第2章:目覚めればそこはベッドの中



 チュンチュン、と小鳥の鳴き声が聞こえる。
 朝だ。目を閉じていても外が明るくなっているのがわかる。シュウは寝返りを打って枕に顔をうずめ、二度寝をすることに決めた。窓から爽やかな風が吹いて花の香りを運んでくる。母の好きな花だ。名前は何だったっけ? この間やっとつぼみから花になったと喜んでいたのは。
「シュウ、そろそろ起きなさいよー」
 階下から母の声が聞こえる。もうちょっと、と答えようとしてシュウは我に返った。かばりと起き上がる。
 彼は自分の部屋のベッドの中にいた。淡いブルーのカーテンがひらひらと揺れている。窓辺を小鳥がちょろちょろ歩き回っていた。落ちた花びらをつついている。あれはアヤメの花びらだ。
「シュウー?」
「母さん、今日って何月何日!?」
 再び聞こえてきた母の声に怒鳴り返す。階下で母の戸惑う気配がした。
「寝ぼけてるの? 五月九日に決まってるでしょう。今日は試験なんだからさっさと支度しなさい」
「……」
「シュウ?」
「は、はーい」
 パタパタとスリッパの音が遠ざかっていった。シュウはしばし呆然として、自分の体を見下ろす。彼は着物ではなくパジャマを着ていた。熱もない。手足も問題なく動く。
「ゆ、め……?」
 口に出してみても信じられなかった。彼は眠りにつく前、ミサギ国の浅葱の家にいたのだ。とても夢だとは思えないリアルな体験だった。畳の感触はまだ手に残っているし、お粥の味だってはっきりと思い出せる。彼はまた眠っている間に山を越えたとでもいうのだろうか。
 だが、そんなことはあり得ない。ザーラには毒の霧が発生しているはずなのだ。シュウは慌てて窓から身を乗り出す。窓辺の小鳥は驚いて青空へ飛び去っていった。窓の外にはプランターがかかっていて、アヤメの花が咲き誇っている。この辺りは住宅が密集しているので、母のように庭いじりを趣味にする人たちにとっては土地が狭すぎる。従ってどの家でも窓の外にプランターをぶら下げそこに花を植えているのだ。石造りの三階建てくらいの建物が並ぶ通りで、色とりどりの花が家の壁を飾る。風が吹くと花のいい匂いを運んでくる。シュウは花に興味はないが、それでも自宅付近の景観は気に入っていた。華やかで明るくて、一家がのんびりと暮らしていくにはとてもいい雰囲気の町だ。
「おはよーう、シュウくーん」
 向かいの家の窓がガタンと大きな音をたてて開き、にこにこ笑ったおばさんが顔を出した。
「おはようございまーす」
「いい天気だねーえ」
 通りをはさんでいるので、少し大きな声を出さないと聞こえない。シュウは両手を口のまわりに持ってきて拡声器代わりにする。
「試験がんばるんだよー」
「ありがとうございまーす」
 おばさんの顔が引っ込んでからも、シュウは外を眺めていた。青空には雲一つない。灰色やベージュ色の石造りの町並みの中には、時折美しい新緑が顔を覗かせている。二軒か三軒ほど向こうの家の屋上では、どこかのおじいさんが小鳥を集めて餌をやっている。いつものザーラの風景だった。
 毒の霧なんてどこにもないじゃないか、とシュウは自分に言い聞かせた。どんなにリアルでもあれは夢だったのだ。だいたい、展開に無理がある。まだ一度も越えたことのない山を一人で越えられるわけがない。士官学校に通ってはいるものの、まともにモンスターと正面切って戦ったことすらないのだ。ザーラを襲ってきた奴らを遠巻きに見たことがあるくらいだ。
(夢に出てきたモンスター、怖かったな……)
 シュウの脳裏に浮かんだのはそのときの光景ではなかった。灰色の毛並みに青く光る鋭い目。あの大きな狼を前にして、彼には戦おうという気はちらりとも浮かばなかった。浅葱がいなければ彼の体はあっと言う間に肉片に変わっていただろう。夢の中でも彼は弱い。
 はあ、と一つため息をついて部屋の中に戻った。制服に着替えてベッドに立てかけてあった杖を手に取る。杖は床から腰の高さまでぐらいの長さの木の棒で、まったく装飾などは施されていない。一番上の太くなったところに青い石がはめ込まれているだけだ。魔術を習い始めたときに買ってもらった初心者用の杖なので、まあそういうものである。子供の頃から毎日のように握りしめたり振り回したりしているのですっかり手になじんでいた。
 シュウは手垢や汗で少しだけ色のついたところに手を添えて、杖をまっすぐ床に向かって振り下ろした。床にぶつかる直前に杖がぴたりと止まり、そこから吹き出すように部屋の空気が渦を巻く。杖を中心にして青い光が細く走り、半径一メートルほどの円を床に描く。幾筋かの光が円から飛び出して蛍のようにシュウの周りを漂い、燃え尽きたように音もなく消えていく。光の動きをしっかりと確認すると、シュウは杖の先をゆっくり床に下ろした。杖の先が床に触れるのと同時に渦を巻く風がやみ、青い光が拡散していった。大丈夫。今日の調子は悪くない。試験だってきっと受かるだろう。モンスターと戦えなくたって今はいいのだ。それは正式に兵士になってから実戦で学ぶことなのだから。
 シュウは勢いよく階段を下りていった。ダイニングテーブルには既に朝食が用意されている。たっぷりジャムをのせたトーストを頬張りながら、シュウは向かいに座る父親の顔を見上げた。父親は仕事の手紙だろうか、なにやら難しい顔をして広げた紙を見つめている。
「今日は、お友達と一緒に行くんでしょう?」
「うん」
 キッチンから出てきた母親にうなずく。父親が目線だけを手紙からシュウの方に向けた。
「遅れないように行きなさいよ」
「わかってるよ。もう行くし大丈夫。ごちそうさま」
 そそくさとトーストを飲み込んで、温かいミルクを一気に飲み干した。床の荷物を手に取る。
「アイシャとカナはもう学校に行ったわよ。お兄ちゃんが緊張しすぎて失敗するんじゃないかって心配してたわ。まったくねえ、あんたは誰に似たのか臆病だものね。せめてもう少しお父さんに似たら、お父さんの仕事を継ぐのも安心して任せられるのにねえ。そうそう、あんた、試験って一人でやるんじゃないんでしょう? 誰と一緒なの?」
「ディックだよ。前にも言ったじゃん」
「ああ、あんたの友達のディック君ね。あの子、素行はあんまりよくないけど、運動神経は昔からよかったから……足を引っ張っちゃ駄目よ。早く実戦経験を積まないと。お父さんのお仕事は兵士よりもっと大変なものなんですからね」
「はいはい。行ってきます」
 お小言は放っておくといつまでも続く。シュウはさっさと靴紐を結んでしまうと、まだ話し足りなそうな母親に軽く手を振って背を向けた。玄関のドアに手をかける。
「がんばれよ」
 ダイニングから聞こえてきた声に思わず振り返った。あいにくシュウの位置からはその姿が見えなかったが、父親の声だ。独り言のようにぼそりと発されたそれになぜだか笑いがこみ上げてきて、シュウは笑みをこぼしながら小さく答えた。
「ありがとう。行ってきます」


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