第二章:目覚めればそこはベッドの中 --3



「あー、びっくりした」
「なんだよ、だらしないな。俺はびっくりしなかったぜ」
「えぇ? 嘘だ、だってディック、めちゃくちゃ油断してたじゃん」
 試験場を出た二人は上機嫌だった。卒業試験には無事合格した。生まれて初めてモンスターと戦ったのに、こちらは二人とも怪我ひとつなく、不意打ちにも完璧に対応することができた。討伐隊の兵士となるには、常に周囲への警戒を怠ってはならない。目先の勝利に一喜一憂し、敵に隙を見せるようなことでは兵士として認められないということらしい。
 合格したにも関わらず、倒したあとに隙を見せまくっていた二人は教官にしばらく小言を言われた。だが、とにかくこれで晴れて討伐隊の一員となれるのだ。卒業式や入隊式、そしてそれに伴っていろいろな準備が必要になる。てっきりそれに関する連絡を受けてから解散になるのだろうと思っていたが、二人はすぐに試験場を追い出されてしまった。彼らの後にも卒業試験を受ける者がいるのだろう。実際、工場の壁に沿って町の中心へと続く道を歩いていくうち、少し固い顔をした少年二人組とすれ違った。話をしたことはないが顔を見かけたことがある。恐らく士官学校の同級生だろう、と思っていると、ディックが「よう!」と片手を挙げて声をかけた。少年たちは強ばった笑みを返す。
「ディック、合格か?」
「当たり前だろ。お前らもせいぜい頑張れよ!」
「お前が通ったんなら大丈夫だろ」
「そんな事言って、後で泣いたって知らないぜ?」
「だーれが泣くかよ」
 ディックと少年たちはふざけた調子で二三言を交わす。少年たちはそれだけで少し緊張がほぐれた様子で、シュウの方にも笑いかけた。
「カトライゼ、だっけ。合格おめでとう」
「ありがとう。君たちも頑張ってね」
「えー、おい、俺にはおめでとう、ないのかよ?」
「そろそろ行かないと遅刻しちまう」
「だな。それじゃ」
 少年たちはにやにやと意地悪そうに笑ってディックを横目で見つつ、わざとらしく慌てたそぶりをして足早に立ち去っていった。シュウは思わずつられて笑ってしまう。
「なんだよ、シュウのくせに」
「僕のくせに、ってどういうことだよ」
「泣き虫で臆病虫のシュウ君に笑われるなんて、俺も落ちたもんだ……」
 ディックがああ、と空を仰ぐ。その芝居がかった動作から冗談だと分かってはいるものの、シュウは少し顔が赤くなるのを感じながら反論した。
「なんだよ、小さい頃は確かによく泣いてたけど、もう泣かないよ。臆病でもないし」
「でもお前、試験が始まる時はちょっとびびってたじゃん」
「びびってなんかないよ」
「いーや、びびってたね。足が震えてたの俺は知ってる」
「あの時はむしろ、モンスターって意外と小さいんだな、って思ってたんだよ」
 足が震えていたのは本当のことだったが、シュウはそのことには触れずに言い返した。緊張していたのはディックも同じのはずで、彼にもシュウの足なんかを見ている余裕はなかっただろう。ひょっとしたらディックの足も震えていたのかもしれない。
 ディックはへえ、と驚いた顔をして見せて、工場の外壁に寄りかかり遠くに見える高い山を見上げる。
「俺はむしろ思ってたより大きく見えたな。子供の頃から何度も見てたはずなのに、間近で見ると全然違うものみたいだった」
 この世界の中心には世界一高い山がそびえている。天高くそびえるこの山は世界中のどこからでもその姿を見ることができる。左右均等ですっきりとしたその姿はとても美しいものだが、俗に「魔の山」と呼ばれ忌み嫌われている。この山には昔からとあるいわれがあるのだ。それは、この世に生まれる全てのモンスターのふるさとがあの「魔の山」である、というものだ。モンスターはあの忌まわしい山の中で生まれ、いくつもの山を越えるうちにどんどん大きく凶暴になり、人里を襲ってくるのだという。
 それが本当のことかどうかを確かめた人はいない。町、ザーラを取り囲む塀の中は人間の領域だが、そこから山へ一歩踏み出したらそこはもうモンスターの領域だ。領域を外れた人間など、モンスターのいい餌である。唯一の例外である越境商人たちも、山を越えるにあたってはできる限り魔の山に近付かないルートを選ぶ。魔の山に近付けば近付くほどモンスターの数が増え、より凶暴になっていくからだ。
「俺たち、本当にモンスターと戦うんだよな」
「そうだね。こうしてる今だって、警鐘の音が聞こえたら……」
「すぐに武器をとって駆けつける」
「だね」
 シュウも振り返って遙かに魔の山を見やった。どんな敵がやってきても、これからは自分たちがこのザーラを守らなければならないのだ。山から下りてきた風が二人に吹き付ける。巻き上がった砂煙から目をかばいながら、シュウは風の中に獣の臭いを感じたような気がした。
 ふと時刻が知りたくなりシュウは辺りを見回すが、あいにく近くに時計は見当たらなかった。だが時計が見られなくとも大体の時間は分かる。試験の開始時刻が正午ちょうどだったので、今は十二時半ごろだろう。お昼時だ。もしかすると、家では首を長くしてシュウが帰ってくるのを待っているかもしれない。
「ディック、僕そろそろ家に帰るね」
 シュウは気分が高揚していたこともあり、ディックの返事を聞く前に足取り軽やかに歩きだす。
 そして、ディックの返答が聞こえるより前に、すさまじい轟音と閃光が彼の五感を奪った。彼の体は冗談みたいに遠くまで吹き飛ばされ、固くてごつごつしたものの上に叩きつけられる。ショックが大きすぎて痛みすらとっさには分からなかった。視覚と聴覚が馬鹿になってしまっていて、何も見えないし何も聞こえない。シュウにできるのはただ情けない呻き声を上げることだけだった。空気はやけに熱く、肺が焼けそうだ。手足もまるで炎にあぶられているかのように熱い。いや、比喩ではなく、実際にあぶられているのだ。
 視覚が少しずつ戻ってくると、そこは地獄だった。辺り一面は火の海になっている。足の踏み場もないほど瓦礫があちこちに転がっていて、シュウが倒れているのも瓦礫の上だった。先程まであった工場の壁はもはやどこに立っていたのか分からない。工場の中の建物も半壊しており、それぞれ大きな火柱を上げて空を焦がしている。空にはぞっとするような黒い大きな雲が広がっていた。さっきまできれいに晴れていたのが嘘みたいだ。
「ディック」
 聴覚の方は完全には戻っていない。ぐわんぐわんと耳鳴りがする。自分の声はかすれている上にエコーがかかったような感じで、まるで他人の声みたいに聞こえる。
 返事はない。瓦礫の上でふらつきながらも立ち上がると、シュウの体があったところには赤い液体がべたりとついていた。背中を怪我してしまったのかもしれない。だが彼には本当に怪我があるのかよく分からなかった。何しろ全身が痛いのだ。顔も手も足も胸も体の中も痛い。それならばきっと背中も痛いのだろう。あまり考えたくないことだった。彼は幽霊のような表情でディックを探す。すぐ隣にいたはずなのに、彼の姿は見えない。耳鳴りが止まらない。
 小屋かなにかの前で少女が座り込んで泣いている。彼女のそばへ近付いていくと耳鳴りがどんどん強くなった。そうして、これは耳鳴りではなく彼女の泣き声だと気付く。少女は髪の毛も服も少し燃えた跡があり、服の下からのぞく手足には酷い火傷を負っているようだ。シュウはぞわりと鳥肌が立つような思いだった。恐らくこの少女の惨状は、今自分の身にも起こっているのだ。
「だい、じょうぶ」
 少女の傍らに膝をついて尋ねるが、少女はただ泣き続けた。耳鳴りのような声に耐えながら、これだけ泣く体力があるのならきっとこの子は助かるだろうと考える。シュウはそう思っていたかった。実際には少女の鳴き声はすすり泣きに近いもので、顔を上げてシュウに答える気力すらなかったのだが、彼にはもうその現実を受け入れるような余裕がなかった。
「だい、じょうぶ、だよ」
 少女のすぐ横に壊れた屋根の破片が落下してきた。小屋が崩れる。シュウは反射的に少女に覆い被さるようにして彼女を抱きかかえた。耳鳴りは止まらない。小屋の崩れる音も聞こえはしない。ぼろぼろになっているだろう全身が重たいものに押しつぶされた感触を最後に、彼の意識は途切れた。


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