第一章:目覚めればそこは監獄 --3
浅葱は全く足音を立てずに石造りの階段を昇っていく。階段の壁にはところどころ松明が設置されており橙色の光を落としているが、十分な明るさはない。それなのに浅葱には足元が見えているようだった。浅葱だけではなく牡丹もそうなのだろう。彼女は今先に立って歩いているのだが、足音も衣擦れの音も全くしないため松明に照らされている間しか位置が掴めない。
程なく階段は終わった。地下牢の出口には木枠の格子戸がはめられている。浅葱が足を止めると同時に格子戸の外でかすかな物音がし、ゆっくりと格子戸が開けられた。長身の男性のようだが、外も暗くてよく見えない。今は夜なのか。
「そちらの様子は」
「問題ありません」
牡丹と男性が低い声で言葉を交わした。浅葱がまた足を進め格子戸をくぐる。地上の爽やかな空気が肺に流れ込んできた。しばらくの間ずっと地下にいたので気付かなかったが、空気が澱んでいたらしい。遠くから水の流れる音と虫の鳴き声が聞こえてくる。足元を見下ろすと白い砂が敷かれていた。そこは開けた空間になっていて、左手にはミサギ国風の木造の大きな建物がある。その建物と地下牢の入り口とをぐるりと囲んで塀が建っている。人の背の二倍ほどの高さのその塀は下半分ほどが石組でできていて、上半分は土壁を白く塗ってあり、一番上には屋根があり人の顔ほどの大きさの黒い板のようなものがたくさん並べてある。あれはミサギ国に特徴的な屋根の作り方で、瓦というものだと父親から聞いたことがあった。
白砂の上で月の淡い光に照らされ、牡丹や男性の姿がより見やすくなった。牡丹は先頭に立って油断なく辺りを見回している。振り返ってみると男性はまだ格子戸を持ち上げており、地下牢からもう一人人影が出てきた。その人は細身の体型で背もまだ低い。身軽そうな動作から見ると少年だろうか。彼が出てくると男性はゆっくり格子戸を下ろし鍵をかけた。
突然重力を感じた。シュウは慌ててちゃんと前を向き浅葱の背中にしがみつく。そして彼の肩越しに見えた景色に目を丸くした。瓦の海だ。縦横無尽に塀がめぐらされていて、その上に葺かれた瓦を見渡すことができる。塀だけではなく建物もあちこちに建っているようだ。中央にはひときわ大きな建物が見える。瓦の屋根がいくつも重ねられているのが分かった。あれはミサギ国風の塔だろうか。
また浅葱が動き、飛び上がる感覚と落下する感覚を味わう。塀から塀へと飛び移ったのだ。すごい跳躍力だ。白砂の地面から塀の上へ助走もなく手もつかずに飛び上がることができるなんてあり得ない。なんと言っても人間の身長の二倍くらいの高さがあるのだ。塀と塀の間だって、測るような余裕はなかったけれども、おそらくかなりの距離がある。そうやってシュウが驚いているうちに、浅葱の足がどんどん速くなっていった。たんたんたん、と踊るように塀の上を走っていく。景色は目まぐるしく変わっていく。シュウは目が回りそうになって浅葱の肩に顔を伏せた。
「歯、噛み合わせといて。舌噛んだらあかん」
風の音に混じって浅葱の小さな声が耳に届く。言われた通りに舌を引っ込めて歯を合わせるが、今のところ舌を噛みそうなほど揺れてはいない。ものすごい早さで走っているはずなのだが、目を閉じてしまえば普通に歩いているのかと思うほどの揺れしかない。彼はただ者ではないのだ。牡丹やその他の二人も。シュウはただ感嘆するだけだった。
目を開けると朝焼けの空に向かって伸びる木の枝が見えた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。シュウはだるい体をゆっくり起こそうとする。上体を支えるだけなのに、腕はがくがくと震えてしまう。
「シュウくんおはよう」
浅葱の腕が両肩をそっと支えてくれた。振り向くと彼が笑っている。明るいところで見て初めて、その瞳の色がきれいな水色であることを知った。髪の色は若草色だ。ハインリッヒの人間にはあまり見ない色である。あちらではシュウのような黒髪や、茶髪・赤髪・橙色の髪など暖色系の色が多い。
「腹減ってない? 食べられそう?」
「……わかりません」
彼に言われるまで食べ物のことは考えたこともなかった。どれだけ長い間食べていないのか分からないが、果たして胃が食物を受け入れてくれるかどうか。
「もうちょっと寝とって」
寝かされる。牢屋の中とは違い柔らかい布に受け止められてまた視界には空が映った。首を少し上げて周りを見回すと、ここは森の中らしい。鬱蒼と木々が生い茂り遠くまで見通すことができない。四方八方どこにも道があるようには見えないのだが、まさか道に迷ったのだろうか。牡丹さんやあとの二人はどこに行ってしまったのだろう。
浅葱は何をするでもなく、シュウに背を向けて立っていた。身動きせずにじっと一点を見つめているように見えたので、シュウは何かあるのかとのぞき込んでみる。だが何も変わったものはない。変わっているといえば、ここは深い森の中のようなのに生き物の気配がしない。たとえば鳥の声は一切聞こえてこない。何かが心に引っかかる。前にも全く同じ状況になったような気がする。
獣の声がした。悲鳴のような、それでいて憎悪をひしひしと感じる恐ろしい声。シュウは思わずぎくりと体を強張らせた。この声を知っている。何度も聞いたというわけではないけれど、一度聞いたら二度と忘れることのできない声だ。
浅葱の眼前の茂みを突き破り二匹の獣が躍り出る。灰色の毛並みに爛々と輝く青色の瞳。それは狼によく似た形のモンスターだ。狼よりも長く鋭い牙で人間の肉に食らいつく、恐るべきもの。山に広く生息し、よく山の近くの町を集団で襲ってくる。シュウの町ザーラも何度かその被害にあっていた。
そのときに見たモンスターを二倍の大きさに膨らませたようなけものが、目の前にいるのだった。
シュウがごくりと唾を飲むのと同時に、二匹は浅葱に向かって飛びかかった。ぐわりと開いた口が赤い。鋭い牙がきらりと光る。シュウは恐怖のあまり目を閉じることもできない。浅葱が前傾姿勢になって腰に手を伸ばす。
水風船を割ったように血が吹き出した。どさどさ、と無惨な死体が地に転がる。目の前に転がってきた死体の上顎から上がきれいになくなっているのを見て、シュウはひっと情けない声を漏らした。くすりと笑った浅葱がそれを遠くへ蹴りとばす。
「だいじょーぶやって。シュウくんのことはちゃーんと守ったるから」
浅葱の頭に巻いた布や頬には点々と血が付いている。右腕には刀を持っていて、それはべったりと血が付いて赤くなっている。刀の先からぱたぱたと滴が落ちているのをシュウは呆然と見つめた。
モンスターが飛び出してきた茂みがまたがさりと音を立て、同じモンスターが一匹走り出てきた。シュウが身を固くし浅葱がゆらりと振り返る。モンスターは何故か浅葱を見て一瞬怯んだように見えた。よく見れば左目から左耳にかけて大きな切り傷が走っている。浅葱は何を思ったか一歩退いた。モンスターが彼を追って一歩踏み出そうとする。次の瞬間、モンスターの背後から飛び出した小柄な影が、あっという間にその獣を串刺しにした。
「すまない、二匹逃した」
そう言って死骸から突き刺した短槍を引き抜いたのは小柄な少年だった。まだ顔にも体つきにも幼さが残り、声変わりもしていないところを見るとシュウよりもかなり年下らしい。髪は深い緑色で、それほど長くはないそれを後ろできつく縛っている。髪よりも暗い緑の瞳は冷たい光を宿していた。
「お疲れさん。なんか凶暴化してんなあ」
「ああ、奴ら同族がやられたのを見ても逃げようとしない。初めてだ、こんなことは」
「急いだ方がよさそうやね」
浅葱は血に塗れた刀を鞘に納め、シュウの体を助け起こした。
「ものが食べられそうには、ないわな」
苦笑する浅葱を見上げて、シュウは青い顔で頷く。自分でも情けないとは思ったが、モンスターの無惨な死骸や血の臭いに精神力をごっそりと奪われてしまっていた。さっきも思ったことだが、前に同じような状況に遭ったような気がするのだ。いつどこでそんなことになったのか、思いだそうとするとひどく頭が痛む。モンスターを見たことは何度かあるし、襲われて怪我をした人、殺された人はもっと大勢見てきた。でもそれは違う。なにか違うのだ。
再び浅葱の背中に負われて、森の中を疾走していく。道もなにもないが彼に迷っている様子はない。シュウは心配するのをやめることにした。浅葱もあの少年も身体能力がずば抜けているし、明らかに普通の人間ではない。少なくとも彼らと一緒にいる間は安全だろう。重たい頭を浅葱の肩にことん、と乗せる。
木々の間でぼうぼうに伸び放題になっている草の背丈がだんだん高くなってきた。膝の高さほどだったものが腰に届くようになり、胸の高さにまで迫ってくるようになる。そしてその頃になると、浅葱はあまり地上を走ろうとせず木々の枝をひょいひょいと飛び移って移動するようになった。今までに見たことのない視点がおもしろく、うとうとしながら移り変わる景色を見ていた。国が変わっても、そこに生える植物はそれほど変わらないらしい。これがハインリッヒ王国の森だとしても違和感はあまりない。ただ少し、草が生えすぎのような気もするが。
「松葉」
太めの枝に着地して、浅葱がぽつりと何かを呟いた。ぼんやりしていたシュウの意識が現実に戻ってくる。何て言ったの、と聞き返そうとしたとき、浅葱の隣に少年が音もなく着地する。
「ごめん、取って」
浅葱がそう言うと、何故か少年が呆れ顔になった。だが彼は何も言わず、浅葱の胸元に手を差し入れる。取り出されたのは赤い宝石のようなものと、白い布にくるまれた丸いものだった。少年はそれを持って一っ飛びに地上に下り、胸の高さまである草の中に立った。浅葱はまず一段低いところの枝に飛び移り、そこから地上に下りる。少年の隣まで草の中をがさがさと音を立てながら歩いた。少年が自分の胸元に手を差し入れて、また宝石のようなものを取り出す。彼の宝石は緑色だった。少年は両手に緑、赤の宝石と白い布の包みを乗せ、それを空中に差し出すようにする。
「浅葱」
「松葉。長の命にて都より帰還いたしました」
一瞬の間があって、彼らの目の前に黒服の男がどこからともなく現れた。シュウは突然のことに驚いてまじまじと彼を見つめる。男は顔の上半分を真っ黒な仮面で覆っており、頭のてっぺんからつま先までの身すべてを黒い服に包まれていた。わずかに見えるのは口元だけだ。
「それは?」
男の手が指したのは、少年の手の上にある白い布の包みだった。少年が黙って包みを解くと青い宝石が現れる。シュウの心臓がどくんと脈を打った。あれは、牢屋の中で見たあの光る宝石だ。浅葱の胸元にしまわれたときのように、少年の手に触れられている感触が分かる。男が青い宝石に手を伸ばすのを見て、思わずシュウの全身に緊張が走った。
「あー……お手柔らかに頼みます。まだ結晶化したばかりで」
「そうか」
浅葱の言葉に一つ頷いて、男の指先が宝石に触れる。コツ、と小さな音がしたのと同時に、シュウの全身を雷に打たれたような衝撃が襲った。痛みはない。ただ頭の中が真っ白になり、体から力が抜ける。目も耳も開いているのに、何も見えず何も聞こえない。
それは今までに経験したことのない強い衝撃だったが、意外なことにあっさりと何の余韻も残さず五感が戻ってきた。手足の先がわずかにしびれているが、他にはどこも違和感を感じない。シュウはぱちぱちと瞬きをして怯えと不審の入り混じった視線を黒服の男に向けた。男はシュウの視線をまっすぐに受け止めた、ように見えた。顔が隠れているので実際にはどうなのか分からない。
「確認した。では」
浅葱と少年が男に会釈をすると、男は現れたときと同じように当然その姿が見えなくなった。そして彼が消えたあとには、獣道とでも言うべきわずかに道らしいものができていた。少年が軽くため息をつき、緑の宝石は自分の懐へ、また白い布にくるんだ青い宝石と赤い宝石は浅葱の懐へと戻す。
「あんまり、お手柔らかじゃあなかったな。大丈夫か、シュウくん」
苦笑混じりの浅葱に、シュウは小さな声でうん、と答える。正直なところ、ずっと背負われていて疲れているし、体調は全くよくはないのでちっとも大丈夫ではないのだが、そんなことが浅葱も承知のうちだろう。
「今の、は?」
「まあ、門番みたいなもんやね。あんまり誰でも入ってこられると困るから、あの怖い人が見張ってんの。入っても大丈夫な人かどうかを見破るんよ」
すると、シュウが連れて行かれるのは、常人では容易に立ち入ることのできない場所なのだ。また牢屋に入れられるのかな、と考えて心が沈む。
「宝石で、見破る?」
「あー……うーん、松葉、説明して」
「僕に振るな」
松葉、というのは少年の名前らしい。シュウが彼の方を見ると、彼は眉間に少ししわを寄せた。
「おまえも、あれこれと聞くんじゃない。ここは隠れ里なんだ、外の人間が知るべきでないことがたくさんある。下手なことを聞いてしまうと助かる命も助からないぞ」
大体の意味は理解できたが、やはり浅葱以外の人の言葉は聞き取りにくい。浅葱は異国の人間であるシュウのために、ゆっくりはっきり話すようにしてくれているのだろう。シュウは少し時間を置いて頷いた。
「浅葱、おまえもだ。何でもぺらぺらと喋るんじゃない」
「おれ別に何も喋ってないもん」
「あのな。僕は心配してやってるんだ」
松葉は浅葱よりずっと年下に見えるが、会話の内容だけを聞いていると浅葱の方が年下のようだった。小言を言う母親に屁理屈で対応する息子みたいだ。
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