其の二


 泣き止まない妙子を家に上がらせ、すっかり冷めてしまったお茶を飲ませる。お茶を飲んで一息つくと少し落ち着いたようだが、泣きすぎたせいかすぐには涙が止まらない。ひくりひくりとしゃっくりを繰り返す小さな背を撫でてやりながら、清は妙子の様相に眉をひそめていた。足元は泥だらけ、転んだのか膝には擦り傷ができている。着物や髪には砂や蜘蛛の巣がついている。一体何をすればこれだけ汚れるのだろうか。
「妙ちゃん。誰かにいじめられたの」
 清がそう問うてみると、妙子はぶんぶんと勢いよく首を横に振って否定した。
「泣いてるだけじゃ何があったのか分からないわ。妙子、お母さんたちに教えてちょうだい」
 濡らした布巾で妙子の顔を拭ってやりながら、文子も優しく声をかける。妙子は清にしがみついたまま母を見上げ、泣きすぎてがらがらになった声で、つっかえながらも自分が見聞きしたできごとを話し出した。
 幽霊とか妖怪とかいう類のもの、この世とは別の世界に存在するものは、誰の目にも触れるわけではない。子供の頃にはそういうものを見ることができていても、多くの人は大人になるにつれて無縁になっていく。自分の身に実際に起きた不可思議な体験についても、あれは子供の幻想、勘違い、ただの夢だったのだろうと片付けてしまう。町外れにある廃屋へ忍び込み、そこで恐ろしい体験をしたことも、彼らにかかれば怖がりな子供の作り話と一笑に付されることだろう。
 だが、この家では事情が違う。妙子の話を聞いた清の顔が険しさを帯び、それを見た文子の方は不安の色を濃くする。彼らは妙子の話を一切疑うことはしなかった。
「清さん」
「妙子ちゃんには妖しのものは憑いてきていません。安心してください」
 清がきっぱりと言い切ると、文子がほっと胸を撫で下ろす。だが清の表情は晴れなかった。
「ですが、男の子が一人残されているとすると、かなりまずい状況ですね。すぐに迎えに行ってきます」
「だめ!」
 言うが早いか清は立ち上がる。手を離された妙子は慌てて彼に追いすがり、行かせまいと足にしがみついた。突然のことに反応できず、転びそうになる清を見て文子もまた慌てる。
「こら、妙子」
「お兄さんは行っちゃだめ!」
 文子が宥めるように背中を叩いても、妙子はいやいやと首を横に振るばかりで離れようとしない。
「妙ちゃん、手を離して。お友達を見つけたらすぐに帰ってくるからね」
 清も優しく声をかけるが、それでも妙子は震える手に力を込め続けた。肩が震えぐすぐすと鼻をすする音が聞こえる。止まりかけていた涙がまた溢れてきたようだ。
「妙ちゃん」
「だめ……」
 清が頭を撫でてやると、妙子は少しだけ抱きついている手の力を緩めたが、弱々しい声はまだ拒絶の意思を示していた。そろそろ怒らなくてはいけないだろう、という顔をした文子が声を荒げようとする。清はそれをそっと制すと、もう一度妙子に笑いかけた。
「大丈夫だよ。もし悪い霊が襲ってきても、僕がやっつけてしまうから。だから安心して待っていて」
 清の手が固く握りしめられた小さな手に重ねられる。妙子は答えようとせず泣き続けていたが、それ以上は抵抗しようとせず清の手に促されるまま彼の着物から手を離した。すかさず文子が後ろから娘を抱きかかえる。清も身を翻すと、足早に戸口へと向かった。背後からわっと泣き声があがる。気にならないわけではないが、今は怪異の真っただ中に取り残された子供の方が優先だ。


 西の空にはまだ赤みが残っているが、既に日が落ちた町外れの道は闇に包まれ始めていた。商店街を初めとした町の中は街灯の光で温かく照らされているが、その光も少し道を外れただけで途端に届かなくなる。火を入れた石油ランプをかざしながら清は夜道を急いだ。
 件の空き家の存在は以前から知っていたのだが、詳しく調べたことはない。いつから人が住まなくなったのか分からないほど古いボロ屋なのだ。取り壊す話にでもなれば別だが、まさかあんな所に人が立ち入ることはないだろうと気にも留めていなかったのだ。
『セイ』
 ふと少年の声が聞こえる。頭の中に直接響くような不思議な声の持ち主は、清の眼前でランプの灯りの中にふわりと浮かび上がるように姿を現した。小袖を着た五歳ほどの幼い少年だ。まとまりなく跳ねる癖毛に縁どられたあどけない顔は、年に似合わず全くの無表情である。何よりも不可思議な点は、その少年の顔が、清のそれと同じくらいの高さに見えることであった。少年の体は宙に浮いているのだ。
「奏太、様子はどうだった」
『奥になにかいる』
「子どもはいなかったかい」
『外からでは分からない』
 少年は人間ではない。清に仕える使役霊だ。夜の闇の中では目立たないが、木の枝と同じ赤褐色の髪と緑色の瞳を持っている。奏太、と呼ばれた使役霊は、清の走る速度に合わせてゆらゆらと宙を漂いながら、目線だけを空き家の方へ向けて少しだけ顔をしかめた。暗くてよく分からないが空き家はもうすぐそこのはずだ。奏太が何かいると言うのであれば、本当に何かよからぬものがいるのだろう。使役霊が主に対して嘘をつくことはない。だが、目の前までやってきても、妖しのものの気配は感じられなかった。
 屋根瓦はあちこち崩れ落ち、木材が露出している。雨戸には釘が打たれ開かないようにしてあるが、風雨にさらされ傷んでしまっている。力を入れればこじ開けることも可能だろうが子供の力では無理だろう。清は伸び放題の雑草をかきわけながら子供たちの侵入経路を探した。
『セイ、こっちだ』
 地面に降り立った奏太に呼ばれて行くと、彼の指し示す先に草を踏み倒したささやかな道ができていた。行きと帰りで子供たちがつけたいくつもの足跡が重なり合っている。足跡はまっすぐ民家の戸口へつながっていた。雨戸と同じようにすっかり風化した木戸は下半分に大きな穴が空いており、桟から外れて今にも倒れそうに傾いでいる。木戸のすぐ下は子供たちに踏み荒らされていた。
 彼らはこの木戸に開いた穴から侵入したのだろうが、清がくぐるには少し小さい。傾いでしまっている木戸は普通に開けることもできず、いっそ外せないかと試しに手をかけてみる。ぎしぎしと嫌な音を立てた木戸は案外あっさりと外れてしまい、清は倒れかかってきたそれを支えるとすぐ横の壁へ立てかけた。暗い家の中へまず石油ランプをかざし中の様子を窺う。土間の突き当たりには埃の積もったかまどがあり、右手には炊事場と食品を保存する壺がいくつか並んでいる。子供たちが物色した形跡は残っているが、至って普通の空き家だ。
 清が入り口をくぐると、石油ランプの火が強風にあおられたかのようにゆらりと大きく揺れた。思わずランプへ視線を落とすも、辛うじて火は消えていない。風もないのに不安定に揺れる小さな炎をしばし見つめて、清はすぐ傍に控える奏太と目を合わせた。奏太は不快そうに顔をしかめている。どうやら清と同じものを感じ取っているようだ。
 誰かの視線を感じる。どこから、とまでは分からない漠然とした感覚ではあるが、見られていることは間違いないだろう。
 清は土間の上でぐるりと一周屋内を見渡す。二階へ上がるための梯子は腐りかけており、使われた形跡はない。土間から見て一番手前の部屋へつづく障子戸だけが、他のものに比べてやたらと汚れている。紙が破れ、小さな手形と足跡がいくつもついていた。子供たちに倣って土足のまま板間へ上がり、警戒しつつ障子戸に手をかける。予想に反して、戸はすんなりと開き彼を招き入れた。畳の敷かれた部屋の中は綺麗に片付いており、ぽつんと置かれたちゃぶ台の周りには子供たちの足跡がいくつも残っている。清が敷居をまたいだ途端、背後で障子戸が勢いよく音を立てて彼を部屋の中へ閉じ込めた。清は動じることもなくちらりと閉じた障子を振り返り、妙子から聞き出した話を思い出す。恐らくこの部屋が子供たちの閉じ込められたという場所だろう。それならば逃げ遅れた少年もここにいたはずだ。
 奥の部屋へ続いているであろう障子戸に手をかけるが、まるで戸の模様に塗られた壁のようにびくりともしない。清は一旦手を離すと懐から手のひら大の大きさに切った短冊型の紙を取り出した。紙には奇怪な文様と古語が筆文字でしたためられている。拝み屋として生計を立てていた父親から受け継いだ術の一つだ。短冊を口に当ててぶつぶつと呪文を唱え、動かない障子戸の取っ手部分に貼りつける。ばちっと目に見えない火花が散ったような感覚が指先に伝わり、障子戸はそれきり音も立てずにすうっと横へ滑り清を通した。道が開けた代わりに、あちこちから感じる視線が一際強くなったように感じる。だが清はそれに構わず奥の部屋へ足早に駆け込んだ。
 踏み込んだ部屋の中は前の部屋と同じように、日用品などはほとんど残されていない。寝室として利用されていたのか、部屋の隅に薄い布団がいくつか重ねられているだけだ。前の部屋と同じように敷かれた畳の上は埃だらけである。そして、その埃まみれの畳の上に、十歳ぐらいの少年が一人呆けた顔で座りこんでいた。
「大丈夫かい」
 清に声をかけられても少年からの返事はない。目は開いているが焦点が合っておらず、口も半開きで涎を垂らしている。肩を揺すってみても反応はなかった。幸いなことに怪我はないようだが、怖い目にあって放心しているというには様子がおかしい。早く連れ出さなければいけないと、清は少年の手を引いた。赤子のように抱きかかえられる年の子ではないため、自分の足で歩いてくれなければ連れ帰るのも難儀するだろう。
「立てるかな」
 相変わらず少年からの返事はないが、清が立ち上がるのに合わせて少年ものろのろと腰を上げた。そうかと思えば、腰を中途半端に曲げた変な姿勢のままぴたりと動きを止める。どうしたのかと、顔を伏せたまま動かなくなった少年の顔を覗き込んだ瞬間、俯いていた少年がくわっと目を見開き清に掴みかかった。左肩と右腕を掴まれ、飛び掛かる勢いのままに畳の上で押し倒される。
『セイ!』
「止めなさい!」
 奏太からぶわりと殺気が膨れ上がるのを感じ、清は鋭く制止する。顔を見ずとも分かるほど怒りの感情を溢れさせ、それでも奏太は発動させようとしていた術を止めた。使役霊にとって主の命令は絶対である。そして絶対的存在であるからこそ、主の身の危機とあれば相手が妖しのものであろうと町の子供であろうと容赦はない。
 意識が奏太の方へ逸れた一瞬のうちに、清の頭は重い衝撃を受けた。鈍い痛みに視界が歪む。馬乗りになった少年は呆けた顔をしたまま、何かを握りしめたような形をした右手を振り上げた。清は腕を上げて頭を庇おうとするが、右腕は少年の左手に押さえつけられており動かせない。左腕だけで抵抗しようともがいているうち、少年の右腕がまっすぐ振り下ろされた。衝撃に意識を飛ばす直前、何もなかったはずの少年の右手に欠けた徳利が握られているのを清の目はとらえた。


 ふと気が付くと、清は見覚えのない広い部屋の中に立っていた。見覚えがないとは言っても、空き家の外へ出たわけではないだろう。天井が屋根と同じ三角形になっているところを見るとここは二階だろうか。一階とは違い、部屋を分けず一続きの空間にしていたらしい。板張りの床の上には藁が散らばっており、土がついたままの農具や網掛けの藁草履などがあちこちに落ちている。二階は作業場兼物置として使われていたのだろう。奥の方には機織り機まであった。これを二階に引っ張り上げるのはなかなか大変だったのではないだろうか。そんなことを考えて近付いてみると、機織り機の影に隠れるようにして小さな戸があるのに気付いた。まだ部屋があるのか、そう思いつつ戸を開けて中の様子を窺う。
 部屋の中は驚くほど狭かった。二畳分、いやもっと狭いだろうか。その狭い部屋の中には明り取りのための窓などもなく、空気は澱んでいる。何かが腐ったような嫌な臭いがして、清は思わず咳き込んだ。暗くて臭い身の毛もよだつようなその空間へ、息を止めながらも清は足を踏み入れる。
 狭い部屋の中、奥の壁に背をぴたりとつけて、少年が一人うずくまっている。小さな体をがたがたと震わせ、両腕で頭を守るように抱え嗚咽を漏らしている。清が助けようとしているあの子供だ。大丈夫か、と声をかけようとするが、どうしても喉から声が出ない。声をかける代わりに、震える頭をできるだけ優しく撫でてやると、少年は雷に打たれたようにびくりと大きく体を跳ねさせ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で清を見上げた。


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