうにもできないの」
「え……えっ」
涙目で見上げられ、シュウは大いにたじろいだ。
一行は場所を頭領の屋敷へと移した。負傷した松葉は牡丹が別室へと連れていき、柳は追撃してくるであろう妖異を討つため森へ出ていった。屋敷へ入ったシュウ、浅葱、聖女の三名は、最初に頭領と面会した広い座敷へと向かう。座敷の中には頭領と、一人の老人が座していた。
「ご苦労さま。皆、無事なようで何よりですわ」
浅葱は傷だらけ、シュウと聖女は転んだり座り込んだりしていたせいで服が泥だらけという散々な風体なのだが、頭領は顔色一つ変えずにそう言って微笑んだ。松葉の怪我のことを思うとシュウは少し複雑だった。三人が頭領の向かいに腰を下ろすと、脇に控えた老人が口を開く。
「状況を報告せよ」
「はい」
答えたのは浅葱だ。
「本日未明より再度妖異の襲撃が始まりました。妖異どもは結界を破り、里の内部まで侵入しております。先日までと同じく、こちらの二人が狙いだと思われます。先日までは狼の妖異がほとんどでしたが、今日は狼を一体も見ておりません。代わりに豹か虎のような見慣れぬ中型の妖異が現れました。正直に申し上げて昨日までよりも手強いです。幾人か負傷者も出ております」
「厄介ですわね。……シュウさん」
「はい」
頭領に水を向けられ、シュウの背筋がぴんと伸びる。
「そちらの彼女に尋ねてください。昨日の『祈り』が失敗したのかどうか。今のこの状態に心当たりはあるか」
シュウは頷き、隣で大人しく座っている聖女にハインリッヒ語で頭領の質問を伝えた。聖女は少し考えて、皆の注目から逃げるように見を縮めながら口を開く。
「おそらく、わたしの力が足りなかったのだと思います。わたしたちを狙って近くに来ていたモンスターには祈りの力が効いても、遠くの魔の山に住まうモンスターまでは力が及ばなかったのではないかと」
シュウが聖女の言葉をミサギ語に翻訳すると、頭領が首を傾げた。
「魔の山とはなんでしょうか」
「魔の山は、この世界の中心にそびえる世界一高い山です。ハインリッヒ王国では、全ての妖異が魔の山で生まれると言われているんです」
「なるほど。ここ御鷺国ではあの山は神の山と呼ばれていますわ。山中には妖異が住まい、頂上には神のおわす、人が踏み込んではならない地です。どちらの国でも、近寄るべきでないという点では同じですね。その踏み込んではならない領域に住まう妖異どもが、未だにあなた方の命を狙っていると?」
シュウの通訳を挟んで聖女が頷く。
「そうだと思います。今のわたしの力だけでは、魔の山に住む全てのモンスターを鎮めることは難しいようです。だから、シュウのちからを借りたいのです」
「えっ、僕?」
「今のあなたが甚大な魔力を持っていることは先程の戦いで分かっていると思います。魔の山へ登り、シュウの魔力を用いてわたしの祈りの力を増幅することができれば、魔の山のモンスターを鎮めることができるはずです」
「僕の魔力を?」
そんなことができるのか、という疑問をシュウは飲み込んだ。シュウを見上げる聖女は真剣そのものの表情をしていた。いい加減な気持ちで言っているわけではないのだろう。だが、平地にいてもこれだけの妖異に追われるというのに、妖異の巣窟である魔の山に登るなんて現実的な話ではない。
シュウが考え込んでいる間に、浅葱の通訳を介して頭領が質問する。
「昨日のように、この屋敷で行うわけにはいかないのですか」
「魔の山全体にわたしの力が届かない可能性が高いと思います」
「もう一つ、質問してもよろしいですか」
「はい」
頭領の整った唇から物騒な言葉が飛び出す。
「もしあなた方二人が妖異に殺され喰われたとして、それで妖異どもは鎮まるでしょうか」
シュウはぎょっと顔を上げた。さすがの浅葱も頭領の言葉をそのまま訳すべきかどうか迷ったようだったが、結局直訳に近い表現で質問を聖女に伝える。聖女は少しだけ顔つきを固くした。
「……分かりません。神の力を利用しようとしたザーラを滅ぼし、そこに暮らしていた人間を全て殺せば、モンスターは満足するのかもしれませんが……わたしたちが死ねば、次の目標を探すだけかもしれません。そうなってみなければ、どちらになるか現状では何とも言えません」
「そうですね」
頭領は頷いた。彼女が脇に控えた老人に目をやると、彼も頷き返す。
「分かりましたわ。我らであなた方二人を神の山へとお連れします。そこで妖異どもを鎮める儀式を行ってください。我らには妖異と戦う術はあれど、妖異を鎮める術を持つ者はいません。あなた方に賭けるしか方策はないようです」
聖女が不安げにシュウを見つめている。シュウは頷くしかなかった。魔力を用いて聖女の力を増幅させるなんて言われても、シュウには雲を掴むような話だ。それでも頭領の言う通り、賭けるしかないのだろう。このまま妖異に追われ続けていればいつかは喰い殺されてしまうのだ。
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