第四章:裂いた赤い花



 窓の外から風に乗って小鳥のさえずりが聞こえてくる。シュウは目を閉じたまま、ああ朝が来たのだと思った。小さな生き物の気配は彼の故郷でもこの異国でも平和の証だ。毒の霧にまかれ、草木も枯れ果てたというザーラの町のことが頭に浮かぶ。ついこの間までは、ザーラも小鳥が歌い子供たちが遊ぶ平和な町だったのだ。それなのに一体なぜこんなことになったのだろうか。ザーラの人が何をしたと言うのだろうか。
 ぐるぐると考え込みそうになり、シュウは首を振って暗い思考を追い出した。考えていたって仕方がない。とにかく今は自分にできることをしよう。少しでも早く元気になって、元通り動けるようになることだ。動けるようになれば山を超えてザーラにも行けるかもしれない。失った記憶だってそのうち戻ってくるかもしれない。
 そう自分に言い聞かせて顔を上げたシュウの目に飛び込んできたのは、他ならぬザーラにあるシュウの部屋だった。
 シュウは呆然とした。彼は自分のベッドの中でシーツにくるまっていたのだ。窓辺には淡いブルーのカーテンが風に揺れていて、小鳥がちょろちょろと歩き回っている。
「シュウ、そろそろ起きなさいよー」
 階下から母親の呼ぶ声がした。シュウはベッドから跳ね起き、転げ落ちそうな勢いで階段を駆け下りていき、驚いている母親にぶつかりそうになって止まった。
「何やってるの、危ないわよ」
「母さん……」
 すがるような思いが無意識に現れてしまったのか、シュウの声は彼が思った以上に震えてしまう。母親は朝食の支度をしてくれていたのだろう、いつも通りのエプロン姿でぽかんと口を開けていた。その表情は呆れが半分、心配が半分といったところだろうか。
「あんた大丈夫?」
 まったくもって大丈夫ではなかったが、どう説明すればいいのかさっぱり分からない。変な夢を見たとでも言えばいいのか。だがあれは夢ではない。シュウは確かにミサギ国にいたのだ。毒の霧を吸い込んで苦しんだのも、大きな魔物に襲われたのも、美しい女性の頭領と話したのも、全て夢だったなどとは信じられない。
「母さん、今日は、何日……?」
「ちょっと、本当に大丈夫? しっかりしなさいよ。今日は五月九日、試験の日でしょう」
 シュウは喉の奥でうめいた。彼にとって五月九日は二回目だ。同じように自室のベッドで目覚め、ディックと共に試験を受け、その後謎の爆発があって彼は死んだ。もしくは重症を負った。そういう夢を見た、というように自分を納得させていたのだ。
 だが、こうして母親と向かい合って立つ今ここはどう考えても夢の中ではない。夢ではないが、現実とも思えない。
「具合でも悪いの? 熱はないみたいだけど」
 母の手がシュウの額に触れた。水仕事をしていたのであろうその手は少しひんやりとしていたが、シュウが熱を出していない分牡丹の手よりも温かく感じた。そう思った途端シュウはくらりと目眩を感じ、慌ててそっぽを向いた。
「ごめん、大丈夫だよ。ちょっと寝ぼけてた。着替えてくる」
 母の返事を待たずにまた階段を駆け上がっていく。自室のドアを閉めると、シュウはドアにもたれながらずるずると床にしゃがみこんだ。深くため息をつきながら視線を落とし、自分がパジャマを着ていることに改めて気が付いた。
 ミサギ国の隠れ里で頭領と話をした後、シュウは浅葱に連れられて彼の家へ戻った。頭領に会うということで緊張していたのか、まだ体力が戻っていないのか、シュウは浅葱の家へ着くなりへたりこんで動けなくなってしまった。浅葱に手伝ってもらって士官学校の制服からミサギ国の着物に着替え、倒れ込むように眠りについたはずだ。
 シュウが顔を上げると、壁際のコート掛けにかかった士官学校の制服が目に入った。ベッドには杖が立てかけてある。今日が五月九日ならば当たり前のことだ。前日の五月八日の夜には試験に備えて制服も杖も荷物も全部確認したのだ。シュウがパジャマを着て自室のベッドで眠り、朝になって目を覚ました、それだけのことだ。
 だが、それだけだと言い切れないほど、ミサギ国の記憶ははっきりとシュウの脳裏に焼き付いていた。
「シュウ、さっさと支度しなさい。遅れるわよー」
 階下から母の声が届き、シュウはふと試験の存在を思い出した。思い出したというのも変な話だった。五月八日までのシュウにとっては試験こそが一番の関心事だったはずなのだ。シュウはもう一度ため息をついて立ち上がり、とにかく出かける準備をすることにした。
 ミサギ国で感じていた体のだるさは全く感じなかった。
 制服に着替えて階下へ下りていくと、ダイニングテーブルには既に朝食が用意されていた。たっぷりジャムをのせたトーストと温めたミルク。シュウの席の向かいでは父親が仕事の手紙らしきものを広げ、なにやら難しい顔をしていた。
「今日は、お友達と一緒に行くんでしょう?」
 母親がキッチンから顔を出して尋ねる。父親も目線だけをシュウの方へ向けた。
「……うん」
 強い既視感を覚え、シュウは苦いものを飲み込むように頷く。自分の席につきトーストを齧るも、母親の発言が気になって味が分からなかった。
「アイシャとカナはもう学校に行ったわよ。お兄ちゃんが緊張しすぎて失敗するんじゃないかって心配してたわ。まったくねえ、あんたは誰に似たのか臆病だものね。せめてもう少しお父さんに似たら、お父さんの仕事を継ぐのも安心して任せられるのにねえ。そうそう、あんた、試験って一人でやるんじゃないんでしょう? 誰と一緒なの?」
「ディックだよ」
「ああ、あんたの友達のディック君ね。あの子、素行はあんまりよくないけど、運動神経は昔からよかったから……足を引っ張っちゃ駄目よ。早く実戦経験を積まないと。お父さんのお仕事は兵士よりもっと大変なものなんですからね」
「うん」
 シュウは生返事をしてトーストを流し込んだ。母親はいつもお喋りで、放っておくといつまでも話し続けている人だから、こうやってあれこれと小言を言われるのはいつものことだ。デジャブを感じるのは、ただこれが二回目だからだ。夢の中の母親もきっとほとんど同じことを言ったのだろう。さすがに一字一句覚えてはいないけれど。
 母親はまだ喋り足りなそうだったが、父親に止められて不満そうに口を閉じた。シュウは床に置いた荷物を手に取り足早に玄関へ向かう。
「がんばれよ」
 父親のぼそりとした声が追いかけてきた。玄関のドアに伸ばしていたシュウの手がぴたりと止まる。前回も父親は同じ言葉を言ってくれた。
「……ありがとう」
 小さな声で答え、シュウは逃げるように家を飛び出した。

 ディックとの待ち合わせ時間までにはまだ時間がある。シュウはいつもの市場の入り口に着くと、人混みを避けて近くの民家の壁にもたれかかった。市場は買い物客で賑わっている。立ち並ぶ露店の商人たちは陽気な声で客を呼び込んでいる。あちこちで年配の女性たちが集まって井戸端会議をしている。念のため一通り周囲を見渡してみるが、ディックはまだ来ていないようだ。今回も寝坊だろうか。
 シュウは「一回目」の出来事を思い返してみた。この大切な試験の日にまでディックは寝坊してきて、彼らは試験の受付に間に合うため兵器工場へ忍び込んだのだ。兵器工場はもちろん立ち入り禁止であり見つかったら大変なことになっただろうが、幸い誰にも見つかることなく敷地を突っ切ることができた。そして試験を受け、合格し、家に帰ろうとしたときーー謎の爆発が起こった。
 爆発が起こったときのことはよく覚えていない。覚えていないというより何が起こったのか分からなかったし、その後すぐにミサギ国で目を覚ましたことで、ただの悪夢だと結論づけたせいもある。ただ、こうして「二回目」の五月九日を過ごしている今、あれをただの夢と見過ごすわけにはいかなかった。シュウは目を閉じ、ぎゅっと杖を握り締めあの時のことを思い出す。あたり一面は火の海だった。きれいに晴れていた青空には黒い大きな雲が広がっていた。工場の壁の前を歩いていたはずなのに、壁は姿を消してしまいどこに壁があったのか分からないほど瓦礫が散乱していた。
 はっきりと思い出せるのはこれぐらいだろうか。想像するに、兵器工場の中で事故か何かが起こったのだろう。兵器工場というくらいだから中には爆弾もあるはずだ。たとえば、複数の爆弾が置かれている場所で火事が起こったりすれば、あれほどの大爆発だって引き起こされる、かもしれない。
 シュウは賑わっている市場をぼんやりと眺めた。今ここで買い物をしている人たちも、あの爆発に巻き込まれたのだろうか。シュウがいた位置からはかなり大規模な爆発に見えたが、爆発の中心がどこかは分からないし、この辺りまで爆風が届いたかどうかは定かでない。もし爆風の被害を受けなかったとしても、工場の火が燃え広がって来る可能性もある。浅葱の話では、五月九日の夕方ごろ、ザーラの空は真っ赤に染まっていたという。爆発が起こったのは昼頃だったから、やはり火が燃え広がってしまったのだろうか。「二回目」の今もこれから同じことが起こるのだろうか。
 そこまで考えて、シュウはぶんぶんと首を振った。「一回目」の五月九日ではシュウは瓦礫に押しつぶされて死んだのだ。そして死んだ瞬間ミサギ国で目を覚ました。本当の五月九日に同じことが起こったと考えるのは早計だ。もし本当に同じことが起こったのならば、シュウは五月九日にザーラで命を落としたことになる。ミサギ国で過ごした記憶はどう考えても夢ではなく現実の記憶だ。
「シュウ!」
 遠くの方から彼を呼ぶ声が聞こえる。シュウが顔を上げると、ディックがこちらに向かって走ってくるところだった。
「悪い、寝坊した」
 燃えるような赤毛にはまだ寝癖が少し残っている。ディックは制服のボタンを留めながら理不尽に当たり散らした。
「てか、呼びに来てくれよ! もう時間ねーぞ!」
「あっ……」
 シュウははっとして市場の入り口に掲げられた時計に目を向ける。受付の十分前だ。じわりと嫌な汗がにじんだ。確か前回もディックが来たのはこの時間ではなかっただろうか。
「おわっ」
 ディックはシュウの動揺を遅刻に対するものと受け取ったのか、動かないシュウの手を無理やり引っ張って走り出した。シュウは転びそうになりながらもディックの後について行く。行き先は分かっていた。
「こっちだ」
 町中を走り抜け、工場の敷地をぐるりと囲んでいる壁に突き当たると、ディックは予想通り訓練場へ向かうのとは反対方向を示した。シュウは黙ってそれに従う。ディックが意外そうにちらりと振り返った。
「お前、どこに行くか分かってんのか?」
「……なんとなく」
 適当にはぐらかすと、ディックはにやりと笑う。
「へぇ。いいじゃん、優等生のお前でもこういうこと考えるんだな」
 シュウが自分で考えついたわけではないのだが、ディックにはそんなことは当然分からない。シュウは肯定も否定もせず笑ってごまかした。
 工場の外壁のすぐ脇に立っている大きな木の前まで来ると、ディックは迷いなくするすると木に登り始める。シュウは周囲を注意深く見渡して人の目がないことを確認してからディックの後に続いた。ディックは猿のようにひょいひょいと身軽に枝を移っていく。シュウはついていくので精一杯だったが、時折動きを止めては地上の様子を伺っていた。
「ディック、止まって」
「ん?」
 ふと思い出したことがあり、シュウは声を潜めてディックを止める。ディックは少し怪訝そうな顔をしたが、何も聞かずにぴたりと動きを止めた。しばらく二人で息を殺していると、木の下を一人の老人がのんびりと歩いていくのが見えた。やっぱり、とシュウは思う。確か前回も、木登りの途中でこの老人をやり過ごしたはずだ。
 幸い老人の後には誰も通りがかることはなく、シュウとディックは工場の敷地内へと降り立つことができた。
「工場って広いだろ。だから、絶対に人に見られたらまずいエリアと、見られてもそんなに問題ないエリアがあるんだ。この辺は資材の山とか、何年も使ってなさそうな倉庫とかばっかりで、見張りもほとんどいないんだ」
 ディックの言う通り、辺りには人の気配がなかった。あるのは木材や鉄くずの山、古びた建物ばかりだ。シュウは注意深く辺りを見回す。何か危険なものはないだろうか。あの大爆発を引き起こすようなものだ。
「おい、何やってるんだ。早く行くぞ」
「あ、うん」
 ディックに急かされ走り出す。彼は工場の人間に見つからないよう警戒しているが、シュウはその必要がないことを分かっていた。前回もこの辺りは人気がなく、誰にも見つかることなく通過できたのだった。


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