第一章:目覚めればそこは監獄 --2



 再び目覚めたときには、牢の中が少し明るくなっていた。シュウの足下の方に燭台が立てられているのが見える。光の感じからして、枕元にも一つ立っているようだ。
「おはようさん」
 横から声をかけられてそちらに顔を向けると同時に、冷たいものがべちゃりと顔の上に落ちてきた。うわ、と思わず声を上げて右手でそれをつまみ上げる。濡れた布だ。
「ほら、ちゃんとそれ乗せときや。まだ熱下がってないんやで」
「はい……」
 声を出すのはそれほど辛くなかった。少しはよくなったのだろうか。体はまだ重たく感じられるが、眠る前に比べたらかなりましである。やはりあれは毒ではなく薬だったのだとシュウは思った。
「そしたら、質問の続きしてもええかな? あんまりのんびりしてもいられないんよ」
「はい」
 牡丹の姿はなく、浅葱は一人で牢屋の石の床にあぐらをかいていた。冷たくないのだろうか、と重いながらぼんやりと頷く。
「出身地は」
「ええと……ハインリッヒ王国の、ザーラっていう町です。……わかり、ますか?」
「ん、大丈夫」
 国や町の名前にも、彼の国とミサギ国とでは別の言い方があるのだろう。彼はそこまでミサギ語に詳しくなかった。だが浅葱は戸惑うこともなくさらさらと筆を走らせる。その様子を見ていてシュウはあることに思い当たった。
「あの、アサギさんは、その……売る人ですか?」
「商人ってこと? 当たらずとも遠からず、やね。そういう仕事する時もあるし、全然違う仕事の時もあるし。そういうシュウくんこそ商人の家やろ」
「……はい」
 翻訳に時間がかかり、少し遅れてうなずく。浅葱の言う通りシュウの家は商人の家系だった。それも特別な越境商人である。ここミサギ国とシュウの国ハインリッヒ王国の国境には険しい山脈がそびえているため、行き来をするのにかなりの困難を伴う。この山の中には狼や熊などの獣も数多く生息しているが、何よりも恐ろしいのはモンスターと呼ばれる生物だ。さまざまな種類がいるが、共通しているのは彼らが凶暴で人肉を喰らうということである。そのような恐ろしいものがうろつく中、まともな道もないような険しい山を一週間もかけて越えていくのが越境商人と呼ばれる人々だ。
 早くに亡くなった祖父の跡を継いで、今は父親が越境隊に入っている。シュウは長男で二人の妹がおり、唯一の男の子ということでゆくゆくは父の跡を継ぐことになっているのだ。
「ど、して」
「ザーラは越境街道のふもとの町やし、シュウ君はずいぶん熱心にこっちの言葉を勉強しとるみたいやし。商人でもないと異国語なんか真面目にやる気せんからなあ」
 シュウはため息をつくような声でそうですね、と答えた。
 他の町ではどうだか知らないが、ザーラではミサギ語が学校の必修科目である。越境は年に四回行われ、そのうちの二回はザーラ側の商人がミサギ国へ赴き、あとの二回はミサギ国側の商人がザーラへやって来る。命がけで山を越えてくる人々をねぎらうため、また商人以外の住人も異国人と交流するべきだという教師たちの主張によって、ザーラの人間はハインリッヒ語とミサギ語の両方を扱うことができるよう教育されているのだ。だが現実的にはそれは建前にすぎない。浅葱の言う通り、商人になるわけでもない一般市民にはミサギ語を必死になって習得する理由がないのだ。学校を卒業して大人になってしまえば、せいぜい挨拶程度しかできなくなる。
 シュウは机の上に並べたミサギ語の教科書や参考書の山を思い浮かべ、ああ頑張っておいてよかった、と思った。そしてその光景から、なぜ今まで思いつかなかったのか不思議なくらい当然な疑問が浮かんだ。
「あの」
「ん?」
「僕も、聞いてもいいですか」
「ええよ。おれに答えられることやったらなんでも教えるで」
 浅葱の朗らかな笑いに励まされ、シュウは思い切って尋ねてみた。
「僕、どうしてここにいるんですか?」
 それを聞くのは少しだけ怖かった。ここはミサギ国だというが、シュウには山越えをした記憶などまったくないのだ。山越えには一週間を要するので、気付かないうちに連れ去られてきたというのは現実的でない。夜いつものように自室で眠って、朝目覚めたら監獄にいたというわけだ。瞬間移動したとしか思えない状況だ。そうでなければ、その間の記憶がきれいさっぱり消えてしまっているか。もし記憶が消えてしまっているのなら、その間に一体自分が何をしたのか知りたかった。ザーラでの彼は品行方正な人間で、投獄されるようなことをする人種ではないはずなのだ。
 質問を受けた浅葱は、なにやら微妙な表情をして答えた。
「それ、おれが今からシュウくんに聞こうと思ってたことなんやけど」
「……え」
「ザーラで何が起こったのか。そのときシュウくんはどこで何をしていたのか。どうして山越えをするに至ったのか。屈強な戦士でも集団で行動しないととても抜けられないあの山を、どうやって青年一人で越えてきたのか」
「ちょっ、ちょっと、待って! それ全部、僕の聞きたいこと!」
「まあ、落ち着き」
 シュウは慌てて身を起こそうとする。浅葱は彼の額にそっと手を乗せて制止した。最初に目覚めたときの激しい頭痛に比べたらかなり軽くはあったが、痛みを感じてシュウが呻く。
「記憶が混乱してるんかな。覚えてること全部、ゆーっくり話してみ?」
「全部……でも、ほとんど、わからないよ」
「そんでもええよ」
 うなずく浅葱を見上げてシュウは目を閉じた。覚えていることと言われても、本当に何もわからないのだ。
「僕は、五月九日に、試験を受ける予定だった」
「試験?」
「うん。受かったら、ええっと……魔法使いになって、モンスターと戦うんだ。その、軍隊で。わかる?」
「ん、確か、ハインリッヒ王国には、王直属の妖異討伐隊があるんやったな。それの採用試験ってことなんかな」
 確認するように繰り返した浅葱の使う単語がシュウにはまだ難しく、彼は翻訳を諦めて情けない顔で浅葱を見上げた。浅葱が苦笑する。
「ああごめんごめん、大丈夫わかってるで。続けて?」
「その前の日、五月八日の夜、試験のために早めに寝た。自分の部屋で眠って、目が覚めたら、ここにいた」
「ほう」
「起きたときは、まだ自分の部屋にいると思ってたんだ。でも違って、ボタンさんとアサギさんがきた。薬を飲んで、眠って、また起きて、今ここでアサギさんに話をしてる」
「綺麗さっぱり抜けてるんやね」
 浅葱は首をかしげた。シュウにはもうそれ以上話せることがない。この不可解な状況の謎を浅葱は少しでも解き明かしてくれるのだろうか。何かを考えているらしい彼の表情からは何も読みとれない。
 話しすぎたのか、頭がくらくらしてきた。そのことを呟くような小さい声で訴えると、浅葱は竹筒を取り出し水のような液体を飲ませてくれた。鼻から抜けていくような妙な風味があったが、薬かなにかだろうと思い気にしないことにする。
「五月九日の夕方ごろ、山の向こう……つまりザーラのある方の空が、真っ赤に染まったんやって」
 浅葱の声が少し低くなった。
「すぐに仲間が偵察に行ったんやけど、ザーラにだいぶ近付いたところで引き返してきたんよ。報告やと、洒落にならんくらい濃い毒の霧がたちこめてたらしいで。妖異の死体がごろごろしてる中で、シュウくんは虫の息で倒れとったみたい」
「毒……」
「そ。シュウくんが今しんどくて熱があって、体もうまく動かんのはその毒を吸い込んだから。一時は危なかったみたいやけど、もう命の心配はないから、安心してな」
 シュウはとりあえず、頷いた。話を聞いてもなにも思い出しそうにはないが、毒におかされて寝込んだまま山を越えたのであれば覚えていなくてもおかしくない。とはいえ、危険な山越えを病人連れでするとは考えにくい。本当だとしても、意識を失って倒れるような毒を吸ってよく体が山を越えるまでもったものだ。
 気付かないうちに山越えをしてミサギ国にきていたわけは分かったということにしても、ではなぜシュウはミサギ国を目指したのだろうか。ザーラ近くで発生したという毒の霧がなにか関係あるのだろうか。空が赤く染まったという五月九日の夕方になにか重要なことが起こったのだ。


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