第3章:咲いた白い花 --5



 制服に袖を通すと、何となく落ち着いた気分になった。見慣れないものに囲まれたこの状況では、いつも身に着けていた制服がとても頼もしく感じられる。
 暗い赤色の上着には釦がいくつも付いていて、その一つ一つに紋章が彫られている。ハインリッヒ王国の紋章だ。シュウは上から順に釦をとめていき、袖の釦をとめようとして右袖の釦がなくなっていることに気付いた。ミサギ国へ逃げてくるときに落としてしまったのか。それとも、釦は以前から取れていたのに、それに気付かなかっただけなのかもしれない。制服を脱ぐときに、わざわざ袖の釦まで外すことは少ない。
「準備できたか」
 全て着終えると浅葱が声をかけてきた。
「これから、何をするんですか?」
「頭領にお目通り。ここの里で一番えらい人にご挨拶や」
「それだけ?」
「シュウくんは、頭領にやったら聞きたいことをなんでも聞けるで。ザーラが今どんな風になってるのか、この里がどういう場所なのか、自分がどうしてここにいるのか……ってな。今のシュウくんに関わる情報はぜーんぶ外に漏れたらあかんことやから、外の人間であるシュウくんには勝手に話せないんよ。シュウくんの情報をシュウくんに秘密にせなあかんって、なんか変やけどな」
 聞きたいことと言われれば、ザーラのことぐらいしか思いつかなかった。なにしろシュウが知っていることは、五月九日の夕方ごろにザーラ方面の空が真っ赤に染まったことと、その頃自分は山の中で毒の霧を吸って倒れていたということだけだ。ザーラで何が起こったのか。毒の霧はザーラの人々をも襲ったのか。家族や友達は無事でいるのか。
「あの、アサギさん」
「ん」
「トウリョウさんの言葉が、もし分からなかったら、教えてください。お願いします」
 シュウはきちんと座り直し、浅葱に深々と頭を下げた。浅葱が苦笑してシュウの頭をぽんぽんと軽く叩く。
「心配せんでええよ、ちゃんと助けたる。なんやったらシュウくん、ハインリッヒ語で話しても構わんで。もう分かってると思うけど、おれはハインリッヒ語も御鷺語もぺらぺらやから」
「お願いします」
「はいはい。じゃ、そろそろ行こうか」
 浅葱がからりと障子を開け、縁側に腰掛けて靴を履く。靴というよりも生地の硬い靴下かなにかに見える、不思議な形の履物だった。シュウが四つん這いになって縁側まで出ていくと、浅葱が当然のように背中を向けてくる。おぶされということだろう。シュウは素直に浅葱の背中に寄りかかりつつ、この年になってこれだけ人におんぶされることになるとは、と密かに思った。
「シュウくん、気持ち悪くないか?」
「大丈夫です」
「そっか、ならよかった」
 元気いっぱいとはいかないものの、先程のようなひどい吐き気はもうない。あれは毒のせいで具合が悪くなったというよりは、目の当たりにした光景が衝撃的すぎたのがいけなかったのだ。今日見た夢といい、ここ最近はやけに嫌なものをよく見ているような気がする。
 揺れる浅葱の背中でぼんやりと森の木々を眺めながら、ふとシュウは気付いた。その「嫌な光景」がなくなっているのだ。浅葱が歩いているこの庭には、いくつもの妖異の屍がごろごろ転がっていた。それが全て片付けられてしまっている。血の跡さえも残っていない。それだけではないのだ。野菜が植えられている畑が明らかに狭くなっている。畝は少なくとも十列以上あったはずだが、今は五列しかない。
「畑なら潰したで」
 シュウの視線に気付いた浅葱があっさりと告げる。
「妖異の血がかかったらもうあかん。なんでか知らんけど形は悪くなるし、味もえぐみが出て食えたもんじゃない」
「そう……」
 そのことはシュウも知っていた。ザーラでも同じことをするからだ。問題はそこではなく、シュウが着替えるほんの少しの間にすべての作業が終わってしまっていたことだ。決して小さくはない妖異の死体をどこかへ運び出して、血の跡は埋めるか土を取り除くかして、駄目になった野菜を掘り起こして畝を平らにする。まともにやれば一日かかる仕事だ。そして、そのあいだ障子一枚を隔てた場所にいたシュウは、外で誰かが作業をしているような物音は何も聞いていない。加えて、浅葱のこの態度からして、それを特別なことだとは思っていない。
 ミサギ国へ来てから、魔法にでもかかっているのかと思うことばかりだった。

 鬱蒼と生い茂る森の中をしばらく進むと、浅葱の家があるところと同じような、少し開けた場所に出た。ここにも建物が建っているが、浅葱の家と比べるとずいぶん手入れがされているようだ。壁は今塗られたばかりであるかのように真っ白だし、縁側もぴかぴかに磨き上げられている。決して大きな建物ではなく、むしろ周囲にそびえ立つ木々に覆い隠されてしまいそうな様子なのに、どことなく威圧感を与えてくる館だった。
「あの……」
「ん、どした」
 シュウが声をかけると浅葱は足を止めた。足元でざくり、と砂利の擦れる音がする。浅葱の家の周りは土があり、畑があったが、この館の周りにはびっしりと白い砂利が敷き詰められているのだ。人気のない静かな空間にシュウは気後れしていた。
「ええと、このまま行くんですか」
「このままって?」
「その、アサギさんの背中に……」
「おんぶした状態でってこと? 大丈夫や、もし駄目やったとしても怒られるのはシュウくんじゃないから、気にせんといて」
 浅葱はあっさりと笑い飛ばし、砂利の中に敷かれた飛び石を踏んでまっすぐに館へ向かう。入口らしき戸の前に立つと、計ったようにするりと戸が開いた。中から仏頂面の松葉が顔を出す。
「頭領がお待ちだ。……それと、翁の方々も」
「えー、うるさいじじい共まで? 嫌やなあ」
「口に気をつけろ、馬鹿」
 館は外見だけでなく、内装も綺麗に整えられていた。塵一つなく掃き清められた土間から板葺の廊下へあがる。それっきり無言で先を歩いていく松葉の服に、返り血などはもう見られなかった。血の臭いすらもしないような気がするが、それは単にシュウの鼻が慣れてしまっただけかもしれない。
 廊下の角を一つ曲がると、中庭に面した縁側に通じていた。庭の中央には澄んだ水をたたえた大きな池があり、それを囲んで形も大きさもさまざまな石が並んでいる。よく見ると、小さな薄黄色の花をつけた草がその石に寄り添うようにして咲いていた。他にもいろいろと植物が植えられているが、花が咲いているのはその薄黄色の花ぐらいだ。白い壁に沿って立つ小さな木には、はち切れそうに膨らんだ蕾が開花の時を待っているのだが、あいにくシュウの目には留まらない。その代わりに彼の目を奪ったのは、差し込む日光の中で輝く初夏の緑だった。太陽を求めて手を伸ばす若木の葉は、日の光を吸い込んでやわらかく揺れている。シュウはぼんやりとその光景を眺めながら、まるでここだけ別の空間のようだと思った。静けさ、厳しさをただよわせるこの館の中、この中庭の風景は不思議と優しく感じられる。
 浅葱と松葉は奥へと進んでいく。中庭が見えなくなってしまっても二人は足を止めなかった。白い壁と白い障子に挟まれた廊下をただ歩いていく。外から見た以上にこの館は広いらしく、二人が足を止めたころにはシュウはまったく方角が分からなくなっていた。
 二人が立ち止まったのは、それまでの景色となんら変わりない普通の障子の前だった。またもや手を触れることもなく障子がするりと滑り、部屋の中へと招き入れられる。浅葱の肩越しに見えた部屋の広さに、シュウは目を見開いた。小さな公園ぐらいの大きさの座敷だ。一面に畳が敷かれているからそんなことはできないが、子供たちが集まって思いっきり暴れまわることだってできそうな広さだ。


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