第七章:逃げられない悪夢 --2
シュウと松葉を覆っている緑色の光は、時間が経つにつれて少しずつ弱くなっているようだった。そしてそれと比例するように松葉の顔色がどんどん悪くなっていく。シュウは後ろではらはらしながら妖異と睨み合う彼の様子を見守っていた。傷口を縛ったハンカチは血でぐっしょりと濡れている。加勢できるものならしたいが、ハインリッヒ王国の魔術師は杖がなければ魔術を扱うことができない。シュウももちろん例外ではない。
緑色の光が一際弱まった隙をついて、妖異が一気に距離を詰めてきた。松葉は球形の光の外へ出てそれを迎え討つ。短槍が再び光をまとい、風の刃となって妖異を襲う。妖異の顔面、前足にいくつもの切り傷が走り、血が吹き出す。だが、今度は妖異も怯まなかった。狂気と化した風の中に自ら突っ込んでいき、その向こうにいる松葉に鋭い爪を叩きつける。
松葉の小柄な体は妖異の一撃で吹っ飛ばされ、草の上を勢いよく転がって止まった。手から離さなかった短槍を地面に突き立て、それを支えにして立とうとするも、足に力が入らず膝をついてしまう。妖異は前足にできた傷口を、こちらに見せつけるようにべろりと赤い舌で舐め、松葉の方へゆったりと足を向けた。シュウはぞっと鳥肌を立てる。妖異のその挙動は、猫が仕留めた獲物を嬲る時のそれに似ていた。松葉はまだ立ち上がれずにいる。妖異が一歩、一歩と松葉に近付いていく。
「やめろ!」
気付いた時には叫んでいた。シュウは自分の声の大きさにまず驚き、妖異が振り向いたことにまた驚く。止まってほしいと思って叫んだのだが、声をかけただけで本当に止まるとは思わなかった。しかし妖異は目を細めてシュウを検分するだけで動こうとしない。
シュウは震えながら足を踏み出した。とにかく松葉から妖異を遠ざけなければならない。この妖異たちがシュウや聖女を狙って襲ってきたのなら、シュウは囮になるはずだ。球形をした緑色の光の中から出ると、予想通り妖異はシュウの方へ向き直った。血にまみれた赤い牙が、舌がシュウに向けて笑みを形作る。妖異の向こうで、焦った松葉がまた立ち上がろうとして草の上に倒れるのが見えた。
早く逃げてくれ、とシュウは心の中で祈る。妖異と対峙してはみたものの、勝算は何もないのだ。ただ年下の彼が自分を守って死ぬところを見るのはごめんだと思っただけなのだ。シュウは妖異を見上げる。せめて杖があれば、魔術が使えれば、少しくらい戦えるかもしれないのに。魔術を使いたい。
その瞬間、制服の内ポケットに入れた青い結晶が熱を持った気がした。
「させるか!」
妖異の背後から、燃える刀を振り上げた浅葱が襲いかかる。妖異が反応するよりも早く浅葱の刀が首を貫いた。大きく開いた妖異の口から血と炎がこぼれ、まるで炎を吐いているかのようだ。浅葱が突き出した刀を横に薙ぐ。噴水のように血が噴き上がり、シュウは慌てて後ろに下がった。どす黒い血が降り注ぎ色を変えた地面に、首の半分ちぎれた妖異の死体が崩れ落ちる。その上に浅葱が着地し、刀を鞘に収めた。不思議なことに、刀がまとっていた炎はそれで嘘のように消え失せてしまった。
シュウは妖異の死体をぐるりと回り込んで、倒れた松葉に走り寄る。彼の右足には痛々しい裂傷ができていた。自分で止血しようとしていた松葉に変わって傷口を縛ってやっていると、彼は小さな声で尋ねてきた。
「おまえ、どうして……」
「え?」
「どうして陣の中から出た」
シュウは答えに詰まる。陣、というのはあの緑色の球形の光のことなのだろう。正直に言うと、飛び出した瞬間は松葉にここから出るなと言われたことをすっかり忘れていた。それを素直に言ってしまっていいのだろうか、と考えていると、後ろから浅葱の笑い声が聞こえた。
「まったく、無茶するなあシュウくんは」
浅葱は苦笑しながら、地面に突き刺さった松葉の短槍を引き抜く。彼も疲れ顔をしているが、松葉ほどの傷は負っていないようだ。
「もう分かってるやろうけど、また妖異が出てな。厄介なことに前よりも強くなってる。急いで頭領のところへ合流するで。見ての通りおれらだけじゃ防ぎきれん」
「う、うん」
「……置いていけ」
シュウは松葉の言葉を聞いて思わず勢いよく振り返った。松葉は視線を逸らす。
「立てない」
「ま、その足じゃなあ」
浅葱があっさりと頷いた。シュウはもう一度驚いて、慌てて二人の間に割って入る。
「待って! 置いてくなんて、そんなのダメだよ! こんな怪我してるのに!」
「シュウくんは優しいなあ」
呑気そうにそう言うと、浅葱はシュウの横をすり抜けて松葉の体を抱き上げた。松葉は黙ってされるがままになっている。
「僕ならもう走れるから! ちゃんとついて行くから、アサギさんは僕じゃなくてマツバさんを背負ってあげて」
「ほう」
浅葱がにやりと笑った。
「言うたな。じゃあ、ほんまに頭領のとこまで走るで」
「はい!」
松葉の短槍を手渡されたシュウはそれを両手で握りしめ、意気込んで頷く。松葉は何か言いたそうに浅葱を見上げたが、結局何も言わず諦めたようにぐったりと目を閉じた。
浅葱に続いて、シュウは薄暗い森の中へ分け入っていく。森の中は道も何もないように見えていたが、低木をかき分けてしばらく行くと、どうにか進んでいけそうな細い道らしきものを見つけた。草が生い茂り整備もされていないが、木々の間にわずかに通れそうな隙間がある。いわゆる獣道というやつだ。
少し走っただけでも体力の落ちたシュウは息が上がってしまったが、走れると宣言した手前弱音を吐くことはできなかった。みっともなく息を荒げ、足をもつれさせ、何度か転んで泥だらけになりながら、シュウは必死で走った。浅葱はシュウに合わせて走る速度を抑えてくれているようだったが、それでもシュウには速すぎるくらいだった。松葉の短槍は途中から杖がわりのようになっていた。
いくら走っても、屋根のように頭上を覆う木々のせいで辺りは薄暗いままだ。背の高い草木のせいで見通しも悪く、景色には代わり映えがない。浅葱の家を出てからどれくらい走ってきたのかもシュウにはよく分からなくなっていた。だんだん足の感覚がなくなってきた頃、前を行く浅葱がぴたりと足を止めた。
「……ど、どう……したの」
両膝に手をついて、ぜいぜいと呼吸を整えながらシュウが尋ねる。
「追いついてきたみたいやな」
「え……」
シュウは息を呑み耳を澄ませた。森の中は不自然な程に静まり返っており、妖異の足音も気配も何も感じない。当然ながら、周囲を見回してみてもあるのは草木ばかりだ。浅葱には気配が分かっているのだろうか。
「悪い、シュウくん。松葉を頼む」
「えっ、あ、う」
シュウは何だか分からないうちに、浅葱の腕から松葉を受け取っていた。細く小柄な彼の体は、気を失っているせいかシュウが疲労困憊しているせいか、ずっしりと重く感じる。抱き上げた腕にじわりと彼の血の水気を感じ、改めて出血の多さを思い知らされる。
「まっすぐ行けば頭領の屋敷に出る。少しでも前に進んどいて。すぐ追いつくから」
浅葱は腰に下げた刀を鞘から抜きながらそう言って、シュウの返事を待たずにもと来た方へと駆けていった。見通しの悪い森の中では彼の姿もすぐ見えなくなる。シュウはともかく言われた通りに進むしかなかった。がくがくと笑っている膝を叱咤して、道なき道をたどっていく。さすがに走るのはもう無理だ。本当は歩くのだって無理なのだが、無理でも進まなくてはならない。後方で獣の叫びらしき声が聞こえる。浅葱がシュウたちを逃がすために迎え討ってくれているのだろう。浅葱のためにも、少しでも早く先に進まなければならない。
そう思ったのも束の間、シュウは木の根に足を取られどっと地面に倒れ込んだ。両手がふさがっていたため手をつくこともできず地面に顔から突っ込む。抱いていた松葉の体も投げ出され草の上に放り出された。気を失っている彼は呻き声一つ上げない。シュウは慌てて顔を上げ、そのまま凍りついた。
――妖異と、目が合った。
先程から何度も目を合わせている黒い妖猫がそこにいた。シュウが進んでいた方向に、まるで飼い主が餌を出してくれるのを大人しく待っている猫のように、静かに伏せている。赤く爛々と輝く瞳はまっすぐにシュウと松葉を捉えていた。シュウの喉が震える。はるか後方からはまだ獣の咆哮が聞こえてくる。ということは、こいつは浅葱が見つけて戦っている妖異とはまた別の個体なのだ。声が出ない。萎えた手足が動かない。
妖異は伏せの体勢からゆっくりと体を起こした。勿体つけて一歩ずつ、のしのしとこちらへ近付いてくる。
どうすればいい。シュウの頭の中ではその言葉だけがぐるぐると渦巻いていた。どうすればこの場を凌げるだろう。松葉はもちろん動けないし、浅葱が戻ってくることも期待できない。それよりも早くシュウと松葉は妖異の腹の中に収まってしまうことだろう。もう逃げられない。助けも来ない。それなら、もう戦うしか選択肢はない。
シュウは妖異と見つめ合ったまま、近くの地面を手で探った。転んだ時に落とした松葉の短槍が手に触れ、引き寄せて握りしめる。今手元にあるもので武器はこれだけだ。魔術師であるシュウに接近戦の心得はない。士官学校で一応一通りのことは学ばされたが、剣も槍もからっきし駄目だった。今までの試験や演習は運動神経の良いディックと組んでいたからどうにか通ってこれたのだ。ザーラではそれでよかった。他の魔術師だって似たようなものだからだ。
(そうだ、僕は、魔術師だ)
妖異が近付いてきている。シュウは短槍を支えにして立ち上がった。彼はザーラの士官学校に通う魔術師なのだ。魔術が使えれば、妖異と渡り合うこともできる。シュウは荒れる息を整え、ばくばくと跳ねる心臓を抑えようと深呼吸した。杖の代わりに短槍の穂先を妖異に向ける。
うまくいく確証はなかった。ただ、浅葱が刀に這わせた炎や、松葉が起こした風の刃が、もしもシュウの扱う魔術と似ているものだとすれば。もしそうならば、この短槍でも魔術が使えるかもしれない。シュウは目を閉じ、精神を集中する。短槍を握る両手が冗談みたいに震えた。ほんの一瞬が永遠のように長く感じる。
懐に激しい熱を感じ、シュウははっと目を開けた。咄嗟に、妖異の一撃をもらったのかと思うほど強い熱だった。シュウの胸元から目を灼くように強い光が放たれている。熱も光も、内ポケットに入れた青い結晶が発しているのだ。そのあまりの激しさに、妖異すら恐れをなしたのか後ずさっていた。
(やれる)
瞬間、強く思った。理由は分からないが、今ならできる。シュウは光の洪水の中、短槍の先をまっすぐ妖異の脳天に向ける。魔術を使うときと同じように、溢れる光は渦を巻いて槍の穂先へと集まっていった。
「炎よ!」
槍を振り上げ、腹の底から叫ぶ。集まった光はその色を赤く変え、世界は真っ赤に染まった。空気が焼けるように熱い。渦巻く炎に視界を取られ、妖異の姿もすぐ近くにいるはずの松葉の姿も見えなくなった。
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