第七章:逃げられない悪夢
シュウは布団の中で目を覚ました。全力疾走した後のように息が苦しく、むさぼるように大口を開けて空気を吸い込む。粘りつく唾液が喉に引っかかり、シュウは咳き込んだ。苦しさのあまり涙がにじむ。
呼吸を整えてから、シュウは着物をはだけて胸に傷がないかどうか確認した。槍の穂先が突き出ていたところにはかすり傷一つついていない。シュウはため息をつくと、布団の中に顔をうずめた。結局今回の夢でも、真相の手がかりすら掴めなかった。爆発を止めることはできなかったし、聖女もどうなったか分からない。シュウがしたのは工場に忍び込んで無様にも捕まった、ただそれだけだ。そして、重傷者を見殺しにした。
シュウは布団を握る手に力を込める。あれはあくまで夢だから、実際にあの警備員が五月九日にどんな運命をたどったかは分からない。だが、確かにあの時、シュウは自分の心で彼を見捨てることを決めたのだ。家族のためだとか、あの状況ではどうしようもなかったとか、それは全部言い訳だ。あの極限状態で下した判断は、シュウ自身の本質を表しているような気がしてならなかった。
ここ何日か、目を覚ますとすぐに浅葱が現れて声をかけてくれていたのだが、今日は姿が見えない。閉め切られた障子戸の向こうはもうすっかり明るくなっているから、とっくに日は昇っているようだ。シュウはのろのろと布団から這い出ると、着物を脱いで枕元に置いておいた制服に着替える。ミサギ国の着物は着るのが難しく、いつも浅葱に手伝ってもらっているが、脱ぐのは簡単だ。縛ってある紐を片っ端から解いていくだけでいいのだ。
脱いだ着物をきちんと畳んで布団の脇に置いてしまうと、シュウはすることがなくなってしまった。障子戸を開けて明るい縁側に腰を下ろす。木々の合間に見える空はきれいに晴れていた。庭にも浅葱の姿はない。少し狭くなってしまった畑をぼんやりと眺めながら、シュウは彼が出てきてくれるのを待った。ミサギ国に来てから、夢の中以外で一人になるのは久し振りだ。
ただ待っていても仕方がないし、体力をつけるために少し歩こう。そう考えてシュウは立ち上がった。玄関から自分の靴を持ってきて庭に降り立つ。木々が風に揺れる音が聞こえてくる。とても静かだ。シュウが足を踏み出すと、さくさくと草を踏む音だけが響く。
ふとシュウは足を止めた。あまりに静か過ぎやしないか。
シュウの他には誰もいないようだから静かなのは当然なのだが、いつもならもっと鳥の声が聞こえてくる。浅葱の家では鶏を飼っているのだから、その鳴き声も聞こえないというのはおかしい。庭にも縁側の下にも、二羽の姿はなかった。
急にこの静寂が気味悪いものに思えシュウは家の中へ戻ろうとする。その時、シュウの足音とは別に、草を踏む音が聞こえた。森の中からだ。シュウはぎくりと足を止めた。鬱蒼と生い茂る木々のせいで森の中は暗く、足音の主の姿は見えない。なんだか嫌な予感がした。足音はゆっくりとこちらに近付いてきているのに、いくら暗いとはいえ相手の輪郭さえ見えないのだ。シュウはまっすぐ家の方に駆け戻った。足音の主が浅葱たちならばいいが、そうでなければ殺される。
シュウが走り出したのと同時に足音は速度を上げた。茂みを突っ切ってくる音が聞こえる。浅葱ではない。シュウが靴を履いたまま縁側の上に転がり込んだ瞬間、森の中から庭へと黒い獣が躍り出た。
黒一色の体毛に覆われたその獣は猫のような形をしていた。しなやかな四足の体に長い尻尾はまさに猫そのものだ。ただ、猫と違うのは、瞳が赤く爛々と輝いていること、牙と爪があまりにも鋭いこと、そしてその体の大きさだ。猫はまるで悪夢のように大きい。高さだけでもシュウの身長の二倍はある。体長はいったい何倍になるのか考えたくもない。これもミサギ国に住み着く妖異なのだろうか。
シュウは赤い瞳に睨みつけられ、腰を抜かしてじりじりと部屋の中へ後ずさる。靴を脱いでいないため畳の上に土がついてしまったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。怪しの猫が加虐的な笑みを浮かべている。にたりと歪んだ口元は、よく見るとどす黒い血に濡れていた。シュウの心臓が大きく音を立てる。喰われてしまう。
妖異がゆっくりと近付いてくると、尚更その大きさが強調されて見える。あまりにも大きすぎて、妖異の頭は軒を越えてしまっていた。そのことに妖異も気付き、なあお、と不機嫌そうに鳴き声を上げる。向こうからすれば、追い詰めた鼠が穴の中に逃げ込んだような感じだろうか。一口に丸かじりされることはないと気付いたおかげで、シュウの萎えていた手足に力が戻る。四つん這いで部屋の奥へと逃げ込み、襖を開けてできるだけ奥へと向かう。後ろ手に襖を閉めた瞬間、すぐ隣の襖が勢いよく吹っ飛んだ。妖異の鋭い爪が一突きで襖をぼろぼろに引き裂いていた。シュウはざっと青ざめ、できる限り壁際に寄って息を殺す。襖を切り裂いて畳にまで突き刺さった妖異の爪は、どこか引っかかってしまったのか抜けないようだ。突き出した腕を引き抜こうと暴れる音が襖を挟んですぐ近くから聞こえる。今のうちに反対側から逃げるべきだろうか。しかし、逃げると言っても、家の周りは森に囲まれているのだ。シュウの足では妖異から逃げ切れないだろうし、妖異が一頭だけとも限らない。シュウにはもはや祈ることしかできなかった。
「おれの家にっ」
そういうわけで、聞き慣れた声が聞こえてきた時には、シュウは安堵のあまり泣きそうになった。
「何してくれてんじゃあ!」
おどろおどろしい妖異の悲鳴が上がる。暴れた拍子に爪が外れたようで、突き出されていた腕がシュウの視界から消えた。シュウは襖をほんの少しだけ開いて隙間を作り、こっそりと外の様子を伺う。
妖異の下に潜り込んだ浅葱が腹を薙ぎ払ったところだった。夥しい量の血が降り注ぐが、浅葱は既に妖異の脚をくぐり抜け距離をとっている。普通の動物ならば致命傷だろうが、妖異はその全身に敵意をみなぎらせ、むしろ生気を増したように見えた。妖異はぐっと四足で地を蹴り、牙を向いてひとっ飛びで浅葱に飛びかかる。浅葱は跳躍してそれを避け草の上を転がる。起き上がったところに左前足の爪が迫り、ぎりぎりのところで刀が爪を受け止めた。浅葱の足が地にめり込む。
「くっそ……」
妖異と睨み合う状態になり、浅葱は唇を噛んだ。彼が両手で持った刀を全身の力で支えているのに対し、妖異は片足を出しているに過ぎない。力の差は歴然だ。
妖異がにたりと笑い、前足を薙ぎ払う。浅葱は弾き飛ばされ草の上に投げ出されたが、即座にその場から飛び退いて妖異の追撃から逃れた。続けて地を蹴って木の枝に飛び移ると、それを足がかりに浅葱は高く宙を飛ぶ。妖異が彼の動きを追って顔を上げ上向いた瞬間、浅葱の体重を載せた刀が妖異の左目を貫いた。
ぞっとするような悲鳴が森に響く。苦痛に悶える妖異は顔を振り回し、後ろ足で立ち上がってやたらめったらに前足を振り回した。そのうちの一撃が、妖異から離れようとしていた浅葱に当たってしまう。彼は地面に叩きつけられた。土煙が上がり、シュウの場所からは浅葱が見えない。
(うそ、アサギさんが……)
妖異はまだ顔を覆って悶えていた。左目には刀が深々と突き刺さっているが、右目の赤い光はまだ消えていない。これほどの傷を負ってもまだ死んでいないのだ。
シュウはどくどくと大きく脈打つ胸を押さえる。妖異というものは恐ろしくしぶといものだ。それでも不死身ではない。浅葱が負わせた傷で妖異の体力は確実に削られているはずだ。今のうちにもう一度攻撃できれば、もしかしたら倒せるかもしれない。せめて杖があれば、魔法で援護することもできるのに。
土煙が晴れる。浅葱は草の上で膝をついていた。刀は妖異の左目に刺さったままなので、今の彼は武器を持っていない。血をぼたぼたと零しながら、妖異の殺意に溢れた右目が浅葱を捉える。妖異が吠えた。
シュウは息を呑んだ。浅葱が右手を高く掲げる。彼を囲んで円を描くように淡い赤色の光が現れ、浅葱の手の先に集まっていく。光は集まるにつれその色を色濃く変え、燃え盛る炎と見分けがつかない明るい色へと変化した。浅葱は大きく振りかぶってその光の塊を空高く投げ上げる。シュウも妖異もその光を目で追ったが、光は上空で呆気なく霧散してしまった。
そう思った瞬間、妖異の悲鳴が響きわたった。左目に突き刺さっていた浅葱の刀が突然発火したのだ。浅葱の投げ上げた光の塊とよく似た赤い炎が妖異の顔面を覆う。妖異は狂ったように転げ回り顔をその鋭い爪でかきむしった。ぞっとするような悲鳴を上げ続ける口からは煙がでている。刀の発する炎は妖異の体内をも燃やしているようだ。
勝負はついた。次第に転げ回る力もなくなり、炎と煙を上げながらぴくぴくと痙攣するだけになった妖異を睨みつけながら浅葱がゆっくりと立ち上がる。ほんの少しよろめいたが、大きな怪我はなさそうだ。シュウは震える手足を叱咤し立ち上がった。
「アサギさん!」
「おー、シュウくん無事やったか」
ぼろぼろになった襖や穴の空いた床を乗り越えながら声をかけると、浅葱は振り向いていつも通りの笑みを浮かべる。その胸元から赤い光が漏れていた。
「今の、妖異は……」
「ちょっとまってな。説明は後や」
浅葱は倒れた妖異の左目から燃えさかる刀を引き抜く。不思議なことに、ごうごうと炎をまとっている刀を手にしても、彼は熱がる素振りを一切見せなかった。胸元から漏れる赤い光が強くなり、炎も勢いを増す。
シュウは縁側から庭へ飛び降り浅葱のもとへ駆け寄った。近くで見ると、彼は大きな怪我こそないものの、全身浅手だらけだ。今の妖異に負わされた傷だけではない。
大丈夫、と声をかけようとした時だった。森の中からガリガリガリ、と何かを引っかくような大きな音が聞こえた。木の枝が折られる音、野太い猫のような鳴き声も続けて聞こえてくる。シュウはぞっと鳥肌を立てた。あの妖異で終わりではないのだ。
「松葉! こっち来い!」
浅葱が声を張り上げる。森の中の音が少しずつ近付いてきて、木々の間から松葉が飛び出してきた。彼は浅葱以上に傷だらけで、妖異の返り血もあって全身血だらけだ。そして浅葱と同じように胸元からは光が漏れている。色は赤ではなく、緑色だ。
浅葱は燃えさかる刀を提げて走り出した。松葉を追ってきたのであろう妖猫が木々をかき分け森の中から現れる。浅葱は跳躍した。妖猫に正面から切りかかり、前足で防がれるものの、妖猫の毛皮に炎を移す。肉の焼ける嫌な臭いが辺りに広がった。
松葉はシュウの前まで来ると足を止め、肩で息をしながら膝をつく。かばうようにしている左腕にざっくりと切り傷があり、まだ血が止まっていなかった。シュウは慌てて止血に使えそうなものを探し、制服のポケットからハンカチを見つける。しゃがみこんで腕を取ろうとすると、松葉は驚いて身を引いた。
「あ、ごめ」
松葉の胸元から漏れる緑色の光がぱっと強くなり、今度はシュウが怯んだ。反射的に閉じた目を恐る恐る開くと、緑色の光は色濃い球形になって彼ら二人を包み込んでいた。
「この中から出るな。急ごしらえだが何もないよりはマシだ」
「マツバさん、腕出して」
シュウは松葉の返事を聞くより先に彼の腕を取り、ハンカチできつく縛る。応急手当の仕方は学校で何度も習ったが、本当に怪我をしている人にやるのは初めてだ。松葉の腕は思ったよりずっと細くて、彼がまだ子供なのだと改めて思い知らされる。シュウは唇を噛んだ。年下の子に守られるしかできない自分が悔しかった。
「松葉、そっち行った!」
遠くで浅葱が叫ぶ。二人がはっとして振り向くと、浅葱が対峙しているのとは別の妖異が、今にも飛びかからんとする体勢で彼らを見据えていた。松葉が短槍を構える。緑色の光が短槍を取り巻いていく。
「来い!」
松葉が叫んだ。妖異が牙をむいて飛びかかってくる。その牙と爪が緑色の光の壁に触れた瞬間、急に突風が吹き荒れた。妖異が悲鳴を上げる。風が刃となって妖異を襲ったのだ。のけぞった妖異に向かって、松葉は光をまとった短槍を振り下ろした。光はたちまち刃となって妖異に向けて飛び、妖異の傷を穿っていく。妖異は飛び退いて距離を取り、ぐるるる、と喉を鳴らしながら二人を睨んだ。
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