第3章:咲いた白い花 --2



 牡丹はシュウの表情から、彼が何か言いたがっていると察したらしい。無言で彼の言葉を待っているが、困ったことに彼はミサギ語で魔術師を何と呼ぶのか知らなかった。通訳をしてくれる浅葱も今は席を外している。
「ええと、ありがとう、ございます」
「いえ」
 シュウは尋ねることを諦め、ひとまずお礼だけは言っておくことにした。ぺこりと頭を下げてまた上げる。簡潔に答えた牡丹の顔に一瞬だけ笑みが浮かんだような気がした。シュウが瞬きをすると彼女の顔はまた元の無表情に戻ってしまう。気のせいだろうか。
「吸い込んだ毒はほぼ抜けましたので、もう心配はいりません」
「はい」
「あとは食事と睡眠、それに充分な休息をとることです」
「はい」
 牡丹の言葉にシュウがいちいち頷いていると、浅葱が粥の入ったお椀を持って戻ってきた。
「熱いからゆっくり食べなあかんよ」
「はい」
 浅葱はシュウにお椀を手渡す。そのままシュウの横に腰を下ろすのかと思いきや、彼はさっときびすを返して縁側から庭へ下りた。畑の小さな畝の間を歩いていた鶏がココッ、と鳴き声を上げて逃げていく。彼は森に向かって歩きながら片手を振った。
「お客さん、もてなしてくるわ」
「え」
 シュウがぽかんと呆けている間に、浅葱の背中は暗い森の中に見えなくなってしまった。思わず牡丹の顔を見て、説明を求める視線を送る。
「妖異です」
「用意……なんの、ですか?」
「狼か、もしくは熊でしょうね」
「へ?」
 さっぱり分かっていない様子で首を傾げるシュウの態度で、牡丹がすれ違いに気付いた。
「妖異というのは、あなたの国の言葉で、もんすたあ、のことです」
「え、ああ、そうでした。じゃあ、お客さんって」
「もんすたあ、ですね」
 牡丹の発音にはかなり違和感があったが、異国の人間ならこんなものだ。シュウはなるほどと頷きかけてから、事の重大さに気付き顔を強ばらせる。モンスター改め、「妖異」がお客さんということは、この家の近くまで来ているということだ。それを浅葱は一人で迎え討ちに行ったのか。
「浅葱を心配することはありません」
 まるでシュウの心を読んだかのように牡丹がそう告げる。心配するなと言われても無理な話だ。
「でも、危ないです」
 浅葱が強いことは分かっているが、たった一人で戦いを挑むのは危険だろう。ここは深い森の中で視界が悪い。シュウはこの家に来る前に森の中で見た狼を思い出す。またあの狼たちが襲ってきたのだろうか。あの時は恐怖で本当に身がすくんだ。ザーラでの卒業試験の相手があの狼の方だったら、彼は合格できなかったかもしれない。
 浅葱が消えていった森の中はとても静かだ。つい今歩いていったはずの浅葱の気配は早くも消えてしまったし、妖異の気配など全くない。何か動くものが見えないかと、シュウは布団から身を乗り出して縁側の方へ向かった。ずっと寝ていたせいで四肢にはうまく力が入らないが、四つん這いの体勢にはなることができた。掌と膝に畳の独特な手触りを感じる。開いた障子によりかかり、ぺたりとお尻をつけて座り込んだ。布団の中にいるより庭がよく見える。森も広く見渡せるが、やはり何の気配も感じられなかった。
 シュウの行動を黙って見守っていた牡丹は、その時確かにはっきりと笑みを浮かべた。それはある程度の年齢に達した人間が幼子に対して浮かべるような優しい笑みであり、シュウがそれを見たらとても驚いただろう。彼女のそれまでの態度からは想像しがたいものだからだ。だが、それはほんの一瞬のことであり、シュウがそれに気付かないうちに、彼女は意識的に笑みを消してしまった。
 そうして無表情に戻った牡丹が、シュウの背中に話しかける。
「少し、話をしましょうか」
 シュウが振り向く、その顔には戸惑いが現れていた。浅葱のことが心配ではないのか、と言いたいのだ。牡丹は無視して続けた。
「私たちが何者なのか、ここがどういう場所なのか。浅葱からは何か聞きましたか」
「あんまり、よく分からないです」
「そうですか」
 牡丹はかすかに頷く。
「あまり詳しいことはお話できませんので、簡単にお話します。ここは、隠れ里です」
「かくれざと」
 鸚鵡返しに呟いてはみたが、シュウの知らない言葉だった。一生懸命頭を回転させ意味を考える。
「かくれざとって、つまり、隠れているってこと、ですか」
「そうですね。ここに私たちが住んでいることは、この御鷺国の誰にも知られてはならないことなのです」
「誰にも? どうしてですか」
「公に存在してはならない集団ですから」
 よく分からない。分からないが、とにかく彼らは人の目を避けてここに住んでいるということだろうか。牡丹は「私たち」と言った。シュウは浅葱、牡丹、松葉、他にも何人かの姿を見ている。この浅葱の家はそれだけの人数で住むには少し狭いのではないだろうか。
「あの、もしかして、他にも家があるんですか」
「ええ」
 思った通りだった。しかし、シュウがいくら外の風景を眺めても、近くに家があるようには見えない。
「普通の里というのは家が集まっているものですが、この里では一つ一つの家が離れて建っています。万が一外の人間に発見された時に、その方が都合がよいですし。何よりも、妖異の侵入を防ぐことができなかった時に被害を最小限に抑えることができます」
 たとえば今この時のように、と牡丹は付け加えた。ということは、妖異を迎え討っているのは浅葱一人ではないのだろう。離れて建っているという他の家の人たちも一緒に戦っているのだ、きっと。シュウが牢屋から連れ出された時にも、彼らの仲間らしき人が何人かいた。そうでなければ牡丹もこれほど落ち着いてはいられないだろう。
「ここはちょうど、妖異の住む山の麓なのです。山を下りて村や町を襲おうとする妖異の目の前に立ち塞がった状態ですね」
「どうして、そんな危ない場所に……」
「危険だからです。私たちの使命は妖異どもの脅威からこの国を守ること。山を下りてくる妖異は全て討ち果たさなければなりません」
 つまりは、ザーラの町における討伐隊のような存在なのだろうか。しかし、それならばなぜ人目を避けて隠れ住む必要があるのか。人々を守るために妖異と戦っているのだったら、本来は感謝されてしかるべきだろう。ザーラでは討伐隊は尊敬されている。少年たちの憧れの存在と言ってもいい。
 ふと、牡丹が視線を森の方へ投げた。つられて同じ方を見てみると、いつの間にやって来たのか松葉が庭に立っている。シュウは少し驚いたが、だんだん慣れてきてもいた。彼らは相当に特殊な人々なのだ。
 松葉の服には多少の返り血がついていたが、怪我をしている様子はなさそうだ。彼は地面に膝をついて頭を下げた。シュウは彼の体調が悪いのかと心配したが、すぐにそれがこちらの国での拝礼の仕草だと思い出した。


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