第3章:咲いた白い花



 明るい水色の瞳が視界に飛び込んでくる。シュウはぼんやりとした頭で、どこかで見たことのある顔だなあと思いながら、自分の顔を覗き込んでいる男を見つめ返した。そのうちに相手がにやっと笑う。人をからかうみたいな笑い方をするなと思った瞬間、相手の名前を思い出した。
「アサギさん」
「うん」
 意味もなく呼んだ声に、浅葱は意味もなく頷いて部屋から出ていった。視界から浅葱が消えて天井の板だけが見える。シュウは布団の中から両手を出し、天井に向かって伸ばすようにしてまじまじと見つめた。着せられている着物をまくって指の先から肩までを確認すると、布団の上で上半身を起こす。ちゃんと回復してきているようで、誰に支えられなくても起き上がることができるようになっていた。掛け布団をまくり脇によける。着物を着慣れていないのと、長い時間横になっていたためにほとんど肌蹴てしまっていた。むき出しになっている足を見つめ、何かトゲのある生き物でも触るかのように恐る恐る肌を撫でた。健康的な色の肌にはかすかにひっかき傷の跡のようなものがついている。
「どうしたん」
 浅葱が部屋に戻ってきた。水の入った小さな桶を一つ抱えている。
 シュウは思い詰めた表情で浅葱に向かって口を開くが、その口から言葉は出てこなかった。代わりに浅葱の方から話しかける。
「怖い夢を見たの?」
 シュウが目を見開いた。浅葱の口から流れ出した言葉は、彼の故郷の言葉であるハインリッヒ語だった。まるで堰を切ったように彼の口から言葉が溢れ出す。
「あれは夢じゃないよ! 夢じゃない、だって本当に痛かったし苦しかったんだ、手も足も焼けて、血だって、本当に夢じゃなかったんだ!」
「うん」
「全部夢だと思ったんだ、だって僕のベッドで目が覚めたんだもの! 僕だけ一人ミサギ国にきて、父さんも母さんもディックもみんな行方が分からないなんて、そんなの全部悪い夢だったと思ったのに!!」
「そっか」
「僕は……死んだんだ。ザーラで女の子をかばって死んだんだ。なのに……どうしてまた、目が覚めるの」
 頭を抱えるようにして、シュウは言葉を途切れさせた。泣くまいと思うのに、涙がにじみ出てきてしまう。殺しきれない嗚咽が漏れる。
 浅葱は何も言わず、子供にするようにシュウの頭をぽんぽんと優しく叩いた。その動作で、シュウは自分があまりに子供っぽい挙動をしていると思い知らされる。怖い夢を見て泣き出すなんて大人のすることではない。たとえそれがどんなに恐ろしく現実としか思えないような夢だったとしても。
 今までのことは夢だったのだ。部屋のベッドの中で目を覚まし、ディックと二人で卒業試験を受けて、その後にザーラが地獄絵図になったのも、全部夢だったのだ。そうでなければおかしい。彼は夢の最後に、瓦礫に押しつぶされて命を落としたのだから。
 シュウは改めて自分の手足をまじまじと見つめた。特に大きな怪我もなく、普通に手足がくっついていることが信じられない。夢の中で負った火傷の痛みがまだ残っているような気すらするのだ。
 ふと恐ろしい考えが頭をかすめた。ひょっとすると、今こそ夢を見ているのではないのだろうか。彼は現実にはミサギ国になんか来ていなくて、地獄と化したザーラで死にかけているのではないだろうか。瓦礫に押しつぶされて死んだと思ったが、まだ辛うじて息があり、朦朧とする意識の中で夢を見ている――そんな可能性はないか? 常識的に考えれば、かならず数日はかかる危険な道を越えて、シュウ一人が一晩でミサギ国にやってきたというのはおかしい。それは夢の中だからではないのか? 夢の中では鳥のように空を飛ぶことも、魚のように自在に海を泳ぐことだってできるのだ。一晩で知らない国に移動するなんてことも夢の中ならば朝飯前だ。
 もしこれが真実なら、彼の命は今にもザーラの道端でむなしく尽きようとしているのだ。シュウは身震いした。
「ほら、顔洗って。ひどい顔をしてるよ」
 浅葱が持ってきた桶を差し出した。まだハインリッヒ語を話している。浅葱の言葉は、彼が異国の人間であることを忘れるほどなめらかだ。このために彼はシュウのそばについているのだろう。今のシュウにとっては、何も考えずに誰かと話せることがただただありがたかった。
 シュウは水をこぼさないように気をつけながら顔を洗いため息をついた。水面に映る自分の顔にはやはり火傷の跡などない。
「ザーラの夢だったの?」
 白い手ぬぐいをシュウの顔に押し付けながら浅葱が尋ねる。シュウは頷き、沈んだ声で答えた。
「五月九日だった」
「……それはつまり、シュウくんが御鷺国に来た日を」
「そうじゃ……ないんだ。だって、僕、夢の中で死んだんだもの。ミサギ国に行くなんて絶対無理だった、あんな状態じゃ」
 手ぬぐいの上から顔を覆って目を閉じていると、脳裏にふっと地獄の風景がよみがえった。額にぐっと爪を立てる。
 浅葱はじっとシュウの様子を観察したのち軽く肩をすくめて、隣の部屋にミサギ語で声をかけた。
「そろそろ、よろしく」
 襖が音もなくすうっと開く。隣の部屋から女性が一人現れた。艶のある紺色の長い髪を後ろでまとめた中年の女性だ。一瞬知らない人だと思ったが、すぐに思い出した。確か名前は、牡丹と言ったか。地下牢で手当てをしてもらったのだ。自分に向けられる視線の鋭さにシュウは少し居心地が悪くなる。松葉もそうだが、ミサギ国に来て出会う人はあまりシュウに対して友好的ではないようだ。敵視されているというほどではないようだが。
「青い顔をしていますね。薬は飲んでいますか?」
「え、あ」
「そうや、薬飲まんと。お粥あっためてくるわ」
 牡丹の質問に浅葱が答え、席を立った。牡丹はシュウの横まで来ると、白い手を彼の額にあてて熱をはかる。
 彼女に手当をしてもらっていたときは高熱に苦しんでいたのだった。あの時は彼女の手が冷たくて気持ちよかったが、今はそれほど温度差を感じない。
「具合はどうですか?」
「あ……だ、だい、だいじょうぶ、です」
「そうは見えませんね」
 牡丹は額にあてた手を下ろし、シュウの胸元の、心臓のあるところにそっと触れる。
「力を抜いてください」
 牡丹がもう一つの手を自分の胸元にあてる。シュウは大きく息を吐いて、言われた通りに体の力を抜いた。彼女の手の下、着物の下から緑がかった淡い光がじわりと漏れる。それと同時にシュウの体が温かい何かに包まれた。見た目には何もないように見えるのだが、まるで春の陽気の中で日向ぼっこをしているかのような、そんな温もりを感じる。
 緑がかった光がゆっくり消えていくとともに、体を包む温もりも失われていった。シュウの体はどことなく軽くなっていた。それだけではない。温もりに包まれることは思いの外ほっとするもので、恐ろしい体験に縮みあがっていた心もほんの少しだけ軽くなったような気分だった。牡丹の顔を見上げる。あなたも魔術師なのですか、と尋ねたかった。シュウも魔術師だが、彼は専用の杖を持っていないと魔術をうまく扱うことができない。だが牡丹は杖などの道具を何も持たずに不思議な力を使っていた。
 牡丹はシュウの表情から、彼が何か言いたがっていると察したらしい。無言で彼の言葉を待っているが、困ったことに彼はミサギ語で魔術師を何と呼ぶのか知らなかった。通訳をしてくれる浅葱も今は席を外している。
「ええと、ありがとう、ございます」
「いえ」
 シュウは尋ねることを諦め、ひとまずお礼だけは言っておくことにした。ぺこりと頭を下げてまた上げる。簡潔に答えた牡丹の顔に一瞬だけ笑みが浮かんだような気がした。シュウが瞬きをすると彼女の顔はまた元の無表情に戻ってしまう。気のせいだろうか。
「吸い込んだ毒はほぼ抜けましたので、もう心配はいりません」
「はい」
「あとは食事と睡眠、それに充分な休息をとることです」
「はい」
 牡丹の言葉にシュウがいちいち頷いていると、浅葱が粥の入ったお椀を持って戻ってきた。
「熱いからゆっくり食べなあかんよ」
「はい」
 浅葱はシュウにお椀を手渡す。そのままシュウの横に腰を下ろすのかと思いきや、彼はさっときびすを返して縁側から庭へ下りた。畑の小さな畝の間を歩いていた鶏がココッ、と鳴き声を上げて逃げていく。彼は森に向かって歩きながら片手を振った。
「お客さん、もてなしてくるわ」
「え」
 シュウがぽかんと呆けている間に、浅葱の背中は暗い森の中に見えなくなってしまった。思わず牡丹の顔を見て、説明を求める視線を送る。
「妖異です」
「用意……なんの、ですか?」
「狼か、もしくは熊でしょうね」
「へ?」
 さっぱり分かっていない様子で首を傾げるシュウの態度で、牡丹がすれ違いに気付いた。
「妖異というのは、あなたの国の言葉で、もんすたあ、のことです」
「え、ああ、そうでした。じゃあ、お客さんって」
「もんすたあ、ですね」
 牡丹の発音にはかなり違和感があったが、異国の人間ならこんなものだ。シュウはなるほどと頷きかけてから、事の重大さに気付き顔を強ばらせる。モンスター改め、「妖異」がお客さんということは、この家の近くまで来ているということだ。それを浅葱は一人で迎え討ちに行ったのか。
「浅葱を心配することはありません」
 まるでシュウの心を読んだかのように牡丹がそう告げる。心配するなと言われても無理な話だ。
「でも、危ないです」
 浅葱が強いことは分かっているが、たった一人で戦いを挑むのは危険だろう。ここは深い森の中で視界が悪い。シュウはこの家に来る前に森の中で見た狼を思い出す。またあの狼たちが襲ってきたのだろうか。あの時は恐怖で本当に身がすくんだ。ザーラでの卒業試験の相手があの狼の方だったら、彼は合格できなかったかもしれない。
 浅葱が消えていった森の中はとても静かだ。つい今歩いていったはずの浅葱の気配は早くも消えてしまったし、妖異の気配など全くない。何か動くものが見えないかと、シュウは布団から身を乗り出して縁側の方へ向かった。ずっと寝ていたせいで四肢にはうまく力が入らないが、四つん這いの体勢にはなることができた。掌と膝に畳の独特な手触りを感じる。開いた障子によりかかり、ぺたりとお尻をつけて座り込んだ。布団の中にいるより庭がよく見える。森も広く見渡せるが、やはり何の気配も感じられなかった。
 シュウの行動を黙って見守っていた牡丹は、その時確かにはっきりと笑みを浮かべた。それはある程度の年齢に達した人間が幼子に対して浮かべるような優しい笑みであり、シュウがそれを見たらとても驚いただろう。彼女のそれまでの態度からは想像しがたいものだからだ。だが、それはほんの一瞬のことであり、シュウがそれに気付かないうちに、彼女は意識的に笑みを消してしまった。
 そうして無表情に戻った牡丹が、シュウの背中に話しかける。
「少し、話をしましょうか」
 シュウが振り向く、その顔には戸惑いが現れていた。浅葱のことが心配ではないのか、と言いたいのだ。牡丹は無視して続けた。
「私たちが何者なのか、ここがどういう場所なのか。浅葱からは何か聞きましたか」
「あんまり、よく分からないです」
「そうですか」
 牡丹はかすかに頷く。
「あまり詳しいことはお話できませんので、簡単にお話します。ここは、隠れ里です」
「かくれざと」
 鸚鵡返しに呟いてはみたが、シュウの知らない言葉だった。一生懸命頭を回転させ意味を考える。
「かくれざとって、つまり、隠れているってこと、ですか」
「そうですね。ここに私たちが住んでいることは、この御鷺国の誰にも知られてはならないことなのです」
「誰にも? どうしてですか」
「公に存在してはならない集団ですから」
 よく分からない。分からないが、とにかく彼らは人の目を避けてここに住んでいるということだろうか。牡丹は「私たち」と言った。シュウは浅葱、牡丹、松葉、他にも何人かの姿を見ている。この浅葱の家はそれだけの人数で住むには少し狭いのではないだろうか。
「あの、もしかして、他にも家があるんですか」
「ええ」
 思った通りだった。しかし、シュウがいくら外の風景を眺めても、近くに家があるようには見えない。
「普通の里というのは家が集まっているものですが、この里では一つ一つの家が離れて建っています。万が一外の人間に発見された時に、その方が都合がよいですし。何よりも、妖異の侵入を防ぐことができなかった時に被害を最小限に抑えることができます」
 たとえば今この時のように、と牡丹は付け加えた。ということは、妖異を迎え討っているのは浅葱一人ではないのだろう。離れて建っているという他の家の人たちも一緒に戦っているのだ、きっと。シュウが牢屋から連れ出された時にも、彼らの仲間らしき人が何人かいた。そうでなければ牡丹もこれほど落ち着いてはいられないだろう。


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