其の五


 清はゆっくりと目を開ける。戸に貼りつけられた黄ばんだ「お札」は乾燥しきっており、触れた指の水分を奪っていくようだ。千切れないようにゆるく引っ張ってみれば、ぱりぱりと小さく割れるような音を立てて木戸から剥がれていく。お札が完全に戸から離れたとき、ひとつながりの紙であったそれはまるで砂をこぼしたように細かな塵になって清の手の中から崩れ落ちて行った。手のひらにわずかに残った塵も払い落とし、清が二畳間の入口へ手をかける。何かに弾き返されることもなく、鉄のように重たくなっているわけでもない。何の抵抗もなく戸が開いた。
 狭い二畳間の中はやはり暗い。板を打ち付けられた窓からわずかに漏れる月明かりが清の足元を細く照らした。暗闇の中、髪の長い女の霊は勇少年をその腕に抱きかかえ、身を縮めて震えている。大人しく抱かれる勇少年は、遠慮がちに女の霊の背中に手を回していた。困惑と恐怖の混ざり合った表情で、どこか女の霊を気遣うような様子も見せながら、清と女の霊とを交互に見やる。清は入口から動かずに、膝をついてしゃがみ込んだ。
「ずっとここに閉じ込められていたのですね。お札は剥がしました。あなたを縛るものはもうありません」
 女が恐る恐る顔を上げたように見えた。髪が長いせいで表情はよく見えない。
「その子はあなたの子ではありません。あなたのお子さんは先に行ってあなたを待っていますよ」
 勇少年が女を心配そうに見上げる。女は勇少年を抱く手に力を込め、清から逃げるようにじりじりと後ずさったが、背中がすぐに壁にぶつかってしまった。
 女の動きを警戒しつつ、どう説得したものかと思案する清は、ふと懐にささやかな重みを感じる。手を差し入れてみれば、身に覚えのないものがそこにあった。手のひらにすっぽりと収まってしまうほど小さな、赤い鼻緒の可愛らしい草履だ。歩き出したばかりの子供が履くものだろう。どうしてこんなものが、そう思った清に向かって、女の霊が何か声をかけた。くぐもった低い声はもはや人の声とは聞こえず、何と言っているのかは分からない。だが、長い髪に隠れた女の目は明らかにその草履を注視していた。清は手の中の草履と女を見比べ、ああ、とため息をつく。
「これは……お子さんの忘れ物なんですね」
 清は手の上で草履をきちんと揃えると、女に向かって差し出した。
「黄泉への旅路が裸足では辛いでしょう。きっと心細い思いをしていますよ。どうか、お子さんのために、持って行ってあげてください」
 女はすぐには動かなかった。差し出された草履を見つめ、それを持つ清をこわごわと見やり、おずおずと手を差し出す。小さな草履は青白い女の手へ移った。女は愛おしげに赤い鼻緒を指でなぞる。何度も何度もその動作を繰り返すうち、唸るような低い声が女の喉から漏れ出した。泣いているのだ。清はそれ以上声をかけようとはしなかった。
 しばらく泣き続け、気が済んだのだろうか、女の泣き声が止んだ。女は腕を緩めると、抱きしめていた勇少年を解放し自分の足で立たせる。勇少年はされるがままに女から離れると、自分を挟んで向かい合う清と女の霊を交互に見やった。清が手を差し出すと、勇少年は女へ背を向け差し出された手をとる。手を離した女は、少年の代わりに小さな草履を両手で胸に押し当てて、勇少年の背中をじっと見つめていた。視線に気付いているのかいないのか、清と手をつないだ勇少年はおずおずと女の方を振り返る。長い髪の間からわずかに見える女の口元が、かすかに笑みの形を作ったように見えた。女は深々と頭を下げ、その姿勢のままで煙のように姿が揺らぎ、少しずつ消えていく。清と勇少年が見守る中、女の霊は一分も経たずに跡形もなく消え失せてしまった。
 女の姿が完全に見えなくなって、ようやく清は立ち上がった。ずっとしゃがんだまま動かずにいたので、足が少ししびれてしまっている。むず痒い足をさすっていると、手をつないだ勇少年が心細げに見上げてくる。
「大変だったね。もう終わったから、帰ろう。……自分の名前は、分かるかい」
 にこりと笑いかけると、少年の表情も緩んだ。小さな声で返事をする。
「いさむ」
「そう。それなら、君の帰るべき場所も分かるね」
 勇少年はこくりと頷いた。その頭をくしゃりと撫で、つないでいた手を離し、小さな背を押す。
「いい子だ。行きなさい」
 少年は清の手に従い、ぱっと弾かれたように走り出した。狭い家の中だということを忘れたようだ。全力で走る少年の体は見る見るうちに透けて見えなくなっていく。あと少しで壁にぶつかるというところで、少年も女の霊と同じように清の視界から消えてしまった。少年を捕えていた女の霊はもういない。からだとこころは結びつくものであり、障害になるものがなければ勇少年の心はまっすぐに体の元へ戻ることができるだろう。
 自分も待ち人のいる長屋へ帰ろうと、清が腰を上げたときだった。ふと視界の端に映ったものが気にかかり足を止める。目を細めて薄暗い部屋の中をよくよく見てみると、床板が一箇所だけ不自然に盛り上がっていることに気付いた。床下に少し空間が設けられているようで、盛り上がっている部分の板が蓋をしているようだ。開けようとするも、持ち手がなく重たい床板はなかなか持ち上がらない。盛り上がった部分に指をかけ、力いっぱい引き上げると、劣化した板はみしみしと音を立てた。
 あらわになった空間は、二階の床と一階の天井の間のごく狭い場所だった。どこの家でも、ものを収納するために使うような場所ではない。だが、床へ穴を開け、このような開閉しづらい蓋をしている理由はすぐに分かった。
 穴の中には白骨化した遺体が横たわっていた。埋葬されたのではなく、乱暴に投げ込まれたのだろう。骨を覆う着物らしきものは既に土くれと化しており、模様も形も分からない。体の大きさからは恐らく大人の女性だろうと思われる。誰の遺体なのかは自ずと想像がついた。
「怪談では、急死した夫の後を追って妻が子供と心中自殺したという話しだったけれど……きっとこの女性は夫に殺されたのだろうね。体はこんな所に閉じ込められ、魂もあの札で縛りつけられていた」
『だが、あれは呪符ではない』
「うん。まあ、貼り付けられた当初は多少なりとも力が込められていたのかもしれないが、何年も効果の残るようなものではない。彼女を閉じ込めていたのは彼女の恐怖心だよ。ただの紙切れに力を持たせてしまうほど、それを貼った夫が怖かったんだろうね。独り身の男性が憑り殺されるというのも、夫が恋しかったわけじゃなく、怖かったんだ」
 清は穴の縁で屈み込むと、横たわる遺体の前でしばし手を合わせる。彼女の魂がもうここにないことも、彼がこうして拝んだところで彼女のために何かしてやれるわけではないことも分かっていたが、それでも彼女が安らかに眠れるように祈りたくなったのだ。
 しばらく手を合わせて、清は今度こそ腰を上げた。今頃は勇少年も心を取り戻したことだろう。少年だけが戻り、清がいつまでも戻らないとなれば、文子に気を揉ませることになる。それに、夜が明けたら馴染みのお寺へ行き、遺体を供養してもらわなければならない。ここへ彼女を置いていくのは気が引けるが、あの狭い長屋には遺体を安置しておけるような場所はなく、そもそも清一人では運ぶこともできないだろう。最後にもう一度会釈をして、清は踵を返した。はずみで軽い咳が出てしまい、歩きながらこほこほと続けて咳き込む。手ひどくやられたせいか喉が痛い。手で喉を押さえてさすっていると、すぐ後ろについてきていた奏太に見咎められた。
『痛むのか』
「ああ、大丈夫だよ。今回はちょっと大変だったな……あの草履がなかったらどうしていいか分からなかっただろうし、本当に助かった」
『草履など見なかった。いつの間に拾ったんだ』
「いや、それが僕にも分からないんだ。いつの間にか懐に入っていた」
 正直に答えると、奏太は首を傾げる。
「あの人の坊やが、あの人のためにそっと忍ばせてくれたんじゃないかな。そう思うことにしようよ」
 ふうん、と気のない声が返ってきた。尋ねはしたものの、それほど気にはしていないらしい。地面を蹴った小さな体は浮かび上がり、清の背中へじゃれついてくる。奏太はこうして背中から抱きつくことを好む。人型の体を自在に動かし、人間の言葉を覚えていても、人間らしく感情をあらわすことはまだ苦手なのだが、これは彼にできる数少ない感情表現だ。加えて、着物の上から背中を撫でる小さな手の動きが、清の体を慮っての行動だと気付き、思わず笑みを零す。
「大丈夫だって。おまえがいれば大丈夫だと、言っただろう」
『当然だ』
 耳元で答える声はどこか誇らしげだった。





前頁へ 目次へ 表紙へ