第一章:目覚めればそこは監獄 --2



 思わぬ返答に面食らい、シュウはぽかんと口を開けた。
「……え」
「ザーラで何が起こったのか。そのときシュウくんはどこで何をしていたのか。どうして山越えをするに至ったのか。屈強な戦士でも集団で行動しないととても抜けられないあの山を、どうやって青年一人で越えてきたのか」
「ちょっ、ちょっと、待って! それ全部、僕の聞きたいこと!」
「まあ、落ち着き」
 シュウは慌てて身を起こそうとする。浅葱は彼の額にそっと手を乗せて制止した。最初に目覚めたときの激しい頭痛に比べたらかなり軽くはあったが、痛みを感じてシュウが呻く。
「記憶が混乱してるんかな。覚えてること全部、ゆーっくり話してみ?」
「全部……でも、ほとんど、わからないよ」
「そんでもええよ」
 うなずく浅葱を見上げてシュウは目を閉じた。覚えていることと言われても、本当に何もわからないのだ。
「僕は、五月九日に、試験を受ける予定だった」
「試験?」
「うん。受かったら、ええっと……魔法使いになって、モンスターと戦うんだ。その、軍隊で。わかる?」
「ん、確か、ハインリッヒ王国には、王直属の妖異討伐隊があるんやったな。それの採用試験ってことなんかな」
 確認するように繰り返した浅葱の使う単語がシュウにはまだ難しく、彼は翻訳を諦めて情けない顔で浅葱を見上げた。浅葱が苦笑する。
「ああごめんごめん、大丈夫わかってるで。続けて?」
「その前の日、五月八日の夜、試験のために早めに寝た。自分の部屋で眠って、目が覚めたら、ここにいた」
「ほう」
「起きたときは、まだ自分の部屋にいると思ってたんだ。でも違って、ボタンさんとアサギさんがきた。薬を飲んで、眠って、また起きて、今ここでアサギさんに話をしてる」
「綺麗さっぱり抜けてるんやね」
 浅葱は首をかしげた。シュウにはもうそれ以上話せることがない。この不可解な状況の謎を浅葱は少しでも解き明かしてくれるのだろうか。何かを考えているらしい彼の表情からは何も読みとれない。
 話しすぎたのか、頭がくらくらしてきた。そのことを呟くような小さい声で訴えると、浅葱は竹筒を取り出し水のような液体を飲ませてくれた。鼻から抜けていくような妙な風味があったが、薬かなにかだろうと思い気にしないことにする。
「五月九日の夕方ごろ、山の向こう……つまりザーラのある方の空が、真っ赤に染まったんやって」
 浅葱の声が少し低くなった。
「すぐに仲間が偵察に行ったんやけど、ザーラにだいぶ近付いたところで引き返してきたんよ。報告やと、洒落にならんくらい濃い毒の霧がたちこめてたらしいで。妖異の死体がごろごろしてる中で、シュウくんは虫の息で倒れとったみたい」
「毒……」
「そ。シュウくんが今しんどくて熱があって、体もうまく動かんのはその毒を吸い込んだから。一時は危なかったみたいやけど、もう命の心配はないから、安心してな」
 シュウはとりあえず、頷いた。話を聞いてもなにも思い出しそうにはないが、毒におかされて寝込んだまま山を越えたのであれば覚えていなくてもおかしくない。とはいえ、危険な山越えを病人連れでするとは考えにくい。本当だとしても、意識を失って倒れるような毒を吸ってよく体が山を越えるまでもったものだ。
 気付かないうちに山越えをしてミサギ国にきていたわけは分かったということにしても、ではなぜシュウはミサギ国を目指したのだろうか。ザーラ近くで発生したという毒の霧がなにか関係あるのだろうか。空が赤く染まったという五月九日の夕方になにか重要なことが起こったのだ。
「もう来たん?」
 それまでは比較的遅めに話していた浅葱の言葉が突然速くなった。え、と聞き返したシュウを無視して、彼は後ろを振り返る。そこには三人分の人影があった。いつからそこにいたのかシュウには全くわからなかった。
「急げ、との仰せだ」
 背の高い影からは男の低い声がした。浅葱が黙って頷き、影の一人と場所を入れ替わる。近付いてきた影は牡丹だった。彼女はシュウの額に乗せた布を取り、細い手をすっと乗せる。彼女の後ろで浅葱たち三人が牢から出ていくのが見えた。
「具合はどうですか」
 牡丹の手は冷たくて気持ちよかった。質問の意味をよく理解する前に頷いて、シュウは無意識に手を伸ばして彼女の手を取る。それを左頬に当てると熱がすうっとひいた。濡らした布で冷やされていた額よりも頬の方がずっと熱くて苦しかったのだ。目を閉じてうとうととまどろんでいると、右の頬にも冷たさを感じた。額に乗せられていた布か。シュウが目を開けると、牡丹は両手で彼の頬をはさむために身を乗り出していた。ぼんやりと見上げるシュウと目が合いほのかに笑う。シュウは心の中で母さん、と呟いた。親を恋しがる年はもうとっくに過ぎたはずなのに。家に帰りたかった。できれば今すぐに。家族は無事だろうか。それとも毒の霧にまかれてしまっただろうか。
「ごめんなさい」
 牡丹の顔を見上げながら、シュウはぽつりと呟いた。誰に何を謝ったのかよくわからなかった。
 彼女は両手をシュウの頬から離してかたわらに置いていた水桶に布をひたした。耳元から水音が聞こえる。
 これほど酷い熱を出した記憶はない。シュウは幼いころ、体が格別強くも弱くもないいたって普通の健康な子供だった。風邪は何度もひいたが大きな病気はしたことがない。むしろ少し年の離れた二人の妹たちの方が体が弱く、特に二人が生まれて数年は母親がいつも二人の看病に明け暮れていた。父親は越境商人という仕事上どうしても家を空けがちであり、シュウはいろいろと母親の手伝いをしたものだった。看病はするものであって、されるものではなかった。
 妹たちもこんな風に、何とも言えない心細い気持ちになっていたのだろうか。それともこれは、自分の置かれた状況も全く分からずに、一人異国にいるからそう思うのだろうか。水をしぼった布が顔に近付いてくる。また額に乗せられるのかと思っていたら、牡丹は額から頬、口のあたり、首まわりまでを順に拭いてくれた。蒸発する水が熱を奪っていく。
「――でも――」
 ふと向こうの方から声が聞こえた。牢屋の鉄格子の外に三人分の影が見える。一人は鉄格子に背中を預けて寄りかかっていた。あれは浅葱だろうか。
「――」
「死体――ない」
 会話は小声な上に早口でほとんど聞き取れないが、空気が張りつめているのが感じられた。あまりよくない話らしい。しばらくぼんやりと彼らの影を眺めていると、話が終わったのか浅葱が牢の中へ入ってきた。影が一人牢の出口の方へ向かい姿が見えなくなる。もう一人の影は牢の外で動かなかった。
「どうやろ。やっぱしんどいかなあ」
「ええ。結晶化した方がいいでしょうね」
「うーん……そうやね。シュウくん、ちょっと動かんといてなー」
 浅葱はそう言うと、横になっているシュウの上に覆い被さるようにして身を乗り出してきた。両手を肩の辺りにそっと置いているだけに見えるのに、少し身じろぎをしようとしたら上半身はまったく動けなくなっていた。動かせるのは首だけだ。驚いて浅葱の顔を見上げると、彼は苦笑してごめんな、と言った。牡丹はシュウの足をまたいで上に乗り、両足でこれまた見事に下半身の動きを封じた。こちらも見た目には膝や向こう臑がシュウの足にちょっと触れているだけにしか見えないのだが。
 牡丹は両手を重ねてシュウの胸をゆっくりと触れて回った。触れるか触れないかの微妙な力加減がくすぐったく、普通なら身をよじったり笑ってしまったりするところだが、この妙な雰囲気に呑まれてしまっている。一体何が始まるのだろうと思って見ていると、あるところで牡丹の手がぴたりと止まった。胸の中心から少し左にそれた辺り。心臓だ、と思った瞬間信じられないことが起こった。牡丹の手がずぶりとシュウの胸の中に入ったのだ。服も肌も筋肉もすべてまるで液体のように抵抗なく彼女の手を受け入れた。首を上げて自分の胸を見つめたシュウは、池に石を投げ入れたみたいに小さな波紋ができているのを見て驚愕した。
「落ち着いて。大丈夫や、ちょっとしたおまじないみたいなもんやで」
 浅葱の声が上から降ってくる。
「目、閉じて、深呼吸して。そうそう。どんな感じする? なんかふわーっと浮いてるような感じする?」
 目を閉じると、浅葱の言葉通りふわりと体が浮き上がったような感覚に襲われた。返事をするどころではなく、本能的な恐怖感からまた目を開けてしまう。そこにあった光景は目を閉じる前と一緒だったが、体の表面の波紋が少し大きくなっていた。そして刺すような青白く強い光が監獄の中を照らしている。最初彼は牡丹の手が光っているのだと思ったが、むしろ光っているのは自分の胸なのではないかと気付いた瞬間ぶわりと嫌な汗が出た。なんだこれは。一体何がどうなっているんだ。
「浅葱、なんとかしなさい」
「シュウくーん、こっち見て」
 浅葱の声のする方を見上げる。ちょうどシュウの顔の真上に浅葱の顔があり、目が合うと彼はにっと笑って見せた。それに笑い返すような余裕はシュウにはない。
「なに、これ、なに」
「シュウくんを守るために、ちょっと呪い(まじない)をかけさせてもらってるの。つまりハインリッヒ語で言うと、ぱわーあっぷ、やね。わかるかな?」
 シュウはこくりと頷く。視界の青い光は少し弱まったが、恐ろしくて目を向けることができない。どくどくと心臓が脈打つのに従って、光が波打っているのが分かる。
「はい、もう一回深呼吸して。体の力を抜いてな。心配せんでも大丈夫や、牡丹さんは腕がいいから」
 胸が膨らむのを感じると、牡丹の手が胸に沈んでいった異様な光景が浮かんできてつい深呼吸を止めたくなる。浅葱にとんとんと軽く両肩を叩かれて、おそるおそる呼吸を続けた。青い光が少しずつ薄くなっていく。心臓の鼓動もそれに伴って落ち着いていく。
「終わりました」
 牡丹が平坦な声でそう告げたときは心底ほっとした。シュウが再び目線を自分の胸に向けてみると、そこはまだ淡く発光していたが牡丹の手を飲み込んでもいないし波打ってもいなかった。発光しているのは胸とその上に置かれた牡丹の手の間の何かだ。彼女の手がそれをすっと持ち上げる。青い宝石のようなものだった。空の色よりも濃く、どこまでも透き通るその色は今までに見たことのない青だ。思わずシュウが見とれていると、ようやく彼の体から手を離した浅葱がぴゅうっと口笛を吹く。
「きれいな青やん」
 牡丹の手から浅葱の手へと青い宝石は手渡され、浅葱の服の中にしまいこまれてしまった。ほのかな青い光も、浅葱が宝石を胸元へ差し入れてしまうと消えてしまう。そしてシュウは一つ不思議なことに気付いた。なんとなく、宝石がどこにあるか分かるのだ。もちろん浅葱がしまうところを見ているのだから、頭で分かるのはおかしなことではない。そうではなく、たとえば自分の右足がちゃんと体にくっついてここにあるのが分かるのと同じように、宝石が布にくるまれて浅葱の胸元にあるのを感じるのだ。意識を集中させれば浅葱の鼓動の音さえ聞こえてくるような気がする。
「どうや、シュウくん。ぱわーあっぷ、した?」
「え、あ……」
「まあ冗談は置いておいて。体は何か変わった感じする? これからちょっと移動したいんやけど、あんまりしんどかったら休んでからにするし」
 体は特にそれまでと変わった感じはしなかった。強いて言うならば少し体が軽くなったような気がするが、それは目の前で起こった不思議な現象に緊張していたからかもしれない。そんなことを片言でぽつぽつと話すと、浅葱はうんうんと何度も頷いていた。牡丹もそれを聞くとシュウの上から降りる。宝石の不思議な感覚については、ミサギ語でうまく説明できる自信がなかったので何も言わなかった。
「よし、そんなら行こうか」
 浅葱の背中に背負われてシュウは牢屋の鉄格子をくぐった。背負われるために体を起こされて、彼は初めて自分が浅葱や牡丹と同じような着物を着せられていることに気付いた。浅葱の服と同じで袖の部分がすっきりしていたため気付かなかったのだ。それともう一つ、体のあちこちに包帯が巻かれていた。全身が重たくてうまく動かせないのだが、特に左腕はしびれてしまってまともに持ち上げることもできなかった。浅葱の肩からだらしなく下がる左腕を右手でしっかり掴み彼の首にしがみつく。


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