其の三


 右の足首に感じた痛みの正体はやはり捻挫だった。突き飛ばされて体勢を崩したまま転んだことと、折り重なって倒れた高藤君の体重がかかったことが原因だろう。とはいえ松葉杖をつくような大袈裟なものではなく、私に施された処置は足首をぐるぐると固定する包帯を巻いてもらうだけだった。痛みと包帯のせいでぎくしゃくした歩き方にはなるが、足を引きずって歩くことはできる。
 学校の方へは、高藤君のことも含めて病院の方から連絡してくれることになった。頭の怪我というのは外から見て大したことがなくとも、脳が傷ついている可能性があるから恐ろしいのだ。特に今回は気を失うほどの衝撃を受けたということで、大事を取って一晩入院することになるだろう、と私に包帯を巻いてくれた若い看護婦が教えてくれた。
 隣の処置室で一通りの検査を終えた高藤君は、目を覚まさないまま四人用の病室へ移された。彼と同じように短期間だけ入院する人たちのための病室なのだろう、ベッド周りのスペースは狭く簡素な造りである。他の三つのベッドは無人だ。気になってついてきてしまった私は居場所がなく、見舞い客用の簡易椅子をたぐり寄せると入口の戸の近くに腰を下ろした。医者や看護婦たちが車椅子からベッドの上に高藤君の体を移動させる。彼の体型は中学一年生という年の割には小柄な方だが、意識を失っている人を抱きかかえるのはなかなか大変なようだ。頭を打ったときは不用意に体を動かしてはいけないというから、余計に慎重になっているのだろう。医者はベッドに移った高藤君の様子をもう一度確かめてから、入口にいた私に目を留める。
「もうすぐ学校の先生や家の人が来るからね。それまでにこの子が目を覚ましたり、様子がおかしくなったりしたら、すぐに誰か病院の人を呼んでくれるかな」
 そう言うと医者は病室を出て行った。二、三人いた看護婦たちもシーツを整えたり窓を開けて空気を入れ替えたりしていたが、仕事がなくなると慌ただしく出て行ってしまった。
 病室に私と高藤君の二人だけになると、自然とため息が漏れた。戸に手をついて立ち上がると、右足と簡易椅子を引きずりながら彼のベッドのそばへ向かう。窓辺のベッドの中の高藤君は穏やかな顔で眠っていた。いつもかけている黒縁の眼鏡が外されているからか、なんだか別人のように見える。私は簡易椅子に腰を下ろし、ベッドのふちで頬杖をついた。
「ハルはもう少し、しんちょうに、なるべきです」
 突然、背後から舞衣の声が聞こえた。ぱっと振り返ると、私のすぐ後ろに何故だか驚いた表情の舞衣が立っている。いつの間に入ってきたのだろう。戸が開く音も足音も聞こえなかったけれど。
「えっと、舞衣ちゃんも、お見舞いに来たの?」
「いいえ。ワタシはずっとトーコのそばにいました」
 舞衣がにこりと笑う。その発言の意味が分からず、私は彼女を見つめ返した。
「トーコにワタシが見えるのなら、ハルももうすぐ目をさまします」
 舞衣はそう言いながら歩み寄ってくる。二、三歩ほども足を進めれば私とぶつかるような近い位置にいるのに、彼女は私の存在が目に入っていないかのように、速度を緩めない。怪我した足に舞衣の小さな足がぶつかりそうになったのを見て、思わず腰を浮かしかける。
 だが、次の瞬間、舞衣の体は私の体をするりとすり抜けたのだった。
 思考が停止する。ぽかんと間抜けに口を開けたまま振り返った私の目に飛び込んできたのは、高藤君のベッドの上にふわりと浮きあがった舞衣の姿だった。どこか寂しそうな顔で微笑むまだ幼い少女の体の向こうに、窓辺で風に揺れるカーテンが透けて見える。
「だまっていて、ごめんなさい。ワタシは霊なのです」
「れい、って」
「ユーレイのことです」
 何度瞬きをしても、舞衣の体は透き通ったままだった。信じられない。ありえない。私はまた夢を見ているのだろうか。それとも幻覚か。生きた人間が宙に浮いたり半透明な体を持ったりするはずがない。映写機かなにかで幽霊に見せかけているとも思えない。
 考えてみればこの少女は出会ったときから神出鬼没だ。突然現れたり消えたりする。単なる見間違えや白昼夢ではなく、本当に現れたり消えたりしていたというのだろうか。嘘だ。そんなこと現実にあるはずがない。幽霊が本当に存在するだなんて。
「うそ」
「うそではありません。トーコにきらわれるから、だまっていました。ワタシは死んだスズメの霊です」
「すずめ? すずめって、鳥の?」
 舞衣は目を伏せて、するりとベッドの上にまで下りてきた。一見するとベッドの上に腰かけているように見えるが、その体は相変わらず半透明なままであるし、本来なら体重の分沈むはずの布団は皺が寄ることもなくふっくらとしている。舞衣が小さな手を私の目の前にそっと差し出した。無言のままにそう促された気がして、私も自分の手を差し出す。確かにそこにあるはずの掌には、やはり触れることは叶わなかった。
 すずめ、と口の中で繰り返しながら舞衣の顔を見つめる。半透明であること以外は普通の子供にしか見えない。彼女の言うことが本当ならば、その薄茶色の髪と目の色は外国の血が入っているというわけではなく、鳥としての姿の名残だろうか。
 昨日彼女から幽霊が嫌いか、と尋ねられたことを思い出す。あの時は、まさかそんな直接的な意味とは思わなかった。呆然と、私の腕から生えたようになっている小さな手を見つめる。私は今、幽霊の腕の中に自分の手を突っ込んでいるのだ。そんな馬鹿なことがあるわけない、けれど、これは夢じゃない。夢であっていいはずがない。だって、幽霊が本当に存在するなら、どうして――。
 私はぶんぶんと首を振った。心臓の鼓動がやけに大きく響いている気がする。知らず知らずのうちに呼吸が荒くなっていたことに気付き、私は口元を押さえて俯いた。舞衣が心配そうに覗きこんでくる。
「トーコ、だいじょうぶですか」
「平気、なんともない」
 今度はそっと首を振り、どうにか気を落ち着かせると顔を上げた。本物の幽霊だとしても、舞衣は危険な存在には思えない。害がないのなら、生きていようが死んでいようが、こんな小さな女の子を不安がらせたくはなかった。
「舞衣ちゃんが幽霊で、触ることができないんだったら、踏切でどうやって私の手を引いてくれたの」
「さわることもできます。ハルの力がひつようなので、いまはできません」
 舞衣はそう言うと、ベッドの中の高藤君に優しい視線を投げた。
「ワタシはハルにおつかえする使役霊です。『こちら』の世界に住まうものと『あちら』の世界に住まうものが、いさかいなく暮らしていけるようにするのが、ハルのおしごとです。ワタシはそのためにハルの手足となるのです」
「えっと、ごめん。意味がよく分からないんだけど」
「……うちの家は、拝み屋だ」
 二人の会話に割り込んできた少年の声を聞いて、私も高藤君の方を向いた。いつの間にか目を開けた高藤君が天井を見上げている。
「ハル!」
 舞衣が嬉しそうに彼の名前を呼んで、胸元へ飛び掛かるように抱きついた。随分大胆な動きをするなと思ったが、幽霊である彼女には質量がないので、飛び付こうが飛び跳ねようが下にいる高藤君に負担はかからないのだ。高藤君は布団の中から手を出して舞衣の頭をぽんぽんと叩く。彼の手は少女の体をすり抜けないようだった。
「うちの家は代々拝み屋を継いでる。最近じゃ少なくはなったけど、呪われた人形の供養だとか、事故が多い工事現場での祈祷とか、そういう『あっちの世界』との揉め事の仲裁をしてるんだよ」
「あっちの世界、ってなに」
「黄泉の国みたいなもの。厳密には違うけど……。要するに、妖怪とか霊とかが関係してくる厄介事を解決するのがうちの仕事だ。こいつは動物霊だけど、使役霊として僕の手伝いをしている」
 高藤君はゆっくりと上体を起こした。ぶつけた後頭部が痛むのか、顔をしかめ頭を手で押さえている。
「舞衣、眼鏡は」
「せいふくのポケットの中です。実体化してくださればとれますよ」
「分かったから下りろ」
 下りろ、と言われた舞衣は素直に高藤君から手を離すと、ふわりと浮きあがりベッドを挟んで私と反対側へ移動した。そして私が瞬きをした間に、半透明だった彼女の体は透けていない現実のものへと変わっていた。地に足をつけた舞衣はベッド脇に置かれていた荷物を探り、学生服を取り出すとポケットに手を突っ込む。そして黒縁の眼鏡を高藤君に手渡した。
 その光景を呆然と見ていた私に気付くと、舞衣はにこりと笑ってベッドを回り込み、私の目の前までやってきた。私の手を握る。今度は確かに触れることのできる、質量を持った少女の手であった。
「ハルの力があればさわることもできます」
「舞衣」
 二の句が告げずにいる私には構わず、眼鏡をかけた高藤君は舞衣を呼ぶ。舞衣はすぐに振り向き高藤君の元へ戻った。まるで飼い主に従順な犬のようだ。
「おまえ、どこまで話したんだ」
「ハルのおしごとのことです」
「霊体だって知られたくないんじゃなかったのか」
「だって、うそつきはよくないことです」
「はいはい」
 高藤君は舞衣の頭を撫でると、面倒くさい、と言わんばかりの顔で私を見る。
「萱島、地縛霊の話は聞いたか」
「じ、じばくれい? いいえ、まだ」
「あの踏切には地縛霊がいる。おまえが踏切で立ち往生したのも、今日僕たちが怪我したのも、そいつの仕業だ」
「は……」
 突然の話題についていけない私をよそに、高藤君が語ったのは以下のようなことであった。
 今からざっと十年ほど前にあの踏切で事故が起き、ある男性が汽車に轢かれて亡くなった。強い未練があったのか突然の死による衝撃が大きすぎたのか、彼は踏切に縛られて成仏することができなかった。地縛霊となったのだ。
 地縛霊とひとくくりに言っても、霊によってその性質はさまざまである。強い恨みを抱いて死んだがために、巷に溢れる怪談のように生きた人間に害をなすものもいれば、ただぼんやりとその縛られた地に留まるだけの無害なものもいる。踏切に縛られた地縛霊は、どちらかと言えば後者に近かったという。
「『こちら』に害をなす霊は放っておくわけにはいかないから、祓うこともある。でも害をなさないものなら基本的には成仏するのを待つんだ。生きた人間とは時間の流れ自体が違うけど、霊も少しずつ辛いこと悲しいことを忘れていく。そのうちに、自分の魂をそこに縛りつけているもののことも忘れてしまう。そうなれば、後は僕たちがちょっと手助けしてやれば、無理に祓わなくたって成仏して輪廻に戻れる。逆に、まだ未練が残っている状態で変に刺激してしまうと、向こうにその気がなかったのに悪霊化させてしまうこともある」
 高藤君はそこで大きくため息をついた。
「今回おまえがやったのはそういうことなんだよ」
「そういうことって、どういうことよ」
 私はほぼ反射的に言い返していた。高藤君の話の内容はいまいち理解できなかったが、自分が責められているらしいことはすぐに分かったからだ。眼鏡越しの黒い瞳にキッと睨まれ、私も負けじと睨み返す。二人の間に挟まれた舞衣は高藤君の腕に抱きつくようにしながら、心配そうになりゆきを見守っていた。
「今まで十年間おとなしくしていた地縛霊が急に人を襲いだして、悪霊になりかけてるんだ。きっかけがないわけがない。僕は父さんに言われてずっとあの踏切を見張ってきたけど、あの霊が襲ったのは今のところ萱島だけだ」
「そんなの知らないわよ。私が何をやったっていうの。私は霊感なんてないし、幽霊を見たこともないのに」
「は?」
 高藤君の黒い瞳が丸く見開かれる。本気で驚いている顔だった。
「おまえ何言ってるんだ。霊を見たことがない? 舞衣の姿は見えてるのにか」
「えっ」
「じゃあ萱島、おまえ自分の後ろにいる、萱島のお父さんのことも知らないのか」
「ハル!」
 がたん、と大きな音がした。視界で舞衣がびくっと震えたのが見えて少し申し訳なく思う。勢いよく立ち上がった自分の足が簡易椅子を倒したのだと分かったのは驚いた顔で私を見上げてくる高藤君と目が合ったときだった。
 私は彼を、思いつく限りの言葉で罵倒しようとした。彼が言ったのは私にとって一番許せないことだ。それでも、開いた私の口からは何の言葉も出てこなかった。喉をきゅっと絞められたみたいに声も空気も通らない。それでいて吐きそうなほどの気持ち悪いなにかが胸の中にせり上がってくる。ひゅ、と喉が嫌な音を立てた。
 ふざけたことを言う。死後の世界とか幽霊とか、そういうのは全て生きた人間の作り上げた妄想なのだ。死んだ人間は火葬されて白い骨の欠片になって墓の下に眠るだけだ。人間だったころの感情なんかどこにも残りはしないのだ。脳みそも神経も全て燃えてなくなってしまったのだから。そう、だから幽霊なんかいない。死を受け入れられない人間が自分の心を守るために生み出したただの幻想なのだ。そうでなければいけない。だって、もしも幽霊が本当に存在しているとしたら。
 どうしてお父さんの幽霊は私に会いに来てくれないのよ。




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