第一章:目覚めればそこは監獄



 どろどろとした重たい澱みの底から這い上がるように彼は目を覚ました。まるで全力疾走した後のようにひどく汗をかいていて、息が苦しい。目を開いているのにも関わらず辺りは真っ暗だ。彼は寝台から窓にかけた幕を引こうと右手を伸ばす。だが手に触れたのは冷たく固い壁だった。
 そこではっきりと意識が覚醒する。彼は寝台に両手をついて上半身を起こそうとした。だがなぜか腕に力が入らず、わずかに持ち上げた頭が割れんばかりに痛む。固い寝台の上にもう一度体を横たえて右手で壁を探る。ざらざらとした触感は石のようだ。体にかけられている布も決して上等なものではない。
 ここはどこだ。
 荒い息を吐きながら今度は左手を這わす。左手は寝ている間に体の下にでも敷いてしまっていたのか、しびれていてうまく動かない。だが少し動かしただけで、左手はこれまた冷たい床に触れた。壁よりはなめらかであるものの、ごつごつした石だ。最初、どういうことだか分からなかったが、状況を理解すると愕然とした。彼は粗末な布を敷いただけの、ただの床に転がされているのだ。寝台がない。
 その時、遠くから人の話し声らしき音が聞こえてきた。頭の方から聞こえたような気がして視線を向けるが、真っ暗闇の中ではよく分からない。そう思った瞬間扉のきしむ音がしてぼんやりとした光が目に飛び込んできた。彼は反射的に目を閉じてまたゆっくりと開く。長い間暗闇の中にいたため光に敏感になっていたのか、急に明るくなった視界は霞がかかったようにぼんやりしている。だが少し離れたところに二人分の人影があるのは分かった。
「――」
「――」
 二人は何か言葉を交わしている。小声ではなく、彼の耳にもはっきり届いているのに、なぜだか意味が理解できなかった。片方の影が地に膝をついてなにやら手を動かしている。かちゃかちゃと金属のこすれるような音が聞こえる。鍵だろうか。彼は開けるのに鍵が必要になるような場所にいるのだ。地面に転がされ、粗末な布しか与えられず、真っ暗な中で鍵までかけられた場所。どう考えてもここは監獄だった。
「――コドモ――」
「――」
 二人の影は彼のすぐ近くで膝をついた。彼の顔をのぞきこんでいる方が女、足下に近い方にいるのが男だ。顔は全く見えないが交わした声の高さで分かった。本来なら警戒すべきところだが、頭も痛いし気分も悪い、さらに体は重く思うように動けないので警戒しようにも何もできなかった。それよりも、全く理解できないはずの彼らの言葉のうち、男の方が発した中に聞き覚えのある単語があったような気がする。
 目の前がぱっと明るくなった。ほんの少しだけ顔を上げてみると、女の持っている皿の上に火が灯っているのだった。頭が割れそうに痛み、彼は呻き声を絞り出しながらまた布の上に頭を戻す。女の手が彼の額にそっと触れた。
「ムリヲシテハイケマセン」
 彼女が音節を一つずつ区切ってはっきり発音してくれたため、全ての音が聞き取れた。最初は意味をなさないただの音として脳に届いたのだが、それを発した女の様子を見上げていると唐突に意味が理解できた。彼女は中年の女性で、長い髪を後ろに束ね上げている。彼の母親というには少し若いが、そのきりっとした表情には厳格な母親という言葉が似合っている。そして彼にとってもっとも奇妙に思えたのがその服装だった。釦で留めるのではなく、左右の布を重ね合わせて腰に巻いた太く固そうな別の布で留めている。袖はにたっぷりと余らせた布が垂れ下がっていて、それは見た目通り邪魔になるようで細い紐を肩から通し体に固定して揺れないようになっていた。これは隣国の女性がよく着ている「着物」という服装であることを彼は知っていた。そして彼らが話しているのは隣国の言葉なのだ。隣国の名前は、確か。
「ミサギ国(こく)……」
 彼らが何か反応をくれるかと思ったが、何も起こらなかった。男は黙って彼を眺めているし、女は額から首筋、肩、左腕と体のあちこちを柔らかい手で撫でている。彼は働かない頭を必死に回転させ、ミサギ語の文章を作文した。ミサギ語は学校で習っていたし事情があって自宅でも勉強している。
「ここは、どこですか。ミサギ国ですか」
「……言葉が、わかるのですね。はい、ここは御鷺(みさぎ)です」
 女性は質問に答え、彼と目を合わせて傍らに置いていた筒状のものを手に取った。
「薬です。これを飲んでください」
 そう言って目の前に差し出されたのは細い竹筒だった。加工して水筒代わりに使っているらしく、独特な臭いのする液体が入っている。彼がためらっているのを見て男がおかしそうに笑った。
「心配せんでも毒なんか入ってないで」
 暗さで顔はよく見えないが、男の服装はやはり女性と似たようなものだった。声の感じからするとまだ若いようだ。そのイントネーションと喋り方は女性のものとは違っていて独特な感じである。
「商い言葉では通じないでしょう」
「え〜、それやったら牡丹さんが話してや」
「あなたは何をしにきたのですか」
「牡丹さん怖い〜」
 牡丹、と呼ばれた女性はそれきり男を無視して、手が動かせなくても飲めるように竹筒を傾ける。彼は大人しく飲むことにした。本当に毒を飲ませるつもりなら抵抗しても無駄だろう。妙な臭いが嫌だったので口に注がれた薬はすぐに飲み込んだ。それでも臭いが鼻を抜けていき思わずけふ、と弱々しく咳きこむ。牡丹は竹筒を彼の口から離し、今度はただの水が入った筒を口につけた。横になったままで液体を飲み込むというのは案外難しいものだった。
「休みたくなったら仰ってください。いくつか、お尋ねしたいことがあります。私は牡丹、そして彼は浅葱といいます」
 牡丹はそう言ったが、その後に何も質問を言わなかった。黙ってじっと彼の顔を見ている。彼はなんだろう、と思いながら話の続きを待った。
「それじゃ通じんよ。向こうの国じゃ名前を聞くのは全然失礼なことじゃない。というわけで、少年、自己紹介してくれん?」
 浅葱というその男が立ち上がり、牡丹と位置を代わった。灯りに照らされて彼の顔が見えるようになる。やはり若い男だ。肩につかないくらいの長さの髪の上に、太めの長い布をぐるぐると数回巻き付けていた。服装は牡丹と同じような雰囲気であるが、彼女より軽装だ。長い袖はすっぱりなくなっていて、代わりに体の線が見えるぴったりとした服を下に着ている。下の方も違った。牡丹の服は足下までを覆っていて足はちらりとも見えないのに比べて、浅葱の服は膝ぐらいまでしかなくその下の足には見慣れない防具のようなものをつけている。
「んー、やっぱ、おれの言葉わからんのかな」
「あ……わかり、ます」
 ぼんやりと浅葱を見上げていた彼は、苦笑されたのを見て少し慌てた。異国の言葉を聞いて理解し、それに対する返答を作文するのは大変な作業なのだ。まだ何も話していないのに疲労感を感じていた。
「僕はシュウ=カトライゼ、です」
「シュウくんね」
 浅葱はどこからか取り出した紙にさらさらと何かを書き付け、ふいに困り顔で牡丹の方を向いた。
「字、何当てる?」
「あなたの方が詳しいでしょう」
「はいはい。ああ、ごめんなシュウくん、続けて」
「二十一歳です。男……です」
 ぶっ、と浅葱が吹き出す。
「いや、それは見れば分かるで」
 それから先、彼――シュウ=カトライゼには何も言えなかった。自分は何者であるのか、分かっていないわけではなかったが、説明できるほど頭がまとまってはいなかったのだ。答えなければ、翻訳しなくては、と妙に心が焦り出す。牡丹と浅葱が一瞬顔を見合わせた。
「シュウくん、ちょっと休もうか」
 果たして自分が頷いたかどうかもよく分からなかったが、浅葱の手が目を覆ったあとすぐに意識は沈んでいった。

 再び目覚めたときには、牢の中が少し明るくなっていた。シュウの足下の方に燭台が立てられているのが見える。光の感じからして、枕元にも一つ立っているようだ。
「おはようさん」
 横から声をかけられてそちらに顔を向けると同時に、冷たいものがべちゃりと顔の上に落ちてきた。うわ、と思わず声を上げて右手でそれをつまみ上げる。濡れた布だ。
「ほら、ちゃんとそれ乗せときや。まだ熱下がってないんやで」
「はい……」
 声を出すのはそれほど辛くなかった。少しはよくなったのだろうか。体はまだ重たく感じられるが、眠る前に比べたらかなりましである。やはりあれは毒ではなく薬だったのだとシュウは思った。
「そしたら、質問の続きしてもええかな? あんまりのんびりしてもいられないんよ」
「はい」
 牡丹の姿はなく、浅葱は一人で牢屋の石の床にあぐらをかいていた。冷たくないのだろうか、と重いながらぼんやりと頷く。
「出身地は」
「ええと……ハインリッヒ王国の、ザーラっていう町です。……わかり、ますか?」
「ん、大丈夫」
 国や町の名前にも、彼の国とミサギ国とでは別の言い方があるのだろう。彼はそこまでミサギ語に詳しくなかった。だが浅葱は戸惑うこともなくさらさらと筆を走らせる。その様子を見ていてシュウはあることに思い当たった。
「あの、アサギさんは、その……売る人ですか?」
「商人ってこと? 当たらずとも遠からず、やね。そういう仕事する時もあるし、全然違う仕事の時もあるし。そういうシュウくんこそ商人の家やろ」
「……はい」
 翻訳に時間がかかり、少し遅れてうなずく。浅葱の言う通りシュウの家は商人の家系だった。それも特別な越境商人である。ここミサギ国とシュウの国ハインリッヒ王国の国境には険しい山脈がそびえているため、行き来をするのにかなりの困難を伴う。この山の中には狼や熊などの獣も数多く生息しているが、何よりも恐ろしいのはモンスターと呼ばれる生物だ。さまざまな種類がいるが、共通しているのは彼らが凶暴で人肉を喰らうということである。そのような恐ろしいものがうろつく中、まともな道もないような険しい山を一週間もかけて越えていくのが越境商人と呼ばれる人々だ。
 早くに亡くなった祖父の跡を継いで、今は父親が越境隊に入っている。シュウは長男で二人の妹がおり、唯一の男の子ということでゆくゆくは父の後を継ぐことになっているのだ。
「ど、して」
「ザーラは越境街道のふもとの町やし、シュウ君はずいぶん熱心にこっちの言葉を勉強しとるみたいやし。商人でもないと異国語なんか真面目にやる気せんからなあ」
 シュウはため息をつくような声でそうですね、と答えた。
 他の町ではどうだか知らないが、ザーラではミサギ語が学校の必修科目である。越境は年に四回行われ、そのうちの二回はザーラ側の商人がミサギ国へ赴き、あとの二回はミサギ国側の商人がザーラへやって来る。命がけで山を越えてくる人々をねぎらうため、また商人以外の住人も異国人と交流するべきだという教師たちの主張によって、ザーラの人間はハインリッヒ語とミサギ語の両方を扱うことができるよう教育されているのだ。だが現実的にはそれは建前にすぎない。浅葱の言う通り、商人になるわけでもない一般市民にはミサギ語を必死になって習得する理由がないのだ。学校を卒業して大人になってしまえば、せいぜい挨拶程度しかできなくなる。
 シュウは机の上に並べたミサギ語の教科書や参考書の山を思い浮かべ、ああ頑張っておいてよかった、と思った。そしてその光景から、なぜ今まで思いつかなかったのか不思議なくらい当然な疑問が浮かんだ。
「あの」
「ん?」
「僕も、聞いてもいいですか」
「ええよ。おれに答えられることやったらなんでも教えるで」
 浅葱の朗らかな笑いに励まされ、シュウは思い切って尋ねてみた。
「僕、どうしてここにいるんですか?」
 それを聞くのは少しだけ怖かった。ここはミサギ国だというが、シュウには山越えをした記憶などまったくないのだ。山越えには一週間を要するので、気付かないうちに連れ去られてきたというのは現実的でない。夜いつものように自室で眠って、朝目覚めたら監獄にいたというわけだ。瞬間移動したとしか思えない状況だ。そうでなければ、その間の記憶がきれいさっぱり消えてしまっているか。もし記憶が消えてしまっているのなら、その間に一体自分が何をしたのか知りたかった。ザーラでの彼は品行方正な人間で、投獄されるようなことをする人種ではないはずなのだ。
 質問を受けた浅葱は、なにやら微妙な表情をして答えた。
「それ、おれが今からシュウくんに聞こうと思ってたことなんやけど」


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