第一章:目覚めればそこは監獄 --4



「どうや、シュウくん。ぱわーあっぷ、した?」
「え、あ……」
「まあ冗談は置いておいて。体は何か変わった感じする? これからちょっと移動したいんやけど、あんまりしんどかったら休んでからにするし」
 体は特にそれまでと変わった感じはしなかった。強いて言うならば少し体が軽くなったような気がするが、それは目の前で起こった不思議な現象に緊張していたからかもしれない。そんなことを片言でぽつぽつと話すと、浅葱はうんうんと何度も頷いていた。牡丹もそれを聞くとシュウの上から降りる。宝石の不思議な感覚については、ミサギ語でうまく説明できる自信がなかったので何も言わなかった。
「よし、そんなら行こうか」
 浅葱の背中に背負われてシュウは牢屋の鉄格子をくぐった。背負われるために体を起こされて、彼は初めて自分が浅葱や牡丹と同じような着物を着せられていることに気付いた。浅葱の服と同じで袖の部分がすっきりしていたため気付かなかったのだ。それともう一つ、体のあちこちに包帯が巻かれていた。全身が重たくてうまく動かせないのだが、特に左腕はしびれてしまってまともに持ち上げることもできなかった。浅葱の肩からだらしなく下がる左腕を右手でしっかり掴み彼の首にしがみつく。
 浅葱は全く足音を立てずに石造りの階段を昇っていく。階段の壁にはところどころ松明が設置されており橙色の光を落としているが、十分な明るさはない。それなのに浅葱には足元が見えているようだった。浅葱だけではなく牡丹もそうなのだろう。彼女は今先に立って歩いているのだが、足音も衣擦れの音も全くしないため松明に照らされている間しか位置が掴めない。
 程なく階段は終わった。地下牢の出口には木枠の格子戸がはめられている。浅葱が足を止めると同時に格子戸の外でかすかな物音がし、ゆっくりと格子戸が開けられた。長身の男性のようだが、外も暗くてよく見えない。今は夜なのか。
「そちらの様子は」
「問題ありません」
 牡丹と男性が低い声で言葉を交わした。浅葱がまた足を進め格子戸をくぐる。地上の爽やかな空気が肺に流れ込んできた。しばらくの間ずっと地下にいたので気付かなかったが、空気が澱んでいたらしい。遠くから水の流れる音と虫の鳴き声が聞こえてくる。足元を見下ろすと白い砂が敷かれていた。そこは開けた空間になっていて、左手にはミサギ国風の木造の大きな建物がある。その建物と地下牢の入り口とをぐるりと囲んで塀が建っている。人の背の二倍ほどの高さのその塀は下半分ほどが石組でできていて、上半分は土壁を白く塗ってあり、一番上には屋根があり人の顔ほどの大きさの黒い板のようなものがたくさん並べてある。あれはミサギ国に特徴的な屋根の作り方で、瓦というものだと父親から聞いたことがあった。
 白砂の上で月の淡い光に照らされ、牡丹や男性の姿がより見やすくなった。牡丹は先頭に立って油断なく辺りを見回している。振り返ってみると男性はまだ格子戸を持ち上げており、地下牢からもう一人人影が出てきた。その人は細身の体型で背もまだ低い。身軽そうな動作から見ると少年だろうか。彼が出てくると男性はゆっくり格子戸を下ろし鍵をかけた。
 突然重力を感じた。シュウは慌ててちゃんと前を向き浅葱の背中にしがみつく。そして彼の肩越しに見えた景色に目を丸くした。瓦の海だ。縦横無尽に塀がめぐらされていて、その上に葺かれた瓦を見渡すことができる。塀だけではなく建物もあちこちに建っているようだ。中央にはひときわ大きな建物が見える。瓦の屋根がいくつも重ねられているのが分かった。あれはミサギ国風の塔だろうか。
 また浅葱が動き、飛び上がる感覚と落下する感覚を味わう。塀から塀へと飛び移ったのだ。すごい跳躍力だ。白砂の地面から塀の上へ助走もなく手もつかずに飛び上がることができるなんてあり得ない。なんと言っても人間の身長の二倍くらいの高さがあるのだ。塀と塀の間だって、測るような余裕はなかったけれども、おそらくかなりの距離がある。そうやってシュウが驚いているうちに、浅葱の足がどんどん速くなっていった。たんたんたん、と踊るように塀の上を走っていく。景色は目まぐるしく変わっていく。シュウは目が回りそうになって浅葱の肩に顔を伏せた。
「歯、噛み合わせといて。舌噛んだらあかん」
 風の音に混じって浅葱の小さな声が耳に届く。言われた通りに舌を引っ込めて歯を合わせるが、今のところ舌を噛みそうなほど揺れてはいない。ものすごい早さで走っているはずなのだが、目を閉じてしまえば普通に歩いているのかと思うほどの揺れしかない。彼はただ者ではないのだ。牡丹やその他の二人も。シュウはただ感嘆するだけだった。

 目を開けると朝焼けの空に向かって伸びる木の枝が見えた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。シュウはだるい体をゆっくり起こそうとする。上体を支えるだけなのに、腕はがくがくと震えてしまう。
「シュウくんおはよう」
 浅葱の腕が両肩をそっと支えてくれた。振り向くと彼が笑っている。明るいところで見て初めて、その瞳の色がきれいな水色であることを知った。髪の色は若草色だ。ハインリッヒの人間にはあまり見ない色である。あちらではシュウのような黒髪や、茶髪・赤髪・橙色の髪など暖色系の色が多い。
「腹減ってない? 食べられそう?」
「……わかりません」
 彼に言われるまで食べ物のことは考えたこともなかった。どれだけ長い間食べていないのか分からないが、果たして胃が食物を受け入れてくれるかどうか。
「もうちょっと寝とって」
 寝かされる。牢屋の中とは違い柔らかい布に受け止められてまた視界には空が映った。首を少し上げて周りを見回すと、ここは森の中らしい。鬱蒼と木々が生い茂り遠くまで見通すことができない。四方八方どこにも道があるようには見えないのだが、まさか道に迷ったのだろうか。牡丹さんやあとの二人はどこに行ってしまったのだろう。
 浅葱は何をするでもなく、シュウに背を向けて立っていた。身動きせずにじっと一点を見つめているように見えたので、シュウは何かあるのかとのぞき込んでみる。だが何も変わったものはない。変わっているといえば、ここは深い森の中のようなのに生き物の気配がしない。たとえば鳥の声は一切聞こえてこない。何かが心に引っかかる。前にも全く同じ状況になったような気がする。
 獣の声がした。悲鳴のような、それでいて憎悪をひしひしと感じる恐ろしい声。シュウは思わずぎくりと体を強張らせた。この声を知っている。何度も聞いたというわけではないけれど、一度聞いたら二度と忘れることのできない声だ。
 浅葱の眼前の茂みを突き破り二匹の獣が躍り出る。灰色の毛並みに爛々と輝く青色の瞳。それは狼によく似た形のモンスターだ。狼よりも長く鋭い牙で人間の肉に食らいつく、恐るべきもの。山に広く生息し、よく山の近くの町を集団で襲ってくる。シュウの町ザーラも何度かその被害にあっていた。
 そのときに見たモンスターを二倍の大きさに膨らませたようなけものが、目の前にいるのだった。
 シュウがごくりと唾を飲むのと同時に、二匹は浅葱に向かって飛びかかった。ぐわりと開いた口が赤い。鋭い牙がきらりと光る。シュウは恐怖のあまり目を閉じることもできない。浅葱が前傾姿勢になって腰に手を伸ばす。
 水風船を割ったように血が吹き出した。どさどさ、と無惨な死体が地に転がる。目の前に転がってきた死体の上顎から上がきれいになくなっているのを見て、シュウはひっと情けない声を漏らした。くすりと笑った浅葱がそれを遠くへ蹴りとばす。
「だいじょーぶやって。シュウくんのことはちゃーんと守ったるから」
 浅葱の頭に巻いた布や頬には点々と血が付いている。右腕には刀を持っていて、それはべったりと血が付いて赤くなっている。刀の先からぱたぱたと滴が落ちているのをシュウは呆然と見つめた。


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