第三章:咲いた白い花 --2



「ここはちょうど、妖異の住む山の麓なのです。山を下りて村や町を襲おうとする妖異の目の前に立ち塞がった状態ですね」
「どうして、そんな危ない場所に……」
「危険だからです。私たちの使命は妖異どもの脅威からこの国を守ること。山を下りてくる妖異は全て討ち果たさなければなりません」
 つまりは、ザーラの町における討伐隊のような存在なのだろうか。しかし、それならばなぜ人目を避けて隠れ住む必要があるのか。人々を守るために妖異と戦っているのだったら、本来は感謝されてしかるべきだろう。ザーラでは討伐隊は尊敬されている。少年たちの憧れの存在と言ってもいい。
 ふと、牡丹が視線を森の方へ投げた。つられて同じ方を見てみると、いつの間にやって来たのか松葉が庭に立っている。シュウは少し驚いたが、だんだん慣れてきてもいた。彼らは相当に特殊な人々なのだ。
 松葉の服には多少の返り血がついていたが、怪我をしている様子はなさそうだ。彼は地面に膝をついて頭を下げた。シュウは彼の体調が悪いのかと心配したが、すぐにそれがこちらの国での拝礼の仕草だと思い出した。
「状況は」
「娘を一人保護しました。妖異の狙いはその娘かと思われます。境界を越えても追ってくるので、対応のためこちらの守りが薄くなっております」
 松葉はそこまで言うと、ばっと森を振り返り目にもとまらぬ速さで何かを投げた。おぞましい悲鳴があがる。シュウは傍目に見ても分かるほど大きくびくりと震えた。松葉も牡丹もあまりに平静だったので、妖異がそこまで近くに迫っているとは思っていなかったのだ。
「躊躇する様子が全く見られません。仲間の屍さえ踏み越えてこちらへ向かってきます」
「奇妙ですね」
 縁側で固まっているシュウの肩を掴んで引き戻し、牡丹は縁側へと移動する。縁側の下に手を差し入れて何か白いものを持ち上げた。鶏だ。拾い上げられた二羽は縁側の隅で身を寄せ合って、ぷるぷると震えている。妖異の気配に怯えているのだ。さっきまでは呑気に庭を歩いていたのに。
「外へは出ないでください。家の中にいれば妖異は近付けません」
「あ、はい……」
 シュウは素直に頷いて部屋の中へ下がる。
「娘はどこに?」
「頭領の元です。まだ到着はしていないと思いますが」
 ざざっ、と葉の擦れる音が聞こえた、と思った瞬間、藪の中から浅葱と狼がひとかたまりになって転げ出てきた。勢いよくごろごろと転がって、狼が下になったときに刀で額を一突きする。ガキン、と物騒な音を立てて狼の立派な顎が空を噛んだ。
 浅葱を追ってまた別の狼が飛び出してきた。藪の中から跳躍したその狼は、短槍を抜いた松葉に迎えうたれ、頭から彼の刃に飛び込むはめになる。ざっくりと裂けた死体がどっと地面に突っ込んだ。跳ね起きた浅葱と松葉は庭の真ん中で背中合わせになると、それぞれの武器をかまえなおす。よく見ると、二人は畑の野菜を踏まないように避けて立っていた。息も切れておらず、余裕たっぷりである。牡丹に至っては縁側に座ったまま身動きもしていない。
「大丈夫やで、シュウくん」
 浅葱がそう言った途端、生い茂る草の影から狼が次々と姿を現した。全部で六匹だ。二人を囲みじりじりと包囲網を縮めてくる。不思議なことに、狼たちの視線は全くシュウと牡丹のいる家の方には向かなかった。普通ならば縁側にいる鶏なんかが真っ先に食い殺されているだろう。
「うん、そうそう。そうやってまとめて来てくれると助かるわ」
「無駄口を叩くな」
「はいはい」
 松葉に厳しい口調で諌められ、浅葱は肩をすくめた。それを隙と見たのか、狼のうちの一匹が牙をむいて飛びかかる。ぱっくりと大きく開いた口の中に刀が突き刺さり、脳天まで貫通した。刀を抜きながら死骸を蹴り飛ばす。近くにいた別の狼が、落ちてきた死骸を避けて横に跳ぶ。野菜が踏まれてぐしゃりと潰れた。
「あ」
 浅葱が眉をひそめつつ地を蹴る。助走もなしに跳んだとは思えない跳躍力で一っ跳びに狼の目前に迫る。浅葱の足に噛みつこうと口を開いた途端切り捨てられた。
 松葉の方には一度に二匹の狼が向かった。短槍を両手に持ちかえ、力いっぱい振り回して二匹を突き飛ばす。くるりと綺麗に一回転して狼が着地する、と同時に、翻った短槍が一匹の喉を切り裂いた。二匹目は頭を狙うが、鋭い牙で刃先に噛みつかれ急所を傷付けるには至らない。松葉はあっさりと短槍を手放し、返す手で腰から短刀を抜く。抜いた、と思ったときにはもう狼の頭の上半分が削られていた。短槍を回収する間もなく、また二匹が松葉を狙う。地を蹴って自分から狼に接近し、短刀で喉を切り裂く。着地して素早くもう一匹の方を振り返るが、そちらは浅葱の手で真っ二つにされた後だった。
 それで最後だった。文字通りあっという間だ。シュウは部屋の中に隠れることも忘れて、二人の戦う姿を呆然と見ていた。彼の故郷のザーラには討伐隊の兵士が大勢暮らしている。当然彼らが戦っている様子も見たことがあるし、訓練を見学したこともある。一般人ならともかく、彼は士官学校に通っていたのだ。教官の中にも兵士の中にも、この二人のような動きをする者を見たことはなかった。全ての動作が速すぎるのだ。ずっと見ていたシュウも、彼らが実際にどのように動いていたのかはほとんど分かっていない。浅葱が消えたと思ったらこちらの狼が倒れ、松葉が消えたと思ったらあちらの狼が倒れ……というような状態だった。
「遅い」
 牡丹が口を開いた。静かになった庭に彼女の声はよく通る。浅葱がまるで叱られた子供のような顔で振り向いた。いや、実際に叱られているのだろうが。
「厳しいなあ、もう」
 松葉が浅葱の頭をばしっと叩き、牡丹に頭を下げる。浅葱は何か言いたそうに彼を振り返るが、彼が頭を上げないのを見て諦めたようだ。
 これでも遅いのか、とシュウは内心で舌を巻いていた。彼らの戦いを見ていると、ザーラで卒業試験を受けたときの自分の戦いがひどく不格好なものだったと思えてくる。試験に受かって一人前の兵士になれたと喜んでいたけれども、あれぐらいで一人前と本当に言えるのだろうか。あれは夢の中で受けた試験だから、本当の試験とはまた違うのだろうけれども。
「まあ、いいでしょう。松葉、こちらの守りはもう必要ありません。あちらの援護に回りなさい」
「はい」
 松葉がもう一度頭を下げ、狼の口にくわえられたままの短槍を引き抜きにかかった。平和だった庭には大量の血がしみ込み、妖異の死体がごろごろ転がっている。短槍が刺さっているのは、上半分を切り取られた狼の頭部だ。目も耳もなくなってしまったが、鋭い牙は残っていて短槍の刃にがっちりと噛みついている。牙の間から見える赤い塊が切り刻まれた舌の残骸だと気付いた瞬間、シュウの背筋がぞわりと冷たくなった。牙にこびりつくように残った歯肉、頬の肉をぐちゃりと踏み潰して短槍が引き抜かれる。野菜の葉に血飛沫が飛ぶ。
「シュウくん!」
 唐突に、シュウは強烈な吐き気を催した。できれば家の中で吐くべきではないだろうと、這って縁側へ出る。こらえきれずに吐いてしまった胃液が縁側の板の上に垂れた。胃の中には吐くものは何もないので、酸っぱい臭いがする液体だけが口からこぼれていく。縁側よりも更に身を乗り出して地面の上で吐こうとすると、牡丹に帯を掴まれ引き戻された。
「出てはもっと苦しくなります。吐くならここで」
 牡丹は水の入った桶をとり、中の水を捨ててシュウの口元へ寄せる。
「どうしたん? 大丈夫か?」
「近付かないで、早く身を清めてきなさい。まさかその恰好で彼を背負うわけにはいかないでしょう」
「あ、そっか。じゃあ行ってきます」
 いざ桶の上で吐こうとすると、思っていたよりも胃液は出てこない。桶を押しやってうつ伏せに体を寝かせた。牡丹の手が背中をさすってくれる。あのじわりとした温かさにまた包まれて、心地よさに思わず目を閉じそうになった。それをこらえて身をよじり牡丹を見上げる。
「あの、ヨ……ヨウイ、は」
「もうこちらへは来ません。ご心配なく」
 牡丹は淡々と答えたが、シュウの目から不安の色が消えないのを見て付け加えた。
「妖異どもは普通、この里の中へ入ってくることはできません。あなたもここへ入る際に黒い服を着た人を見ましたね。彼らはいわば門番であり、彼らに許可を得なければ里へ入ることはできません。里の周りには目に見えない結界が張り巡らされています。先程の妖異は松葉たちについて侵入してしまったのでしょう」
「ケッカイ……」
「見えない壁のようなものです」
「壁、ですか」
 シュウは頷いた。彼の言葉で言うと、結界とは恐らくバリアみたいなものだ。
 庭の方を見ないように、彼はまた床の上に体を横たえる。牡丹が部屋の中から布巾を持ってきてシュウが吐いたあとを片付けてくれた。
 横になっているシュウの後ろで動くものの気配がした。振り返ってみればそこには、いつの間に移動してきたのか二羽の鶏が小さく身を寄せている。ぷるぷると震えているようにも見える鶏たちは、見知らぬ人間であるシュウを恐れる様子はない。シュウよりも、どこかに潜んでいるかもしれない妖異の方が恐ろしいのだろう。当たり前だ。シュウとて恐ろしい。もっとも、牡丹の言うことが本当なら妖異はもう近くにはいないはずだが。
 怯えている様子が憐れに思えるが、シュウにしてやれることは何もない。まさか犬や猫のように頭を撫でてやるわけにはいかないし、襲ってくる妖異から守ってやることがそもそもできない。せめて杖があれば。
 そう、杖だ。シュウははっと顔を上げた。本来なら彼にだって戦う手段はあるのだ。彼はザーラで見習いの魔術師だったのだから。試験に受かったのは夢かもしれないが、試験に向けて魔術の練習を繰り返してきたのは夢ではない。杖さえあれば使える魔法がいくつかある。シュウは起き上がり、きょろきょろと部屋を見回して杖を探すが、とりあえず目に付くところには置かれていないようだ。
「牡丹さん」
「はい」
「僕の、杖はどこですか」
 牡丹が少し首をかしげる。杖というだけでは意味が伝わらないかもしれないと思い、補足しようと口を開きかけた途端、彼女が答えた。
「あなたが発見されたときに身に着けていたものでしたら、今から浅葱が持ってきます。ですが、杖はありませんでしたね」
「え……」
 杖はなかった、ということは、少なくともザーラに着いたときには杖を持っていなかったということだ。持ってこなかったのか、途中で失ったのか。どちらかは分からないが、どちらにしても今は杖を手にすることはできないということだ。
「あの、代わりに何か、貸してもらえませんか」
「代わり、ですか」
 魔法を使うにあたっては、やはり長年愛用してきた杖を使うのが一番やりやすいのだが、異常な事態にある今はそんなことを言っていられない。この隠れ里とかいう場所にいる間は浅葱たちが守ってくれるかもしれないが、シュウはいずれ故郷に戻らなければならないのだ。その時のことを考えれば、早めに杖を貸してもらい戦いに慣れておいた方がいいだろう。そう考えての発言だったのだが、牡丹の反応はどこかおかしかった。
「あなたの言う杖とは、老人が支えにするものとはまた違う杖なのですね?」
「えっ? あ、はい。魔法を使う、杖です」
「……魔法というのは、術とは違うのですか?」
「え?」
 シュウは質問の意味が分からず、言葉を続けられなくなってしまった。術とは何のことだろうか。


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