第五章:祈りは風の中に --3



 ひとしきり吐いてしまってから、シュウはくらくらする頭を上げてすみません、と謝った。聖女はシュウのそばでおろおろと泣きそうな顔をしていて、反対側では牡丹が相変わらずの無表情で背中をさすってくれていた。その後ろからは浅葱が覗き込んでいる。シュウが見た夢の話は浅葱にしかしていないので、突然気分が悪くなったわけは彼にしか分からないだろうが、誰も何も聞かなかった。シュウが起き上がって座り直すと、牡丹がさっと桶を回収しどこかへと持ち去っていく。
「あの、どうして、工場に……?」
 工場、と口にした途端、口の中にまた酸っぱいものがこみあげてきて、シュウは思わず顔をしかめた。教会の聖女さまと兵器開発工場とはなんとも妙な取り合わせだ。夢で見たときだって、何故彼女があの場にいたのかは分からなかった。寝る直前に彼女の姿を見ていたから、たまたま夢に出てきただけだと思っていた。
 聖女は口を引き結んで俯き、何かを考え込んでいたが、シュウや周りの人間たちがじっと彼女の言葉を待っていると、そのうち観念したようだった。
「兵器工場では、毒物の他にもう一つ、研究が行われていました。……わたしの持つ力を利用した研究です」
「聖女さまの力を、研究に?」
 シュウが聞き返すと、聖女は固い顔のままではい、と答える。
「モンスターを退ける力です。わたしは神に祈りを捧げることで、近付いてきたモンスターたちを山へ返すことができました。その力によってわたしは聖女と呼ばれるようになったのです」
 浅葱が知っているか、というようにシュウに視線を投げてきたので、シュウは黙って頷き返した。聖女さまの特別な力はザーラでは有名だ。町がモンスターに襲われた際に、逃げ遅れた子どもが聖女さまに助けられたとか、危機に陥った討伐隊が聖女さまの祈りのおかげで無事に帰還したとか、逸話はいくらでもある。そもそも魔の山にほど近いあの場所にザーラの町が作られたのは聖女さまの守りがあったからだ、という話も聞いたことがある。もちろんそれらの逸話は一人の聖女さまに対するものではなく、これまでの歴代の聖女さまの偉業の積み重ねだ。そしてそれらの逸話はどちらかと言うと昔話めいたものが多く、いざ目の前に同じ力を持った今の聖女さまがいるというのは何だかおとぎ話でも聞かされているような気分だった。
「聖女の祈りというのは完全ではありません。ご存知の通り町が襲われてしまう時もありました。それでも、研究員たちに言わせれば、わたしが聖女として教会に連れてこられてから明らかに襲撃の回数が減っているのだそうです。研究員たちはわたしの持つ力の源が何であるのかを解明し、兵器に利用しようとしていました」
「兵器にって、どうやって」
「具体的なことはわたしには分かりませんが、わたしは研究に協力するため、ほとんど毎日工場の中で祈りを捧げていました。ですから、あの日も工場の中にいたのです」
 これでもう一つ夢と現実の共通点ができてしまった、とシュウは思った。聖女があの時教会ではなく工場の中にいたのならば、シュウが工場の門で彼女と会ったのは本当にあったことかもしれない。だが、少なくともその直後のことは現実ではないだろう。聖女は瓦礫に潰されはしなかったのだ。あれは夢なのだ。シュウは自分にもう一度そう言い聞かせた。
「その兵器の開発はどこまで進んでいたのですか」
 尋ねたのは浅葱だった。聖女は首を横に振る。
「分かりません。あまり進捗はよくなかったようですが」
「どうして私がこの質問をしたか分かりますか」
 聖女はえっ、と声を上げ、浅葱を見上げ、次にシュウの方を見た。シュウにも浅葱の意図は分からず、きょとんとして彼を見上げる。
「今、あなた方二人には、その力とは逆のことが起こっています。モンスターは退けられるどころかあなた方を目指して集まってきている。こうしている間にも、モンスターは仲間の死骸さえ踏み越え、普段なら立ち入らない人間の暮らす領域にまで踏み込んできている。お話を伺った限りでは、その原因はあなたの持つ力か、もしくはその兵器にあると思われるのですが」
「ちょ、ちょっと待って、アサギさん」
 シュウは慌てて聖女を守るように立ちふさがった。
「モンスターが襲ってくるのは聖女さまのせいだって言うの? そんなわけないよ。聖女さまの力はモンスターを退けるものなんだよ」
「追い払うことができるってことは、つまり自分の意のままに操ることができるとも言えるからな」
「そんな!」
「まあ、落ち着いて」
 感情的になりかけたシュウをなだめ、浅葱はシュウの背後で青い顔をしている聖女に水を向けた。
「悪意を持ってモンスターを操っていると言うつもりはありません。ただ、あなたなら何が起こっているのか分かるのではないかと」
 聖女はうつむいた。シュウは心配そうに彼女を見下ろす。かばってやりたかったが、これ以上何と言えばいいか分からなかった。沈黙の中で、聖女がぽつりと呟いた。
「神の怒りに触れたのかもしれません」
「神の……怒り?」
「聖女の祈りは神に捧げるものです。モンスターを退けているのは、実際には私の力ではなく神の力と言うべきものでしょう。それを兵器に利用するということは、つまり人間が神を利用しようと言うことになります。その驕った態度が神を怒らせたのだとすれば、これはザーラに対する罰なのかもしれません」
 聖女は意を決したようにきっと顔を上げた。気弱な表情は隠しきれていなかったが、それよりも彼女の使命感が強く現れていた。
「わたしに少し時間をください。祈りを捧げ、モンスターたちを鎮められないか、やってみます」

 祈りを捧げるには屋外の方が都合がいいと言うので、一行は中庭へと移動した。廊下でぐるりと囲まれた中庭はそれほど広いものではない。学校の教室ぐらいの大きさだな、とシュウはザーラの士官学校を思い起こした。昨日見かけた大きな池のある庭とは別の庭のようだ。この屋敷は思っている以上に広いらしい。
 庭の中心には背の低い気が一本だけ枝を広げている。子供の手のひらのような不思議な形をした葉が風に揺れていた。木はそれだけで、あとは草地の間に野の花々が咲き誇っている、目立たないながらも手入れの行き届いた庭だ。縁側から点々と飛び石が置かれ、草地に足を踏み入れずに庭を散策できるようになっている。
 聖女は板間から飛び石の上へそっと足を下ろした。彼女は裸足のままだった。ミサギ国の着物は脱ぎ、聖女としての白い衣装に着替えている。レースをふんだんに使われた贅沢な衣装はしかし、あちこちが引き裂かれ布地が地面に垂れてしまっていた。彼女がこの隠れ里に保護されたとき、この衣装は泥だらけでぼろぼろだったのだ。昨夜の間に泥だけは落としてもらえたようだが、裂けた部分の補修は間に合わなかったようだ。だが聖女は衣装のことはあまり気にならないらしい。布地を無頓着に引きずって庭の中心へと石を渡っていく。その表情には緊張がみなぎっていた。
 それも無理ないだろう、とシュウはこっそり思う。中庭に面した部屋の戸は取り払われており、中には頭領、牡丹、浅葱、シュウだけではなく、あの老人たちも集まっているのだ。シュウが初めて頭領と顔を合わせた時のように、深いしわの刻まれた顔を並べ聖女の一挙手一投足に注目している。目を合わせていなくても彼女の元へは重圧が届いていることだろう。それとも、聖女と呼ばれるぐらいだから、人に注目されることには慣れっこだろうか。一瞬そう考えたシュウだったがすぐに思い直した。そういう性格であるならば、言葉の通じない人たちを相手にあそこまで怯えはしないだろう。やはり重圧に耐えているのだ。
 聖女は庭の真ん中で足を止めた。白い雲の浮かぶ空を見上げ、両手を胸の前で組み合わせる。春のやわらかい風が吹き抜け、背中に垂らした金色の長い髪を揺らしていく。花びらのような白い布が風に遊ばれてひらひらと舞う。彼女はまるで風に吹かれた一輪の大きな花のようだ。金の髪が日の光を浴びて光り出す。最初はその場にいた誰もが日の光を反射しているのだと思っただろう。だが、実際には彼女が自ら光を発しているのだ。風が吹き、雲が流れる。太陽が雲の間に隠れてしまってもなお、中庭は聖女の発する金色の光で眩しいほどに明るかった。
「すごい……」
 知らないうちにシュウは思ったことをそのまま口に出していた。おとぎ話で聞いていたような、聖女が起こす神の奇跡を今、目の当たりにしているのだ。
 まばゆい光の中、聖女は祈りを捧げながら石の上に膝をついた。目を閉じてうつむき、組み合わせた両手を空に掲げる。
 その瞬間、聖女の手からは稲妻のような激しい一筋の光が空に立ち上った。あまりに一瞬のことで、シュウは見間違いかとも思ったのだが、傍らで見ていた浅葱もまた光を追って空を見上げたので間違いではないと分かった。その一瞬で、空に浮かんでいた雲は跡形もなく消えてしまい、後は春の穏やかな青空だけがただ広がっている。聖女の発していた金色の光もどこかへ消えてしまった。聖女は同じ場所で両手を掲げた体勢のまま動かずにいた。が、一泊置いてその体がぐらりと傾く。シュウは反射的に飛び出そうとして牡丹に止められた。
「大丈夫です」
 彼女の言う通り、聖女が倒れるより早く、駆け寄った浅葱がその体を抱きとめた。シュウはほっと息をつく。
「聖女さまは」
「気を失ってるみたいや」
 聖女はぐったりと浅葱の腕に抱かれていたが、呼吸は穏やかで顔色も悪くなさそうだった。浅葱が軽々と彼女を抱えあげ、飛び石を踏んで縁側へと戻ってくる。室内から頭領が声をかけた。
「浅葱、そのまま先程の部屋まで運んで差し上げなさい。牡丹は彼女に付いていてあげて」
「はい」
 二人が声を揃えて返事をする。シュウは浅葱について行こうとしたが、頭領の視線が自分に向いていることに気付き、彼女に向かってきちんと正座した。
「シュウさん」
「はい」
「今のが杯律国に伝わる聖女の祈りというものですか」
「恐らく、そうです。僕も実際に見たのは今日が初めてです。聖女さまの姿だって、なかなか見られるものではありませんから」
「そうですか」
 頭領が頷いた時、彼女の背後の戸が開き、着物姿の女性が一人入ってきた。彼女は頭領の耳元で二、三言囁いた後、頭を下げて素早く部屋を出ていく。
「早速効果が出たようですよ。妖異どもが山へ戻っていったそうです」
 彼女の一言で、岩のように静かだった老人たちに動揺が走ったのが分かった。シュウはただ、やはり聖女さまの力というのは本物だったんだ、と思った。頭領はどう考えているのか、穏やかな微笑みを浮かべたその表情からは読み取れない。
「さて、彼女の話で明らかになったこともありますが、まだ不明なことも多くあります」
「毒の霧が発生したのは、その毒を研究していた工場が爆発したから……ってこと、ですよね」
「その爆発が何故起こったのかは不明なままですね。そしてもう一つ重要なことは、妖異どもの異様な行動です」
「え、でもそれは」
「聖女の祈りによって一旦は大人しくなったようですが、効果がずっと続くかどうかは分かりません。妖異どもを引き寄せるのがシュウさんとあの娘だけなのか、杯律国の人間が皆そうなってしまったのか、どういう理由でそのようなことが起こったのか。解き明かすべき謎はまだまだあります」
 シュウは思わずうつむいた。聖女の奇跡に圧倒されたことで、いろいろなことが解決したような気になっていたが、その実何も分かってはいないのだ。頭領は憎らしいほどきれいな顔で笑みを浮かべ、シュウを慰めた。
「私どもの方でもできる限り調査を進めますわ。シュウさんも思い出したことがあれば何でも伝えてください」


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