其の一


 日差しがやわらぎ、西の空は真っ赤に染まる。日が長い夏の日とはいえ、もうじき人の見分けも付けられない黄昏時になろうかという時であった。町外れにひっそりとたたずむ朽ち果てた一軒の民家の前で、数人の子供たちがわいわいと賑やかな声をあげていた。幼い子供というものは総じて冒険心に溢れている。この子供たちもそれは例外ではなく、彼らは今からこの未踏の廃屋の中へ踏み込もうとしているのであった。俗に言う肝だめしである。
「ね、ねえ、やめようよ……」
 興味津々に廃屋を覗き込んでいる子供たちの一番後ろで、妙子はそう声をかけた。近所の友達に肝だめしをするからと誘われたまではよかった。今までにも何度か肝だめしと称して近くの神社や墓地をうろついたことはあったし、大人に見つかって怒られはしたものの、本物の化け物や幽霊に出くわすようなことはなかったからだ。だが、今回ばかりは、嫌な予感がひしひしとする。
 この辺りのお社、お寺、お墓といういかにも幽霊の出そうな場所は、どこもきちんと人の手が行き届いている。人が忘れることなく心をこめて供養しているなら、滅多なことで祟ったりはしないものだ。そう教えてくれたのは、同じ長屋のお隣に住む「その道の人」である幼なじみのお兄さんだ。そして、お兄さんの言に従うならば、人の手が入らなくなって久しい廃屋には、どんな恐ろしいものが住みついていても不思議ではない。
「じゃあ、お妙ちゃんだけ、ここで待っていたら」
 妙子の恐怖は他の子供たちには伝わらなかった。皆、廃屋が気になって仕方がないという様子で素っ気ない言葉が返ってくる。
「どうするの、もう行くよ」
 子供たちの中でも少し年上の女の子だけが振り返り、優しくそう尋ねた。妙子は震えだした唇をきゅっと噛み締め、信子というその女の子が差し出してくれた手を取る。行くのは恐ろしいが、黄昏時の中に一人置いて行かれるのも恐ろしい。妙子に選択肢はなかった。
 木でできた出入り口の戸は下半分に大きく穴が空き、桟が折れて斜めに傾いでいる。子供たちはその穴をくぐり抜けて廃屋の中へと侵入した。土間には古びたかまどがあり、埃をかぶった鍋や茶碗などの食器が並んでいる。予想していたよりも整頓されており、長い間放置されているとはいえ、確かに人が暮らしていたのだということが分かる。戸口のすぐ近くには二階へ上がるための梯子が置かれていたが、木製の梯子は腐りかけていた。少年の一人が梯子に手をかけると、みしみしと不吉な音を立てたため、二階の探索は後回しにしようということになった。
 土間には子供たちの好奇心を満たすようなものはなく、更に奥の方まで進もうということになる。埃と砂にまみれた床を裸足で歩く気にはなれず、土足のままであがりこみ破れてしまった障子戸を開けた。そこは居間だったのか、畳の部屋の真ん中にちゃぶ台が一つ置かれている。だが、それだけだった。住人が家を去る時に持ち出したのか、ちゃぶ台以外には何も残されていない。少年たちはつまらなそうに、更に奥の部屋を目指そうと襖に手をかけた。
「あれ、開かないぞ」
 少年が首を傾げる。かわるがわる試してみるが、誰が引いても襖はびくともしなかった。奥の部屋で何かがつっかえてしまっているのだろう。
「ちぇ、つまんねーな」
 せっかく忍び込んだというのに、面白いものは何も見つからない。不満げな少年たちはどうにかして奥へ行けないかと、襖を叩いてみたり隙間を覗き込んだりしている。妙子は信子の手を握りしめながら、早く諦めて帰れますようにと一心に祈っていた。
「あ」
 ふと、隙間を覗き込んでいた少年が声をあげた。変に強張った表情で、首を、目線を動かさぬまま、よろよろと後ずさる。
「どうしたんだよ」
 別の少年に尋ねられると、彼は震える手で襖の間の隙間を指さした。
「だ、誰か……誰かいる」
 子供たちの視線が襖の、奥の部屋の方に集中したその時だった。彼らが侵入してきた土間に通じる破れた障子が、ぴしゃりと音を立てて勢いよく閉まったのだ。それは入口近くに立っていた妙子のすぐ後ろで起こったので、妙子は飛び上がらんばかりに驚いた。うろたえながらも障子を開けようと手をかけるが、襖と同じくこちらも全く動かすことができない。半泣きになった妙子に変わって少年たちが障子を引こうとするが、それでも開かなかった。
「どういうことだよ、さっきは開いたのに」
「それよりどうして勝手に閉まったんだ。まさか」
「ねえ、誰かって、誰がいるのよ」
 子供たちは徐々に落ち着きをなくしていく。少女の一人が、まだ襖とにらみ合ったままの少年の肩を揺さぶった。少年は呆然としたまま答える。
「お、女の人」
「だから、どうしてこんな所に女の人がいるのよ!」
 少女が感情的に喚く。その直後、部屋全体ががたん、と音を立てて大きく揺れた。子供たちは皆一様にびくりと震え口をつぐむ。
『出ていけ』
 しわがれた女の声がどこからともなく聞こえた。すぐ耳元でささやかれているようであり、遠くから聞こえてくるようでもある、得体の知れない不気味な声だ。誰一人それに反応することができず凍り付いたように固まっていると、女の声は苛立ちをあらわにする。
『出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ出ていけ』
 女が声を荒げるのと同じく、部屋全体もが、たがたと大きな音を立てて揺れ出した。まるで大入道がこの家ごと子供たちを潰してしまおうとしているようだ。そんなことを考えてしまうと、妙子はもうそれ以上耐えられなかった。汚れた畳の上にへなへなとしゃがみこみ、両手で頭をかばうように覆い、きつく目を閉じてこらえきれない嗚咽と涙をこぼす。恐怖の余り声が出ない。喉が痙攣するように震えて、潰れた蛙のようなおかしな泣き声になっていた。他の子供たちも反応は違えど似たような状態で、妙子のように震えて泣くしかできない子、とにかくめちゃくちゃに叫び続ける子、どうにかして脱出しようと障子を壊さんばかりの勢いで叩く子と、皆が皆恐怖に支配されている。
「開けよ! 出ていく、出ていくからあ!!」
 障子戸を叩く少年も、今にも泣きだしそうになっていた。薄くて簡単に壊れそうに見える障子だが、叩いても蹴ってもびくともしないのだ。障子の模様に塗った壁なのではないかと思うほどだ。焦れた少年は途中から体当たりを始めるが、ぶつかる体が痛いだけで障子はちっとも動かない。
 子供たちの泣き声、『出ていけ』と喚く声、脱出しようと暴れる音と、騒音が混ざり合って混沌とした中、妙子の耳が偶然その言葉を聞きつけた。
「たすけて、お母さん」
 妙子はうずくまったままほんの少しだけ顔を上げる。声の主はすぐ近くで同じように小さくなっている同い年の少年であった。一瞬遅れて、妙子はなぜ自分が顔を上げることができたのかに気付く。女の声が止まったのだ。部屋全体の揺れもぴたりと収まってしまった。
「壊れたぞ!」
 がたんがたん、とまた大きな音を立てて、外れた障子戸ごと土間に落っこちた少年が叫んだ。子供たちは我先にと駆け出し外へ逃げ出す。妙子は出遅れそうになったが、ずっと隣にいてくれた信子が彼女の手をむんずと掴み、引きずらんばかりの勢いで外へ引っ張り出してくれた。
 壊れた戸口の穴をくぐり家の外へ出ると、涼しげな夜の空気に包まれる。子供たちは一度も廃屋の方を振り返ることなく、一目散に町へと逃げ帰っていった。妙子も同様に、痛いほど強く手を握る信子について町へ戻る。すでに日は落ちており、畦道に何度も足を取られながら走る中で、妙子は母に助けを求めていたあの少年だけが一緒に逃げていないことに気付いたが、もはや戻ることはできなかった。

 その頃、とある狭い長屋の一室で、一組の男女が少し遅めの夕食の準備をしていた。男の方はまだ少年だ。壁に寄せて立てかけていた飯台を部屋の中央に置き、三人分の箸を並べる。次にお櫃のご飯を茶碗に盛る。それも終わると、今度はお湯が沸いたばかりの薬缶を火から下ろし、慣れた手つきでお茶を淹れ始めた。欠けた急須の中の茶葉は既に何度か使いまわされたものであり、湯のみのお茶はほとんどお湯に色がついただけのようなものである。だが少年はそれを気にすることはない。彼の心は別のところにあるようで、ちらちらと戸口の方を見ては落ち着かなげにしていた。
 そしてそれはもう一人も同様であった。こちらは大人の女性であり、土間に立って味噌汁をかき混ぜている。夕食の支度は随分前にあらかた終えてしまっていた。味噌汁の入った鍋の隣には、とれたての茄子に味噌をつけて火であぶった田楽もできあがっている。それなのに、彼女の娘はまだ帰ってこないのだ。いつも暗くなる前にはちゃんと帰ってくる聞き分けのいい子供なのに。外の暗さが増すにつれ、母親の胸の内の不安も増していくようだった。
 少年は自分にできる手伝いを全て終えてしまうと、ぼんやりと戸口を見つめている女性を心配そうに見やり、こっそりため息をついた。
「文子さん、僕、探してきますよ」
 文子、という名の母親とこの少年は家族ではない。ただこの狭い長屋で、たまたま隣同士の部屋に住んでいるだけだ。少年は幼い頃に母親を亡くし、父親と二人暮らしであった。そして文子とその娘もまた、父親を亡くして二人暮らしをしていた。両家が助け合うことになるのは必定だろう。少年の父親が亡くなった昨年からは特に付き合いが深くなり、最近ではほとんど毎日こうして食卓を一緒に囲んでいる。少年にとっては、血のつながりがなくとも文子は親に等しい存在であり、文子の娘は妹のようなものだ。
「清さん、でも、妙子ももうすぐ帰ってくるでしょうし。行き違いにでもなったら」
「僕は男ですから大丈夫ですよ。辺りを少し探してみて、見つからなかったら一度戻ってきます」
 遠慮する文子に軽く笑いかけて戸口へ向かえば、文子はそれ以上止めようとはしない。やはり娘が心配なのだろう。
 まずは子供たちがよく遊んでいる原っぱやお社の辺りを探してみよう、と考えながら戸を開けた清の足元に、勢いよく何かがぶつかってきた。
「わっ」
 たたらを踏んだ清は、腕の中に飛び込んできたものを見下ろし、一拍置いて苦笑する。
「妙子、こんなに遅くまでどこへ行っていたの」
 怒りを含んだ声色とは裏腹に、ほっとした表情を見せながら文子が小走りに近寄ってくる。妙子は返事をしなかった。ぶつかった相手が清だと分かるや否や、わあわあと大声を上げて泣き出したのである。顔中が涙でぐちゃぐちゃになっているということは、家に帰りつくまえから泣いていたのだろう。清の顔を見て緊張が緩んだというところだろうか。
「妙子ちゃん、どうしたの。何があったんだい」
 小さな背をあやすように叩いてそう問うが、妙子は嗚咽を漏らすばかりで答えることができない。清は困り果て、文子と顔を見合わせて肩をすくめた。


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