第五章:祈りは風の中に --2



 ふたたび士官学校の制服に着替え、頭領の屋敷に向かおうという時になって、シュウはようやく浅葱が「いいものをあげる」と言った意味が分かった。昨日はあまりにも足元がおぼつかなかったので、移動するときはずっと浅葱に背負われていたのだ。それが今日は、一人でしっかりと立ち上がり歩くことができた。これも結晶化によって身体能力が強化された結果だという。シュウはこれであの老人たちに叱られずに済む、とこっそり喜んだ。
 頭領の屋敷までは道なき道を進むことになるため浅葱に背負われることになったが、屋敷の中では自分の足で歩くことができた。シュウは前方の浅葱、後方の松葉に挟まれ、屋敷の廊下を奥の方まで歩いていった。曲がりくねった廊下はどこまで行っても同じような景色だったが、なんとなく昨日通ったのとは違うところを通っているような気がする。そう思ってきょろきょろしているうちに、気付けばあの白い服の少女が寝かされていた部屋の前にまで来ていた。
「失礼します」
 浅葱が部屋の中に声をかけ襖を開ける。部屋の中は昨日と同じように薄暗く、四隅に置かれた行燈の火が怪しく揺らめいていた。
「来ないで!」
 甲高い悲鳴が部屋の中から響き、先頭にいた浅葱が足を止める。ハインリッヒ語だった。シュウは浅葱の肩越しに部屋の中を覗き込む。
 部屋の右奥の隅、行燈の近くに金髪の少女がうずくまっている。今の少女はハインリッヒの白い服を着ておらず、若草色の着物を着せられていた。ぼさぼさになっていた金髪も泥を落とし一つにまとめられている。頭を守るように掲げた腕には包帯が巻かれていた。何があったのか、少女はミサギ国の女性二人に部屋の角へ追い詰められた形になっている。少女は怯えきった目で新たな来訪者である浅葱たちを見上げ泣きそうな顔をした。
「来てくれましたか」
 背後から声をかけられ振り向くと、そこにはいつの間にか頭領が立っていた。すぐ後ろにいたはずの松葉が一歩下がって跪いている。シュウは戸惑いつつもぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
「ええ、こんにちは。昨日の今日でいきなりお呼び立てしてすみませんね。彼女とはお話できそうですか」
 頭領はちらりと部屋の中を見やる。部屋の隅では少女が縮こまっており、人数が増えたことでますます警戒させてしまっているようだった。
「いえ、今来たところなんです。ずいぶん怖がっているみたいですけど」
「彼女はシュウさんと違って御鷺語が分からないようなのです」
 頭領が肩をすくめる。
「我々のうち、杯律国の言葉をまともに扱えるのは浅葱くらいですわ。最初に異国の言葉で驚かせてしまったせいか、片言で話しかけようとしても耳を貸してくれませんの」
「なるほど」
 それで自分が呼ばれたのか、とシュウは頷いた。自分もミサギ国の牢屋の中で目覚めた時は何が起こっているのかさっぱり分からなかった。家業のためにミサギ語を勉強していたおかげでなんとか意思の疎通ができたが、そうでなければさぞかし心細いことだろう。
 少女のいる部屋の中へ一人入っていくと、少女を囲んでいたミサギ国の女性たちが道を譲ってくれた。シュウが近付いてきたのが物音で分かったのだろう、少女はびくりと大きく震え恐る恐る顔を上げる。シュウと目を合わせた彼女ははっと息を呑んだ。
「ええと……君、大丈夫?」
 何と話しかけるべきか迷った挙げ句、ありきたりな言葉をかける。ハインリッヒ語を耳にした少女は大きく目を見開いた。流暢なハインリッヒ語を話し、ザーラの士官学校の制服をまとうシュウが同郷の人間だと分かったのだろう。少女は今にも泣き出しそうにくしゃりと顔を歪めた。シュウが慌て出す。
「わ、泣かないで、大丈夫だから。あの、僕は見ての通りハインリッヒ王国の人間です。君もハインリッヒから来たんですよね?」
 少女はこくりと頷いた。
「やっぱり。僕はシュウ=カトライゼ、士官学校の生徒です。あなたのお名前は?」
「シュウ……」
 少女は噛みしめるようにシュウの名前を呟き、視線を落とす。遠慮がちに首を横に振った。
「ないの」
「え?」
「わたしには名前がないの」
 シュウはぽかんと面食らって、つい後ろにいる浅葱たちの方を振り返った。部屋のすぐ外では、ハインリッヒ語で交わされる会話を浅葱が頭領たちに通訳していたが、シュウの視線に気付くと黙って肩をすくめてみせる。
 名前がない。普通はそんなことありえないのだが、シュウには一つ心当たりがあった。それは昨日この少女が来ていた、白いレースの衣装を見て思いついたことだった。
「あの……もしかして、あなたは聖女さまですか?」
 聖女。それはザーラの町において特別な意味を持つ存在だ。ハインリッヒ王国の中でも最も「魔の山」に近いが故に、モンスターの襲撃が最も多い町、ザーラ。討伐隊を組織し、工場で兵器を製造してもなお、モンスターの被害をゼロにすることは不可能だ。人の力だけではモンスターに対抗しきれない。そのためザーラの人々は昔から特に信仰心に厚いと言われている。町の中には大きな教会があり、多くの人が日夜祈りを捧げているのだ。その信仰の中心となっているのが、「聖女」と呼ばれる存在だった。
 聖女はもともと、教会に仕えるシスターの一人であったという。魔術師でもあったそのシスターがある日、神の奇跡としか思えない特別な力を発言し、人々に聖女として崇められるようになったのだ。シュウもザーラの人間として当然そのことは知っていたが、実際に聖女の姿を目にしたことはなかった。シュウだけではない。聖女はいつも教会の奥深くで祈りを捧げており、一般の人の前に出てくることはないのだ。ただ、他のシスターたちが薄青色の修道服を着ているのに対して、聖女だけはその力の偉大さ、清らかさを示すため、純白の衣装に身を包んでいると言われていた。
 少女はシュウの顔を見上げ、ためらいがちに頷く。
「そう……呼ばれています」
 シュウはまじまじと聖女の顔を見つめた。眩しい金色の髪に憂いを帯びた金色の瞳。白い衣装を着てはいないが、彼女には確かに聖女と呼ばれるに値する気品のようなものが備わっているように思える。ただ、今は怯えと戸惑いの裏に隠れ気味ではあったが。
「あの、失礼しました。まさか聖女さまがあなたのような若い女の子とは思っていなくて」
 聖女はなぜか、力なく首を横に振った。シュウがザーラの人間だと知っても聖女の表情は晴れないままだ。どうもミサギ国の人々に怯えていただけではなかったらしい。
 それならば、とシュウは居住まいを正した。聖女が今の自分の置かれた状況をどこまで理解しているかは分からない。だがもしかしたら、聖女は全てを知っているかもしれない。五月九日にザーラで何が起こったのか。どうしてシュウと彼女だけがミサギ国に逃れているのか。どうしてモンスター、妖異がシュウと彼女を追ってくるのか。
「聖女さま。五月九日にザーラで何があったのか、ご存知ですか」
 シュウは単刀直入に切り出した。
「僕はあの日の記憶を失っています。五月八日の夜にいつも通りザーラで眠りにつき、気が付いた時には既にここ、ミサギ国にいました。今、ザーラの町は毒の霧に溢れていると聞いています。どうしてそんなことになったのか、教えてください」
 聖女は身を縮め、シュウから逃れるように後ずさった。だがもともと壁際にいた彼女の背はすぐに壁にぶつかってしまう。聖女は視線を落とし、髪と同じ金色の睫毛を震わせた。
「わ、わたしにも……あれが何だったのか、分からないのです」
「分からなくても構いません。見たこと、聞いたことを何でも話してください」
 後ろから口を挟んだのは浅葱だった。滑らかなハインリッヒ語で、別人のように優しい口調で語りかける。聖女が驚いて彼を見やると、浅葱はにっこりと人懐っこい笑みを浮かべた。それで少しだけ緊張が解れたのか、聖女はぽつぽつと例の日のできごとを話し始めた。
「あの日……五月九日、ザーラの町では大きな火災が起こりました」
「火事、ですか」
「火元は兵器工場の一角です。大きな爆発が起こり、そこから一日のうちに町中へと火が回りました」
 シュウはごくりと唾を飲み込んだ。夢の通り、本当に工場の爆発は起こっていたのだ。
「わたしには何もできませんでした。爆発が起こった時、わたしは拐かされそうになっていて、ただ逃げ回ることしかできませんでした」
「拐かされるって……誰にですか」
「分かりません。どこの誰が、何のためにわたしを攫おうとしたのか、何も。そして訳も分からず逃げているうちに、工場から毒が漏れてしまったことに気付きました」
「毒は工場から漏れたのですか」
 浅葱が尋ねる。聖女ははっきりと頷き返した。
「ザーラの町の兵器工場では、多くの研究員たちがモンスターから町を守るための兵器開発を行っていました。最初の頃は、大砲などの一般的な兵器を製造していたのですが、長くモンスターとの戦いが続くうち、彼らの考えが変わっていったのです。町を襲ってきたモンスターをいくら倒しても、また次のモンスターが襲ってきます。大元を絶たなければ戦いは終わらない。……そう考えた彼らが着手したのが、毒物の研究です。彼らは毒物を用いて、魔の山に住むモンスターを殲滅しようと考えたのです。あの日工場で起こった爆発のせいで、保管されていた毒物が外に漏れ出してしまったのです」
 そんな、と思わずシュウは呟いた。にわかには信じられなかった。兵器工場でモンスターに対抗するための兵器が開発されていることは知っていたが、そんな恐ろしいものがあの平和なザーラの町の中に存在しているとは思ってもいなかった。
 呆然としているシュウの代わりに浅葱が尋ねる。
「その爆発が何故起こったのかは分かりますか」
「分かりません……」
「では、あなたは毒が漏れていることに気付いた後どうしたのですか」
「それが……」
 聖女は言いにくそうに言葉を濁した。うつむいて祈るように両手を組み合わせる。
「分からないのです。怪しい人たちに追われて必死に逃げているところまでは覚えているのですが……気が付いたらどこかの森の中で倒れていて、逃げ切れたのだと思ったような気もします。はっきり目が覚めたらこの部屋にいて、その間に何があったのか、思い出せないのです」
「うーん」
 浅葱が首をひねりつつ、聖女の話を頭領たちに翻訳して聞かせる。聖女はその様子を不安げに見つめていたが、ふと傍らのシュウに小声で話しかけた。
「シュウさん、ここは本当にミサギ国なのですか」
「そうですよ。僕はここに来るまでの間にミサギ国の町並みも見ました。ここはミサギ国です。やっぱり聖女さまも、自分がどうやって山を越えたのか、分からないんですね」
 聖女が頷く。シュウは彼女に自分が見た夢の話をしようか迷った。聖女はシュウと違って、五月九日の記憶が全くないわけではないらしい。夢で見たことを詳しく話せば、工場が爆発したこと以外にも現実と共通する点が見つかるかもしれない。だが、共通点が見つかったところで、真相に近付けるとも思えなかった。シュウの夢の中には爆発の原因になるようなものはなかったし、爆発が起こってすぐ夢は途切れてしまっていて、肝心のその後が分からない。シュウは質問を変えることにした。
「工場の爆発は何時頃起こったんですか」
「恐らく、お昼頃だと思います」
「記憶にはないんですけど、その時僕は多分、工場の近くの士官学校の辺りにいたはずなんです。聖女さまは教会にいらっしゃったんですよね」
 何故か聖女は息を呑み、言葉に詰まった。シュウが不思議そうに彼女を見つめていると、彼女はさらに小声になって呟くように否定した。
「わたしはあの時、工場にいたのです」
「そうなんですか!」
 シュウは驚き、つい声を上げてしまった。ついさっきまで見ていた夢を思い出す。士官学校の試験を終えて、工場の爆発を止めようと乗り込んだ時だ。出入り口の鉄製の門の向こうに、白い衣装を着た聖女の姿があった。シュウは彼女に近付こうとしたが、爆発が起こり、目の前で彼女は――。
「シュウさん!」
 脳裏に浮かんだ衝撃的な光景に吐き気を催し、シュウは口を押さえてうずくまった。聖女の慌てた声が上から降ってくる。誰かの手が背中をさすってくれた。
「落ち着いて。無理に我慢せず、吐いてしまいなさい」
 聖女と反対側に腰を下ろしたその誰かはミサギ語で話しかけ、木の桶を差し出した。シュウは胃の中身をぶちまけるつもりで吐いたが、ほとんど胃液ぐらいしか出てこなかった。ツンと酸っぱい匂いが鼻をつく。


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