其の参


 顔を上げた少年はひどく怯えているようだった。ずっとここで泣き続けていたのか、顔を伏せていた膝は涙と鼻水で濡れそぼっている。ぼんやりと呆けていた少年と確かに同じ顔なのに、まるで別人だ。怖がらせないようにと気を遣いながら、清は膝をつき少年をそっと抱き寄せる。背中を撫でてやると、少年は声を殺したままべそべそと泣き出した。助けて、助けてとすがりつく声はすぐ耳元でしているはずなのに、どこか遠くから聞こえてくるかのようだ。清はもう一度話しかけようとするが、やはり声は出ない。目線を落とした先では、少年の体越しに床の板目がうっすらと見えている。
 清は自分に襲いかかってきた少年の、心をどこかへ置いてきてしまったかのような空虚な表情を思い返す。きっと、この子が置いて行かれてしまった心なのだろう。ならば一刻も早く肉体の元へ戻してやらねばならない。
 だが、そう思う心とは裏腹に、体はどんどん重たくなっている。部屋の中の澱んだ空気が肺の中に溜まり、鉛のように重みを増しているように感じる。清は大きく息をつき呼吸を整えると、少年の手を引きながらゆっくり立ち上がった。不安げに見上げてくる少年に笑いかけ手を引く。立ち上がる少年の挙動には普段より注意を払った。何度も押し倒されてはかなわない。
 警戒する必要もなく、少年は立ち上がると縋り付くように清へ身を寄せ手を握った。二畳ほどしかないごく狭い部屋であるため、三歩も歩けばもう二階の広間へ出ることができる。それなのに、たった三歩がひどく遠い。全身が重く、足が持ち上がらない。ずるずると板間をすり足で動き、敷居のすぐ傍まで来たとき、ふと頭上に影が差した。
「あっ……」
 背後で少年が怯えた声を上げる。握っていた手を離し、後ろへ飛び退ったのが気配で分かった。逃げられるような隙間はないのだが、反射的に体が動いたのだろう。清はと言えば、体が凍りついたように動けなくなっていた。すぐ目の前に立ち塞がった黒い影は彼の身長よりもかなり大きく、何度瞬きをしてもその輪郭がぼやけてはっきりとした形が分からない。辛うじて人の形をしているらしいことは分かるのだが、一般的な成人男性より一回りも二回りも大きいその影はとても人間には思えなかった。じりじりとにじり寄ってくる影にじっと見つめられているようで、彼は知らず知らずのうちに溜まっていた唾をごくりと飲み下す。そうして体が動かせないばかりか、息ができなくなっていることに気付いた。両手を握りしめ意識を集中させるが、影の呪縛から逃れることができない。影が黒い両手を伸ばしてくる。右腕を掴まれ、握りつぶされそうな痛みに思考が中断する。捕えられた右腕が引っ張り上げられ、爪先立ちになって見上げた清の視界の端で、影がもう一つの腕を振り上げたのが見えた。殴られる。そう思った途端、意識がふつりと途絶えた。


 次に意識を取り戻した時、最初に感じたのは自分の体を揺さぶっている小さな手だった。半分無意識のうちに奏太、と呼びなれた相棒の名を呼ぼうとして、うまく呼吸ができずに咳き込んでしまう。溺れた時のように、いくら息を吸っても苦しさが収まらない。げほげほと何度も咳き込みながら必死に深呼吸を繰り返し、ようやくまともに息ができるようになった頃には苦しさのあまり溢れた涙で視界がにじんでいた。
『セイ。大丈夫か』
 床に転がったまま呼吸を整えていると、奏太がひょっこりと顔を出す。涙を拭い、奏太の手を借りて起き上がろうとすると、頭と右腕がずきりと鈍く痛んだ。上着を脱いで確かめてみると、影に捕まれた右腕にはくっきりと手の形の痣ができている。
 痛みをやり過ごし起き上がってみれば、彼がいるのは二階の小部屋ではなく一階の寝室であった。大きな黒い影は消え失せ、怯え泣いていた少年もまたぼんやりとした表情に戻って清の傍らで大人しく座っている。これ以上こちらを害するつもりはないらしく、立ち上がるように促せば素直に腰を上げた。
 二階に置き去りになっているであろう少年の心が気がかりではあるが、ひとまず体だけでも避難させてしまわなければならない。すっかり夜になってしまったようだが、幸い持参した石油ランプは倒れることもなく温かい火を灯し続けていた。清はまだじくじくと蝕むような痛みが残る右手でランプを拾い上げ、もう片方の手を少年の手と繋ぐ。障子戸はやはり普通に引いても開かないようになっていたが、入ってきたときと同じように術でこじ開けることができた。
 出口に向かう途中、先程の黒い影が近付いてくることはなかった。だがここは狭い家の中であり、どこかからこちらの様子を窺っていることは明らかだった。
 少年の手を引いて土間へ下りる。障子戸とは違い、玄関の木戸は戸そのものを外してしまったためか、こちらは閉め切られてはいなかった。特に抵抗もなくあっさりと戸口を抜け、清と少年は夜の闇の中へと抜け出す。頭上には星空が広がり、清浄な空気が肺を満たした。体が嘘のようにふっと軽くなり、自然と足の進みも速くなる。彼らはランプの灯りを頼りに、一目散に長屋へ逃げ帰った。
 長屋では、文子が戸口で待ってくれていた。清は少年の背を押して先に戸口をくぐらせる。外の道へさっと目を走らせ、誰の姿もないことを確認して玄関の鍵をかけた。文子は少年の手を取るとしゃがみこんで目線を合わせる。
「無事で本当によかったわ。怖かったでしょう」
 頭を撫でてそう言葉をかけるが、少年は答えない。やはり心はまだ置き去りになってしまっているのだろう。だが、怪異から離れたためか少しは人心地がついたようで、見つけた時には涎を垂れ流していた口も大人しく閉じられていた。気遣わしげな文子にどう説明しようかと考えながら、清は奥の部屋の様子を窺う。家の中は静かで灯りも落とされている。
「妙子なら、ついさっき眠ったところです。泣き疲れたみたいで」
「そうでしたか」
 清は頷き、声を潜めた。眠れたのならばできる限り起こしてしまうのは避けたい。友達が無事であることを聞けば安心はするかもしれないが、これからもう一度あの廃屋に行くことが知られればいらぬ心配をかけるだろう。
「早く帰らないと、お家の方もきっと心配しているわ。少し休んで落ち着いたら清さんに送っていってもらいましょうね」
 文子が少年の顔を拭ってやりながらそう声をかけるが、やはり少年は何も反応しない。
「文子さん、この子の家がどこか、ご存じですか」
「ええ。街道の近くの、大きな銀杏の木があるお家です。中須さんというお家で、この子は三人兄弟の真ん中の勇くん」
「ああ、あの銀杏の家でしたら多分、分かると思います。勇くんが案内してくれればいいのですが、難しいかもしれないので」
「どういうことですか」
 文子の表情に影が差す。清は彼女を必要以上に怯えさせないよう、廃屋で起きたできごとの詳細は伏せつつ現状を簡単に説明した。廃屋には悪霊がおり、肝だめしとして忍び込んだ勇少年は捕えられてしまった。肉体はこうして取り返すことができたが、心の一部がまだ悪霊の元に捕えられたままだと思われる、と。
「手を引いてやれば歩くことはできますし、親御さんのところへは早く帰してやるべきだと思います。ですが勿論このままではいけません。心と体が離れてあまり時間が経ってしまうと、霊から解放されてもうまく心が戻ってこないかもしれません」
「そんな……」
「文子さん、あの廃屋について、知っていることがあれば教えてください。一体どのような事情で霊が住みつくようになったのか、それが分かれば勇くんの心を返してもらう手立ても思いつくかもしれません。相手はそれなりに力を持った霊のようですし、できる限りの準備はしていきたいです」
 清は着物を肌蹴させ、くっきりと痣のできた右腕を文子に見せる。文子の顔つきが一気に険しさを帯びた。
「怪我をしたのなら、どうしてもっと早く言わないの。すぐに冷やしますから、ほら、脱ぎなさい」
「いや、あの」
「話なら手当てしながらでもできるでしょう」
「……はい」
 母の顔になった文子に逆らうことは止め、大人しく腕を差し出す。右腕の痣は赤く腫れてしまっており、熱を持ち出していた。文子の手で濡れ布巾を被せられると、冷たさがびりびりと体に伝わり思わず肩に力を入れてしまう。傷に染みるが、冷やされるのは心地いい。二、三度布巾を取り替えて傷を充分に冷やしたのち、その上から包帯を巻いて固定する。その作業の合間に、文子は妙子から聞いたという怪談話を教えてくれた。あくまで子供の噂ですよ、という念押しの通り、怪談としてはよくある話だ。
 昔、あの家では若い夫婦が仲睦まじく暮らしていた。夫婦の間には可愛い男の子も生まれ幸せに暮らしていた。だがある日、夫が事故に遭い急死する。愛する夫を失った妻は悲しみに暮れ、息子と心中自殺した。幽霊となった妻は夫を失った悲しみのあまり成仏することもできず、ずっとあの家で夫の帰りを待ち続けているのだという。
「その女性の幽霊は、帰ってこない夫が恋しいあまり、廃屋に足を踏み入れた独り身の男の人をあの世へ連れて行ってしまう……つまりは憑り殺してしまうのだと言われているそうです。夫の代わりに自分の傍に置いておけるようにということだとか。妙子が清さんに行ってはいけないと言ったのもそれが理由だったみたいで」
「なるほど、女性の霊ですか」
 廃屋の中で目にした妖しのものは、大きな黒い人型の影だけだ。輪郭がぼやけていて女性なのか男性なのか判別もできなかったし、力が強かったといってもそれだけで男性の霊だと決めつけることはできない。霊体は肉体とは性質の違うものであり、女性の霊であっても強い力を持つものはいる。現状では子供たちの怪談と廃屋の霊に関連があるかどうかは分からない。気に留めておく必要はあるが、あまり信憑性はないかもしれない。
 そんなことを考えていると、それまで大人しく座っていた勇少年がすっくと立ち上がった。清と文子が揃って彼を見上げる。
「ぼく、行かなきゃ」
 勇少年の声はふわふわと浮いたような頼りないものであったが、彼は確かに自分の口でそう言った。清と文子は困惑気味に顔を見合わせるが、彼らが相談を始めるより先に勇少年はきびすを返し戸口へと歩き出す。土間へ下りた彼の足は裸足のままで、すぐ近くに脱ぎ捨てられた自分の草履には目もくれない。まっすぐ前を見て静かに歩くその姿はなんとも不気味なもので、文子などはその光景に固まってしまった。清は勇少年の肩を掴んで立ち止まらせようとするが、力を込めても少年は進んで行ってしまう。なす術もなく一緒に戸口まで来てしまったが、勇少年が戸口を出て左に曲がったのを見た瞬間、清は懐に入れた呪符を取り出して勇少年の背に貼りつけた。ぴたり、と足が止まる。
「いい子だからここで待っておいで。あちらへ行ってはいけないよ」
 そう言いながら手を引けば、勇少年は素直に家の中へと戻ってきた。また元の空虚な表情でぼんやりと立ち尽くしている。
「呼ばれていますね」
 勇少年の手を引きながら清は呟いた。ここから街道の方へ行くのであれば、どのような道を通るにしても戸口を出て右へ曲がるはずなのだ。左に曲がったということは、彼が行こうとしているのは廃屋のある方だ。まさか一緒に連れて行くわけにはいかない。
「まさか、幽霊に呼ばれているのですか」
 いつも気丈な文子の声色に少しばかり恐れが混じっている。
「いいえ、おそらくは体と離ればなれになった心が、自分の体に戻りたい一心で呼び寄せようとしているのでしょう。結界を張りましたので、しばらくは呼ばれることもないとは思います。勇くんの背に貼った呪符は絶対に剥がさないようにしてくださいね」
 文子は真剣な顔で頷くと、砂のついた足のまま部屋の中へ戻ってきた勇少年をぎゅっと抱き寄せた。
「なるべく早く終わらせてきます」
「清さん、どうか気を付けて」
「はい」
 清は石油ランプを拾い上げ、再び星空の下へと駆け戻る。夜道を急ぐ彼の肩の上に、奏太がすうっと蜃気楼のように姿を現した。使役霊である彼の姿は只人の目には映らないが、妖しのものを見る力を持つ者はまれに存在する。そのため普段から、人目のある場所ではあまり宙に浮いたりしないよう言い聞かせているのだが、今は夜更けで出歩く人も少ない。放っておいても問題ないだろう。
『セイは一人ではないから、大丈夫だ』
「なんだい、突然」
 言われた意味が分からず聞き返してみると、奏太は少し考えたのちこう続けた。
『一人の男が殺されるのであれば、セイは一人ではないから、殺されない』
 数秒の後、先程の怪談であった、「独り身の男性はあの世へ連れて行かれる」という話のことだと見当がついた。思わず笑みが零れる。
「奏太、独り身というのは人数のことではなく、結婚していない人のことを言うんだよ」
『……では、大丈夫ではないのか』
 普段からあまり表情を変えない奏太だが、眉根を寄せて少しばかり不安げな顔を見せた。清はますます笑みを深くし、癖っ毛の強い頭をぽんぽんと優しく叩く。
「おまえがいれば大丈夫だよ」


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