序章:地獄の業火が罪人を焼き尽くす



 逃げろ、逃げろ、逃げろ。
 彼の頭にあったのはその言葉だけだった。

 深い山の中、夜の闇が辺りをすっぽりと包み込んでいた。木々が生い茂り何重にも枝葉を広げて空を覆い隠しているため、わずかに出ている星の光も彼の元までは届かない。不気味なほど暗い闇の中で生き物は全て息をひそめていた。息を荒げて走り続ける彼も肌でそのことを感じ取っていた。けものたちが木々の向こうで身を潜め彼の気配を伺っている。彼らが隠れているのは決して彼を恐れているからではない。人間などとは比べものにならない存在がこの闇の中にはいるのだ。人間は普通、闇の領域と化した夜のこの山に踏み入ることはない。けものも恐れる存在に闇夜で目をつけられてしまったら最後、もう二度と朝を迎えることはないからだ。
 だが彼が逃げているのは、その存在よりもさらに恐ろしい、得体のしれないものだった。
 彼は生まれてこの方一度もこの山へ入ったことはなかったが、仕事で頻繁に入っている父親にいろいろと話を聞いてはいた。まともな道がなく昼間に入っても薄暗いこの山で迷わないために、人々は決まったルートに点々と赤い旗を立てそれを辿っていく。それがなければ山越えなどは不可能だった。闇の中、彼の目にはなぜかその赤だけは映っていた。
 普通の人間である彼の目は闇の中で全く役に立たない。転がる石、生い茂る草、地上に露出した木の根に次々と足をとられ、何度も何度も地面に倒れている。体中に擦り傷を作り服もあちこち破けているが、彼は一度も動きを止めなかった。いくら転んで走って息が上がっても、彼は何かに突き動かされるように走り続ける。
 ふいに開けた空間が現れて彼は思わず足を止めた。そこは天然の展望台だった。高く突き出した崖の下には背の高い植物が生えておらず、天気のいい時ならばふもとの町を見渡すことができる。だが、今は夜だ。彼の目に飛び込んできたのは町ではなく、地を覆い尽くす赤の色だった。判断力などとうに失った彼はそれを目印の旗と認識し、ざりりと地を削りながら足を踏み出す。二歩目を地につけた瞬間彼はバランスを崩した。反射的に何かを掴んだため、崖下へ転落するという最悪の事態は避けられた。彼は宙にぷらりと下がった足を崖の上へ戻し後ずさり、後ろを向いて他に目印はないのかと暗闇を睨みつける。見つけた。彼は走り出す。もう一面の赤色へ意識を向けることはなかった。
 もしこれが日の高いうちの出来事だったなら、彼は目印を見間違えたりはしなかっただろう。一面の赤色はよく見れば、ゆらゆらと揺らめいている。あちこちで消えては光り、光っては消えを繰り返す。
 それは町を焼き尽くす地獄の業火だった。


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