件の空き家の前まで来ると、清は一旦足を止め石油ランプの灯を消した。ランプの光は明るく、夜道を歩くには頼りになるが、その光が届くのはごく狭い範囲だ。下手に見えていては却って気を取られてしまう。これから対峙するものは人ならざるものであり、暗闇などものともしないだろう。退魔の術を身に着けているとはいえ、清はただの人間である。五感の全てを使って相手をしなければとても太刀打ちできない。
闇に目を慣らし、月明りに照らされた草の葉一枚一枚が見分けられるようになるのを待って、清と奏太は再び壊れた木戸から中へと侵入した。土間をぐるりと見回し二階へ上る方法を探すも、使えそうなものは腐りかけた梯子一台のみである。試しに足をかけてみると、みしみしと嫌な音こそ鳴るものの、腐食の酷い部分を踏まなければどうにか上れそうだ。どの横木が丈夫か念入りに確かめていると、奏太が一足先にふわりと二階まで浮き上がっていった。
『二階なのか』
「おそらくは。さっき見せられたんだ」
梯子が壊れないよう細心の注意を払いながら、どうにか二階までよじ登る。どこか屋根に穴でも空いているのか、月の光がうっすらと差し込んでいた。その光の中に浮かび上がった室内の様子はやはり先程目にした光景と同じだ。板張りの床には藁くずが散らばり、農作業に使う道具も散乱している。奥の方に機織り機もある。勇少年はきっと、その機織り機の奥の小部屋にいるのだろう。
警戒しつつ近付いていくと、先程目にしたものとは違う点に気付いた。小部屋の戸に黄ばんだ小さな紙が貼りつけられている。ちょうど清の身長と同じくらいの高さに貼られたそれには、文字とも模様ともつかぬ線がびっしりと書きつけられていた。
「呪符だね。うちの術とは違うもののようだけれど、どうしてこんな所に」
首を傾げつつ、清は呪符に手を伸ばす。彼の指が黄ばんだ紙に触れるか触れないかのところで、ばちっと大きく火花の散るような音が響いた。呪符に弾かれた清は勢いに押されて二、三歩ほど後退し、すぐ後ろにあった機織り機に頭をぶつける。
「いった……」
よろけてしゃがみこんだ清は情けない声をあげて頭を抱えた。弾かれた指がぴりぴりしている。それほど強い術が込められているようには見えなかった。一体誰がこのような術を仕掛けたのか、そんな疑問が浮かんでいたために立ち上がるのが遅れていた清の頭上から、黒い布のようなものがばさばさと落ちてきた。舞い上がる埃に咳き込みながら布をどけようとして、それが布ではなく黒く長い人間の髪の毛だと気付く。
ぞっと鳥肌を立てて顔を上げた清の目の前に、眼を爛々と輝かせた女の顔が現れる。
「あっ……!」
反射的に懐の呪符を取り出そうとするも、間に合わなかった。まるで生き物のようにずるりと動き出した髪の毛が、瞬く間に清の喉を絞め上げ何重にも絡みつく。両手も同じように捕えられてしまい、振りほどくこともできない。どうにか逃れようともがいているうちに、巻きつく髪の毛は胸まで覆い始めている。
『このっ、セイを離せ!』
奏太の叫びが少し後ろの方から聞こえた。奏太は捕えられてはいないようだが、ひどくせわしなく動き回っている気配がする。捕まるまいと逃げ回っているのだろう。助けは期待できない。そうしている間にも絡み付く髪の毛はじわじわと量を増し、絞めつけを強めていた。度を超した人外の力で押しつぶされ、肋骨が、肺が悲鳴を上げている。
すぐ近くに迫った女の顔はにたりと笑みを浮かべた。見開かれた目は血走り、頬はこけた、身の毛がよだつような凄惨な様相である。清は必死に歯を食いしばって女を睨み返していたが、気概だけでどうにかできるような相手ではなかった。視界がだんだんと暗くなり、体からは力が抜けていく。
完全に意識を失う直前、絡みつく髪の毛が痣のできた右腕を捕えた。鋭い痛みが走り、清はもはや悲鳴も上げられぬまま反射的にびくりと体を痙攣させる。そして清の代わりに、響きわたったのは女の霊が上げた耳をつんざくような叫び声だった。女のおぞましい笑い顔は一転して恐怖に染まり、まるで火に炙られでもしたかのように後ろへ飛びすさる。大量の髪の毛もまた、波が引くようにざざっと音を立て清の体から離れていった。
『セイ!』
解放された清は床の上にくずおれる。頭がくらくらして、息がうまくできない。込み上げてくる気持ち悪さに耐えながら必死に空気を貪っていると、駆け寄ってきた奏太がまだ残っていた髪の毛をむしり取るようにして取り除いてくれた。
『セイ』
小さな手がたどたどしく背中をさする。大丈夫だと答えてやりたかったが、押しつぶされた喉からは咳しか出てこない。
女の霊はどうなったのか。顔を上げてみると、女はその長い髪の毛で自分の体を隠すようにして、清の様子をこわごわと窺っている。先程までの勢いはどこへ行ってしまったのか、すっかり怯えているように見えた。だが、油断は禁物だ。いつまたこちらを攻撃してくるとも知れない。清は女と目を合わせゆっくりと立ち上がった。酸欠はまだ収まっていない。ひどい眩暈に襲われふらつきそうになるが、どうにか踏みとどまることができた。女が一歩後ずさる。
清は懐から着物の下へ左手を差し入れ、またずきずきと痛みだした右腕の痣にそっと触れる。文子に巻いてもらった包帯の間には、これでもかというほど呪符を挟んでおいたのだ。指に触った一枚の呪符を引き抜き口元へ当てると、女の霊はまた一歩後退した。半透明の体が壁にめり込み、逃げるように向こう側へ消えていく。清は女の消えた辺りをじっと睨みつけていたが、しばらく経っても何も起こらない。女の気配がすっかり消えてしまったというわけではないが、こちらを害そうという覇気はなくしてしまった。清はため息をついて床に腰を下ろす。
『逃げた』
「……うん」
奏太が言外にどうするんだ、と問うているのは分かっていたが、清は何も言わずにゆっくりと深呼吸を繰り返した。酸欠による眩暈で揺れていた視界が少しずつ落ち着いていく。こんな苦しい思いをさせられるのは今日だけでもう二度目だ。気を失った時に見せられた大きな黒い影が一度目で、今の女の霊が二度目である。女の霊が大人しくなったとしても、あの黒い影がまた襲ってこないとも限らない。
ただし、それはあの影が実在していればの話である。なにしろ黒い影に襲われたのはほとんど夢の中のようなものだ。完全にただの夢ではないだろうが、現実に起こったことでもない。現に、今こうして何をするでもなくぼんやりと座りこんでいる清に向かって、害をなそうとする妖しのものはここにはいなかった。
清が動かないので手持ち無沙汰になった奏太がふわりと宙に浮き上がる。戸に貼られた呪符と同じ高さになると、その黄ばんだ紙を遠巻きにしながら怪訝そうに見やった。小さな額にしわを寄せ首を傾げている。
「奏太、触ってはいけないよ」
『分かっている。だが、セイ、これは呪符ではない』
「おや」
清は目を瞬かせた。いかに小さくとも、霊体である奏太の感覚は、生身の人間である清のそれよりもずっと正確だ。その奏太が呪符でないと言うならば、本当に呪符ではないのだろう。だがただの紙でもない。それは先刻触れようとした清が弾かれたこと、また呪符でないと言いつつも決して触ろうとはしない奏太の態度から明らかだ。
「呪符でないならば、何なんだい」
立ち上がりながらそう尋ねるも、奏太は返事をしなかった。単に分からないのか、分かっていても説明できないのかのどちらかだろう。この使役霊が人間の言葉を覚えてしばらく経つが、まだまだ語彙が足りていない。
清は奏太の隣へ立つと、呪符ではないというその古びた紙へそっと手を伸ばした。直接触れることはせず、手をかざすようにして様子を見る。先程触れてしまった時にもそうだが、直に触れるまでは特に何の力も感じない。だが指がちらとでも紙の近くへ行くと、ぴりぴりと静電気が走るような微細な感覚がある。結界のようなものが張られていて、近付くものを拒絶しているのかもしれない。清は左手を古びた紙の上にかざしたまま、右手で刀印を結び口元へ当てる。
「……祓いたまえ、清めたまえ。悪鬼を退けんことを、慎みて願い奉る」
かざした左の掌に、おののくような震えが伝わる。
「解け」
ぱきん、と何かが割れたような音が聞こえた。抵抗らしい抵抗もないまま、結界はあっさりと解けてしまった。呪符を用いて何らかの術がかけられていたならば、解呪するにももう少し苦労しそうなものである。清は左の手を下ろさず、呪符のような見た目をした黄ばんだ紙に触れた。ぴりぴりとした感覚もなければ、弾き飛ばされることもない。ただの紙だ。
『はがすのか』
「うん」
頷きつつも、すぐには剥がそうとしない。紙をつまんだ体勢のまま清は目を閉じた。
目の前に、怒りの形相で仁王立ちする大柄の男がいた。こちらに向かって何事かを喚き散らしているようだが、何と言っているのか聞き取れない。小さな居間で囲んでいた食卓はひっくり返され、せっかく用意した食事は畳の上に零れてしまっている。早く片付けなければいけないと思うのに、男が恐ろしくて動くことができない。俯いて小さくなって、早く終わってくれと必死に祈っているのに、男の怒りはどんどん膨れ上がっていくようだ。ふと男の怒鳴り声が途切れた時、後ろから赤子の火のついたような泣き声が聞こえる。いけない。早くあやして泣き止ませないと、彼の怒りはあの子の方へ向いてしまう。立ち上がりかけた彼女の肩を男がぐいと力いっぱい引いた。端の欠けた徳利が振りかぶられた次の瞬間、視界は真っ暗になった。
目を開けると、そこは薄暗い二畳間であった。一つしかない小さな窓には板が打ち付けられ、明り取りの用をなしてはいない。わずかに漏れる日の光が、今が昼であることを教えてくれる。だが彼女にとって、今が昼か夜かなどもはや関係のないことだ。ぎしぎしと男が近付いてくる音が聞こえる。身を隠す場所はどこにもない。
「坊やは、元気にしておりますのか」
二畳間の入り口に立った男に向かって、彼女はたまらずそう問いかけた。もう何日もここに閉じ込められ、愛しい坊やの姿を見ていない。
「坊やに会わせてください」
答えない男へ縋り付く。男は伸ばされた彼女の腕を取り、彼女の体を引きずり上げるようにして立たせる。お前が坊やに悪いことを教えぬよう、こうして守ってやっているのだ。子供に言い聞かせるような口調でそう諭す。悪いことなど請われたって教えるつもりはないのに。彼女が唇を噛んで俯くと、男の機嫌が悪くなる。底冷えするような低い声が、その態度はなんだ、と彼女を糾弾した。反射的に謝ろうとした彼女の体は床の上に投げ出され、覆い被さってきた男の大きな手が彼女の首を絞める。もがく彼女のすぐ目の前で、男は恍惚の表情を浮かべ、唇をいびつに歪めて笑った。
「やめて」
彼女の心からの叫びは男には届かない。首を絞められたまま、男の手が着物にかけられたのに気付き、彼女はたまらず目を閉じる。
「やめてください、あなた、お願い」
絞り出した必死の懇願を最後に、視界はまた暗転した。
次に目を開けたとき、月明かりの差し込む二階の広間で、彼女は愛する我が子を腕に抱いていた。ろくな食べ物を与えられないせいか、坊やは次の春で三歳になるとは思えないほど小さく痩せっぽちな子供だ。同い年の子供たちのようにお外を駆け回って遊ぶことは許されず、我がままを言ったり泣いたりすれば、ただちに二階の二畳間へ母親と共に押し込まれる。おかげで手足は頼りなく、少し走れば足がもつれて転んでしまう。そのため、彼女は坊やを歩かせなかった。坊やがこの二階で転べば、一階にいるあの男に聞こえてしまうだろう。彼女は飢えて力の入らない両腕で坊やの背中を撫で、音を立てぬようにすり足で梯子を目指した。何としてでも、あの男に気付かれる前にこの家を出なければならない。
だが、彼女の懸命の行動もむなしく、梯子まであと一歩というところで、階下からぎしぎしと梯子のきしむ音が聞こえだした。男が上ってくる。彼女は慌てて引き返そうとして、足をもつれさせ転んでしまった。抱きしめた坊やをかばい腰を打ち付ける。坊やは驚いた顔で彼女を見上げ、泣き出しそうに顔を歪めたが、声を上げようとはしなかった。泣き声を上げれば殴られることを知っているのだ。
「ごめんなさい」
近付いてくる男が怒っているのは顔を見なくても分かる。彼女は罵声を浴びる前に、先手を打って床に額をつけた。怒らせてしまったら最後、男の気が済むまで耐えなければならない。悪いことをしていなくても土下座して謝るのは常のことだ。もとより傷つくほどの矜持も持ち合わせていない。男の方も、彼女の土下座で心が動くことはなかった。伸ばしっ放しになっている長い髪をわし掴みにされ、痣だらけの体が殴られ、蹴られる。ひとしきり暴れて満足したのか、男はぐったりと動けなくなった彼女を引きずり二畳間へと押し込んだ。
乱暴に閉められた戸の向こうから、諭すような声が聞こえてくる。本当にお前はしょうがない奴だ。おれがこんなにお前を愛しているのに、坊やに悪いことを吹き込んで、おれの元から去ろうとするなんて。きっとお前には悪いものが憑いているんだ。おれはお前を救うために、高名なお坊様にありがたいお札を書いていただいたんだ。このお札があれば、悪いものに憑かれたお前は、ここから一生出ることはできない。
戸のすぐ向こう側で、押し殺された坊やの泣き声がする。かあちゃん、かあちゃんと、舌たらずな声で泣いているのが聞こえる。彼女は痛む体を引きずり、閉め切られた戸に手をかけるが、開けることができない。
「お願いです、開けてください」
男の足音が遠ざかっていく。返事もせず一階へ下りて行ってしまった。何の仕掛けもないただの木戸だったはずの戸は、まるで鉄に変わってしまったかのようにびくともしない。坊やのか細い泣き声が少しずつ弱く小さくなっていく。彼女は爪がはがれるまで木戸を引っ掻き、立てぬようになるまで体当たりをし、どうにか戸を開けようと苦心したが、とうとう気を失ってしまうまで、戸の向こうにいる坊やを抱きしめてやることはできなかった。
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