第三章:咲いた白い花 --4



「その恰好は何だ」
 ぴしゃりと打ち付けるような、いかめしい声がシュウの耳を打った。
 広い座敷の中には五、六人の人影があった。向かって左手に並んで座っており、真っ直ぐにシュウたちを睨んでいる。彼らは全員が老人であり、その顔には深いしわが刻まれていた。故にどういう表情をしているのかいまいち判断できない。シュウが睨まれている、と思ったのは、彼らの目線が明らかにこちらに向いていることと、歓迎されているとはとても言えない雰囲気のためだ。シュウは心の中で、やっぱり怒られたじゃないかと呟いた。だいたい、一番偉い人に会いに行くと言っているのに、子供みたいにおんぶされた状態はまずいと思ったのだ。どう考えても失礼にあたるだろう。体の調子が悪くとも、頑張って自分の足で歩くべきだったのだ。今の体調で本当にそれが可能なのかと言われれば、答えに詰まってしまうところだが。
「申し訳ありません。まだ体調が万全でなく、歩かせることができないのです」
 浅葱が真面目な口調でそう言って軽く頭を下げた。その傍らで松葉も頭を下げる。
「頭領がお待ちだ、早くしろ」
 老人のうちの一人が低い声でそう言った。浅葱はすたすたと座敷の中に入っていき、老人たちの前でシュウの体を下ろした。そして何も言わずにまた入口の方へ戻ってしまう。彼が松葉と仲良く並んで正座をするのを見て、シュウも慌てて正座で座りなおした。老人たちの厳しい視線を受け止めることができずに、膝の上で握りしめた自分の拳を見つめる。その状態で固まった彼は、老人たちからの言葉に文字通り飛び上がった。
「前を向きなさい」
「はっ、はい」
 だったら睨まないでください、と心の中で叫びながらシュウはおそるおそる目を上げた。目の前にいる老人たちの機嫌がより一層悪くなっているような気がして、落ち着かなげに視線をきょろきょろと彷徨わせる。そんなシュウに浅葱が助け舟を出した。
「シュウくん」
 振り向くと、浅葱は少し笑っていた。片手で部屋の奥の方を指し示している。
「前は、あっち」
「え」
 浅葱が指した方向は、シュウから見て右手だった。シュウはそちらに向き直ってすぐ、部屋の三分の一ほどが一段高く作られていることに気付く。上座は老人たちの座っている場所ではないのだ。ということは、頭領はこの老人たちよりも偉い人だということになる。シュウはがちがちに緊張して頭領の登場を待つこととなった。
 ほどなくして、右手の襖が静かに開いた。最初に入ってきたのは年若い女性だ。艶のある黒髪を肩のところで切りそろえている。綺麗な人だ、とシュウは思った。鼻梁の線はすっきりとしていて、形のいい唇はやわらかく結ばれている。黒い着物には見事な赤い花の模様が描かれていた。
 次に入ってきたのは長身の、がたいのいい男性だった。こちらも若い。浅葱よりは年上だろうか。淡い緑色の髪は長く、一つにまとめて結わえている。鋭い瞳は髪と同じ色をしていた。腰に差した刀の鞘を左手で押さえている。彼は頭領の護衛だろうか。
 次はいよいよ頭領の登場か、とシュウが身構える。だが、護衛の男性は自分が部屋の中へ入ると襖を閉めてしまった。きょとんとするシュウの正面に黒い着物の女性が座る。彼女は状況の分かっていないシュウに向かって、にこりと優しい笑みを浮かべて見せた。
「はじめまして。私がこの里の頭領です」
 シュウはぽかんと女性を見つめた。近くで見るとますます美しい人だ。闇を溶かしたような黒髪に、磨き上げた宝石のような輝きをもつ赤銅色の瞳。着物の模様の花はとても綺麗なのに、女性の美しさにかすんでしまっている。
「シュウくん……」
 後ろから浅葱が声をかける、その声には焦りが混じっていた。シュウが振り向くと、彼は少しだけ引きつった顔で何かを言いよどむ。隣の松葉も同じ表情だった。どうしたの、と言いかけてシュウは気付く。老人たち、そして護衛の男性がすごい顔でシュウを睨んでいる。シュウは慌てて女性の方へ向き直った。
「は、はじめまして」
 頭領は女性だったのだ。シュウは自分の膝に視線を落とし、頭の中を整理する。てっきり怖い男の人が出てくるとばかり思っていたが、この女性は怖い人ではなさそうだ。どちらかというと、頭領であるこの女性よりも周りにいる老人たちの方が怖いような気がする。とにかく、きちんと自己紹介をしなければならない。鋭い視線にさらされているのを感じながら、シュウは必死に故郷で勉強したミサギ語での自己紹介を思い出した。
「ええっと、お会いできて嬉しい、です。僕の名前は、シュウ=カトライゼ、といいます」
 なぜかその時、老人たちが少し狼狽を見せたような気がした。何もおかしなことは言っていないはずだが、と思いつつシュウは言葉を続ける。その後ろで、浅葱が「やばい」という顔をしたことには当然気付けなかった。
「あなたのお名前は、なんですか?」
「貴様!」
 部屋の中にはっきりと動揺が走る。護衛の男性が刀に手をかけ腰を浮かした。老人たちもざわめき、明らかに怒気を向けてきている。シュウはあたふたと辺りを見回した。何かまずいことを言ってしまったようだが、何がいけなかったのかさっぱり分からない。頭領は目を丸くして驚いているだけで何も言ってくれなかった。
「え、あの……」
「頭領を愚弄するつもりか!」
 護衛の男性は今にも刀を抜こうとしている。シュウの顔から血の気が引いた。
「待って、落ち着けって! そういう意味じゃない!」
 男性とシュウの間に浅葱が割り込んだ。浅葱は男性の手を押さえて刀を抜かせまいとするが、力任せに振り払われてしまう。
「他にどういう意味があるというんだ、ふざけるな!」
「だから、落ち着けって言うとるやん……」
 男性は完全に激昂していた。浅葱は仕方なく、といった様子で腰の刀に手を伸ばす。
「止めよ」
 ぴしゃりと老人の声が響いた。声を発したのは老人たちのうち最も頭領に近い位置に腰を下ろしている者だ。大きな声を出したというわけではないにも関わらず、部屋中の者が彼に注目する。
「柳、浅葱、ここをどなたの御前だと思っている?」
「……申し訳ありません」
 老人の言葉で、二人の手が刀から離れた。当然ながら男性はまだ納得していない様子で、頭領と老人に軽く頭を下げたのち元の場所よりもシュウに近いところで腰を下ろす。警戒されているのだろうか。別に悪いことをするつもりはないのに、とシュウは身を縮めた。浅葱はシュウの隣に座り、頭領に深々と頭を下げる。
「頭領、どうかご容赦願います。彼は自国の慣習に従って挨拶をしただけなのです」
「自国の慣習とは?」
 それまで無言だった頭領が浅葱に声をかけた。やはり彼女は怒っていないように見える。そう見えるだけなのかもしれないが。
「あちらの人は名を一つしか持ちません。名がそのまま通り名となります。そのため、初対面の相手には自分の名を伝え、相手の名を尋ねるのです。そこに他意はありません」
「……なるほど。そういうことですか」
 頭領がくすりと笑う。
「こちらが早とちりをしただけですね」
「申し訳ございません。私から事前に伝えておくべきでした」
 浅葱が頭を上げないのを見て、シュウはおずおずと尋ねた。謝るべきなのだろうが、なにを謝ればいいのか分からないのだ。
「あのう……僕、なにか変なこと、言ったんですか」
「私たちは、名を二つ持っているのですよ」
「ふたつ? 名前を、ですか」
 シュウが首をかしげると、何がおかしいのか頭領はふふ、と笑みを浮かべた。周囲の人たちから怒気が痛いほど伝わってくる状況で、彼女一人が柔らかい雰囲気をまとっている。シュウは混乱していた。なおかつ、いささか疲れてきてもいた。どうしてこれほど警戒されなくてはいけないのだろうか。別に悪いことなど何もしていないではないか。
「一つは、その人を呼び表すために使う名です。通常はこちらの名しか使いませんね。あなたの隣にいる彼なら、浅葱というのが呼び名です。後ろにいるその子は松葉。こちらの血の気の多いのが柳」
 頭領のしなやかな手がすっと護衛の男性の方を示すと、彼の険しい顔がぴくりと痙攣した。シュウはつられて一瞬だけ彼の顔を見上げるも、睨み返されるのを恐れすぐに視線を逸らす。
「そしてもう一つはとても大切な名。滅多に使うことはありませんし、使うべきではありません。人の、まことの名とでも言いましょうか。この世に生まれ落ちたときに授かるその人だけの大切な名であり、みだりに人に教えてはいけないものです。私たちは皆、一人一人がこのまことの名を持っているのです」
「まことの名……つまり、アサギさんには、アサギさんっていう名前のほかにもう一つ名前があるってこと、ですか」
「その通りです。そして浅葱のまことの名を知るのは、彼にその名を与えた親のみ。この私でさえも彼の名を知ることはありません。まことの名を知ることができるのは、名付けた親と、その者の配偶者だけなのです」
「……はいぐうしゃ?」
「結婚相手や。男なら嫁さん、女なら旦那さん」
 耳慣れない単語を聞き返すと、横から浅葱がすぐに通訳をしてくれた。
「多分、知らんかったと思うけど。単純に『浅葱です』と言うだけなら、呼び名としての名を名乗ったことになる。でもそれを『私の名は浅葱です』と言うと、まことの名を名乗ったことになる。……っていうことを、先に、説明しておかなあかんかったんやけど。忘れてた。ごめん」
「え、で、でも。僕は名前、一つしかないです」
「そうですね。あちらの……杯律国ではまことの名という考えがないと聞いています。この場合、名をそのまま呼び名として捉えて問題ないのでしょうか。ねえ杉」
 ふいに、頭領はそれまで無視していた老人たちの方へ目線を向けた。問いに答えたのは先程浅葱と柳を一喝した老人である。短い白髪をかっちりと後ろに撫でつけ、ぴしりと背筋を伸ばした老人には他の者にない気迫が感じられた。シュウに向ける視線は決してやさしいものではないが、他の老人たちと違って明らかな敵意は感じられない。シュウは浅葱の影に隠れるようにしながらおずおずと彼の方を覗き見る。
「呼び名で問題ないでしょう。頭領、呼び方よりも問題なのは先の発言の件です。反応から察するに本人にその気はないのでしょうが」
「そうですね。本題に入る前にその誤解を解いておきましょうか。浅葱、説明なさい」
 固い笑みを浮かべる浅葱の口元がひくりと震えた。
「えーっと。まことの名を知るのは、両親と結婚相手だけやっていうのはもう分かったやんな?」
「うん」
「つまり、結婚する男女はお互いの真の名を教え合うわけや」
「うん」
「だから『あなたの名を教えてください』っていうのは、『結婚してください』っていう意味になる」
「うん。……うん?」
 頷いていたシュウは、話が思わぬ方向に進んだことに気付き目をまたたかせた。
「さっきシュウくんは、頭領に、その、求婚したわけや」
「えっ」
「あ、求婚って分からんかな。ハインリッヒ語で言うとプロ……」
「わ、わかる! わかるから!」
 シュウは慌てて浅葱の言葉を遮る。
「ぼ、僕、自己紹介の時はこう言うんだって学校で習ったんだよ!?」
「あー、うん。それは残念やけど、シュウくんの先生が間違ってるね」
 シュウの顔がかあっと熱くなった。頭に血が上っていくのが自分でも分かる。周りの老人や護衛の男性がなぜ唐突に怒り出したのかようやく理解した。自己紹介もそこそこに、一番偉い人へいきなり結婚の申し込みなどしたら、それは何のつもりだと怒られても仕方ないだろう。穴があったら入りたかった。
「ごめんなさい、大変、失礼しました!」
 頭領に向かってぺこりと頭を下げる。
「顔を上げてください。我々のような隠れ里に住まう者の慣習など知るはずもないのに、過剰に反応したのはこちらですわ。驚かせてしまって申し訳ありませんでした」
 シュウは言われるままにそっと顔を上げ、そして代わりに頭領が頭を下げるのを見てうろたえた。老人たちがおやめください、と声を上げるが彼女はお構いなしだ。流れるような綺麗な動作で顔を上げ、彼女はまたにこりと微笑む。
「さて、それでは本題に入りましょうか」
「は、はい」


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